断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える
第5話 証言台の弟
八日後、王都高等法院の入口廊下は裁判の匂いに満ちていた。雨を含んだ石壁から冷たい湿気が立ち、黒い法衣の者たちが足音も抑えて行き交う。リゼリアは濃紺のドレス姿で、アルノートの半歩後ろを歩いていた。左の三つ編みは銀の飾り紐でまとめ、こめかみの火傷跡は前髪の下に隠れている。すれ違う書記官の一人が彼女を振り返り、すぐに目を伏せた。昨夜から降り続いた雨の名残が、廊下の石目に細かく光っている。裾が湿るその感覚が、かえって足元を確かにさせた。
受付台の向こう、老いた訟務官が二人を目で追った。皺の深い瞼の下で、濁った瞳がリゼリアの装いを品定めするように動き、次いでアルノートの左胸へと移る。彼の指先が、羽根ペンの軸を小刻みに回していた。
「爵位停止審理への出席届と、反論書を提出いたします。添付は北部辺境領調薬官マルタ・ハインツの調薬記録写しです」
リゼリアが差し出した羊皮紙の束を、訟務官は唇を歪めて受け取った。封蝋を順に剥がし、頁を繰る。指が一箇所で止まった。羊皮紙の端に付いた小さな折れ目を、彼は何度も親指でならしている。
「毒物分析記録を、反逆嫌疑の審理に?」
「証拠の連続性を確認していただきたいのです。王都側が押収した毒瓶と、北で採取した矢毒の成分が同じ灯火草香油である以上、保管と移動の記録が公判で必要になります」
訟務官は眉を上げ、隣の若い吏員へ束を渡した。若い吏員が記録台帳へ書き写す。羽根ペンの先が乾いた音を立て、インク瓶の口で二度、軽く叩かれた。審理室は第三法廷。ルイスの証言と同時審理を求める書面は、そのまま裁判長控室へ回された。
アルノートが、初めて口を開く。
「時間は」
「第三法廷は午前の二番です。傍聴は既に満席。被告側は北の貴族席へ」
訟務官の声は素っ気なかった。リゼリアは受理証を受け取り、胸元へ滑らせる。指先がわずかに冷えていた。張り付いた羊皮紙の角が、肌の上で小さく食い込む。アルノートが先に歩き出し、リゼリアはその後ろに続いた。彼の足音はほとんど響かない。なのに、通ったあとの空気だけが、まるで薄い氷の膜を張ったように静まっていく。
廊下の先で、第三法廷の重い扉が開く。
第三法廷は、天井の明かり取りから白い光が差していた。傍聴席の空気は湿り、人いきれで澱んでいる。前列に座る貴族たちの香水が混ざり合い、息苦しいほど甘ったるい。リゼリアは北の貴族席に立ち、正面の証言台を見つめた。
ルイスが立っていた。
八日ぶりの弟は、面差しこそあの夜のままだが、頬の肉が削げ、学園服の襟元が緩んでいる。首筋の線が痛々しく浮いていた。それでも背筋は伸びていた。銀の徽章が、左胸で鈍く光る。リゼリアは唇を引き結んだ。声は出さない。視線だけで、立っていてくれたと伝える。ルイスの指が、証言台の縁を一度だけ握りしめた。指先に青白い筋が見える。
裁判長ベネディクト・ラウエンが、木槌を静かに置いた。痩せた、眼窩の深い初老の男だ。法服の肩には埃がうっすら積もり、動くたびに細かな粒子が光の中へ舞った。
「ルイス・フォン・ヴェルンハルト。聖女セレスティーヌに薬を渡した経緯を、自らの言葉で述べよ」
ルイスは一瞬、姉を見た。喉が上下し、唇が開きかけて閉じる。それでも、彼は顔を正面へ戻した。
「……僕は、姉上を助けたかった。それだけです」
傍聴席の右端で、白い法服をまとったセレスティーヌが身を乗り出した。光が銀の祈り紐を弾いている。彼女の袖が動くたび、周囲の空気がかすかに浄化されるような錯覚を、リゼリアは覚えた。
「お姉さまのための薬、とおっしゃったのよ。私に、そう」
セレスティーヌの声は柔らかく、法廷の隅まで通った。ルイスの肩が、かすかに跳ねる。傍聴席のあちこちから、小さな嘆息が沸いた。
「はい。聖女様が、姉上の心の毒を清める薬を下さるとおっしゃって。僕は姉上を守れると思ったんです」
リゼリアの指が、握りしめたスカートの布へ沈む。縫い目の硬い線が、掌にまっすぐ食い込んだ。違う。その薬は、ルイスが自発的に渡したものではないはずだ。けれど弟の口から「助けたかった」と出たことが、王太子側の狙いなのだ。この陳述が記録に残れば、リゼリアの指示が存在したかのように後から塗り替えられる。
王太子側弁官カイン・ルーヴェンが立ち上がった。若いが、背が高く、片眼鏡の縁が冷たく光っている。黒い法衣の袖口から、銀のカフスがのぞいた。
「裁判長。聖女に届けられたその薬瓶こそ、今回の証拠である毒瓶です。ルイス・フォン・ヴェルンハルトは、姉のために手に入れた薬を聖女へ渡した。つまり被告人リゼリアが、聖女へ毒を盛る意図の下に弟を動かしたと考えるのが自然です」
カインが皮袋から、封のされた小瓶を掲げた。青いガラス、金の栓。リゼリアは目を細めた。前世で法廷に並んだ毒瓶と同じ形。光を受けて、瓶の内側に揺れる液体が一瞬、青白く透ける。だが、あの時と違う。今は、目を逸らさない。過去の光景に重なりかけた視界を、彼女は静かに引き剥がした。
「異議を申し立てます」
リゼリアが一歩前へ出た。北の貴族席の手すりが、彼女の腰の高さで冷たく光る。ベネディクトが片手を上げて、カインを制す。
「被告人に発言を許す」
「証拠の毒瓶と、王宮側の保管移動記録が公判に提示されておりません。押収からこの法廷へ至るまで、誰が、いつ、どこで保管したか。その連続性が欠けたまま、毒瓶と私の結びつきだけを先に立証しようとするのは、証拠の順序を誤らせるものです」
傍聴席がざわめいた。カインの片眼鏡がぎらりと光る。彼は小瓶を掲げたまま、半歩だけリゼリアの方へ体を向けた。
「被告人風情が、証拠の順序を。保管記録の一部が不備なのは、公爵家の圧力で現場が混乱したからだ。その混乱こそ、お前の犯行の証拠に他ならない」
「ならば、不備を生んだ王宮側の記録そのものを法廷が点検すれば済みます。私は先ほど、調薬記録の写しを提出しました。北で検知された毒矢の成分は、清めの札に使う灯火草香油。王宮文庫裏丁の証拠庫出庫簿に、この小瓶の出庫と返却の記録が残っているはずです。それを閲覧させてください」
ベネディクトは顎に手を当てる。節張った指が、白い鬚の輪郭をゆっくりとなぞった。白い法服のセレスティーヌが、わずかに微笑んだ。彼女の指先が、膝の上で祈り紐を撫でている。銀の細工がかすかに鳴った。
「裁判長。証拠の保管に欠落があっても、聖女の証言は貴族より重い。この法廷は、素性の知れぬ北の婚姻などより、聖女の苦痛を見守るべきではありませんか」
法廷が静まり返った。人々の視線が、リゼリアの婚姻指輪を探るように動く。左の薬指に嵌めた銀の指輪が、急に重くなった気がした。リゼリアは背筋を伸ばしたまま、ベネディクトだけを見た。隣でアルノートが、外套の下へ右手をやる。空気が、冬の雪原のように張り詰めた。誰かが唾を飲み込む音さえ、やけに大きく響く。
「聖女の証言の重さは、この裁判長も承知している。だが証拠保管の穴を、証言の重さだけで覆うことはできん。保管の連続性という点では、被告人の指摘に理がある。王宮文庫裏丁の出庫簿閲覧のみ許可する。原本の持ち出しは禁ずる。次回審理は三日後とする」
木槌が、ひときわ鋭く響く。その音が天井の明かり取りに吸い込まれ、薄い残響となって消えた。セレスティーヌの白い頬から、一瞬だけ笑みが消えた。リゼリアは小さく息を吐いた。肺の底に溜まっていた重い空気が、ようやく外へ出ていく。ルイスは証言台の上で青ざめた顔を伏せている。前髪の影が、彼の表情をいっそう幼く見せた。
「ルイス」
リゼリアは心の中でだけ、弟の名を呼んだ。すぐに行く。必ず。その言葉は声にはせず、彼女の爪先をわずかに前へ向けた。
昼過ぎ、リゼリアとアルノートは裁判所吏員に挟まれて、王宮文庫裏丁へ通っていた。日差しは雲に隠れ、高い窓から薄灰色の光が落ちる。雨の後の庭木が、重い葉先をわずかに揺らしている。石畳には水溜まりが点在し、二人の影をぼやけた輪郭で映した。
出庫簿閲覧室は、文庫の地下へ下りた先にあった。湿気を吸った羊皮紙の匂いが、回廊の角から这い寄る。階段を一段下りるたび、空気は冷たくなり、黴の匂いが濃くなった。吏員が真鍮の鍵で重い扉を開けると、中には六つの書架と、壁一面の記録函が並んでいた。蝋燭の灯台が左右に置かれ、小さな炎が揺れるたびに書架の影が伸び縮みする。
「閲覧は第四函まで。触れた頁は記録されます。写しを取るなら、私の前で」
若い吏員は、そう言うと出入り口の席へ下がった。彼の手元には、真っ白な記録紙が一枚置かれている。インク壺の蓋が外され、筆写の準備は整っていた。アルノートが外套を脱ぎ、腕まくりをする。彼の左腕に巻いた鎖が、灯りの下で細かく瞬いた。
「探すのは、毒瓶が押収された時期の前後だ」
「ええ。北で私を射た毒矢の時期と、王都でルイスが薬を渡した時期が重なります。小瓶の出庫記録に、王太子宮の封蝋があるはず」
リゼリアは書架へ歩み寄った。羊皮紙を束ねた出庫簿は、年ごとに背表紙を変え、王宮の各部署と証拠庫の名が並ぶ。背表紙に刻まれた金文字が、灯りを受けて断続的に光った。指先で、ある函を引き出す。木の箱は存外重く、引き出した瞬間、古い塵の匂いがふわりと立った。
しばらく頁を繰る。羊皮紙の縁はすり減り、媒煙の匂いが染みついている。ほどなく、彼女の指が止まった。
「ここよ」
王宮文庫裏丁証拠庫出庫簿。燈火草香油の精製小瓶、と記された行。出庫欄の日付は、八日と少し前。返却欄は、黒い墨で大きく塗りつぶされていた。左端には封蝋の痕がある。押された印から、半分欠けた百合と冠の輪郭が浮かぶ。王太子宮の印だ。リゼリアの心臓が、耳の奥で小さく早鐘を打った。
リゼリアは唇を噛んだ。黒塗りの返却欄。これでは返却がなかったのか、あったのに消されたのか、判別の余地がない。アルノートが彼女の隣に立ち、頁を覗き込む。彼の息が、かすかに彼女のこめかみへ触れた。冷たい。
「写す。原本は戻せ」
「でも、これは」
「反論の材料としては、返却欄が消えていること自体が養える。原本の届かぬ場所で見るために写すだけだ」
アルノートは低い声で言い、吏員の前で頁を開いたまま筆写し始めた。彼の手はなお冷たく、青白い指先がページの縁をなぞる。羽根ペンの先が、羊皮紙の上を滑る音だけが響いた。インクは黒く、写し取った文字の上でまだ濡れた光を放っている。リゼリアは傍らで、出庫簿の該当頁をもう一度確認した。
日付。品名。封蝋。黒塗り。薄い頁を透かして、裏側からも黒塗りの墨が染みている。書き損じではなく、意図的に塗り潰された跡だ。
「繋がった。戻りましょう」
リゼリアが静かに息を整える。胸の内で、小さな歯車がかちりと噛み合う音がした。アルノートは筆写を終えると、元の函へ出庫簿を戻した。函が閉じられる時、乾いた木の音が地下の静寂に響く。吏員が頁の状態を点検し、閲覧許可の満了を台帳へ記す。二人は揃って閲覧室を出る。
その瞬間、廊下の空気が変わった。薄暗い石壁の先から、カイン・ルーヴェンが歩いてくる。黒い法衣の裾が、床を這うように揺れた。蝋燭の炎が彼の接近に押され、片側へなびく。隣には二名の王宮衛士。白銀の鎧が、湿った空気の中で鈍く輝いていた。カインの手に、王太子宮の封蝋を押した巻文がある。
「王宮文庫裏丁の検分、ご苦労なことだ。だが、ここで一度、殿下の名を聞け」
カインは巻文を広げ、声を張った。封蝋の百合の紋様が、廊下の灯りを受けて血のように赤く見える。
「王太子ユリウス殿下の令をもって告ぐ。次回審理における被告人リゼリアの発言を禁ずる。また、ルイス・フォン・ヴェルンハルトは、聖女セレスティーヌの保護下へ移送する。ゆえあれば、両名に王宮へ同行を求める」
リゼリアの鼓動が、一つ、強く打つ。彼女は外套の内の受理証を握りしめ、一歩前へ出た。羊皮紙の角が、再び胸元で鋭く肌を刺す。アルノートは無言のまま、外套の内側へ写しを滑らせる。彼の指先が、暗がりの中で白く浮かんだ。
その指だけが、微かに白い霜のように冷えた。