断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える
第6話 凍てつく証拠と、融ける指先
古い脂と黴の匂いが、石段を下りきる前から這い上がってくる。マルタが差し出した真鍮の鍵は、先端に教会式の六弁花が刻まれ、握りの部分だけが妙に温かい。リゼリアは手袋を外し、鍵を受け取った。
「王都教会の閉鎖印です。ゆっくり右へ。三度以上回すと焼錠が作動します」
マルタの声は低く、石壁に吸われて短い。旧修道院書庫の地下入口は、北の夜明け前の冷気を閉じ込めていた。リゼリアは鍵穴へ鍵を差し込み、錠前の抵抗を指先で数える。一度、二度。金属が噛み合う音が、自分の心臓の音と重なった。
アルノートが背後で外套を脱ぐ。布の擦れる音のあと、彼の持つ小型の魔導灯が石壁を白く舐めた。光が伸びるたび、壁に彫られた古い祈祷文の凹凸が浮かび上がる。リゼリアは三度目の回転の直前で手を止め、横にいるマルタを見た。
「焼錠を避けるには、最後は押し込みながらでしょうか」
「ええ。教会では施錠者が開けるときだけ、そうする。押し込みながら右へ。ただし一度の呼吸で」
リゼリアは息を止め、鍵を奥へ押し込んだ。手首を返す。錠前の内側で、小さな板が落ちるようにして栓が抜けた。木の扉が、ひとりでにわずかに動く。隙間から、凍えた香の匂いが流れてきた。甘さの奥に鉄の匂い。古い血に似た気配によく似ている。
「開けた」
リゼリアは扉を押し、体を滑らせるようにして入った。アルノートが続き、マルタが最後に閂を確かめる。書庫は天井が低く、壁面の書架が奥へ向かって狭まっていた。正面には聖女像。その足元にだけ、奇妙に新しい蝋燭が一本置かれている。芯は燃えていない。
「ここが教会史料区画か」
「正式には旧修道院の書庫。修道院の閉鎖後、王都教会が史料の一部を運ばずに封じた場所です。北の湿気を甘く見たのでしょう。羊皮紙が傷む」
マルタは手早く机を清め、携えてきた革鞄から道具を並べ始めた。乾燥剤の小袋、薄い麻布、清浄手袋。リゼリアは壁際の書架を眺め、背表紙の刻印を指先で追う。古い教会の紋章が、黒ずんだ銀箔で光っていた。
「王都教会が封じた場所なら、開けた痕跡も残る。見つかれば厄介では?」
「見つかったとしても、今さらよ」
リゼリアの声は静かだった。被告として発言を禁じられ、弟は聖女の保護下へ移される。痕跡を気にしている余裕はない。
書架は四つ。正面の壁に聖典写本と祈祷録、左に教区記録、右に会計簿と寄進名簿。そして奥の壁だけ、他の書架より一間ぶん奥まって置かれていた。リゼリアはアルノートと目を合わせる。彼は灯りを上げ、奥の書架を照らした。古い施封板がかかっている。封蝋は厚く、真ん中に聖女の横顔が押されていた。下から覗くと、視界の隅に埋め込まれた鉄輪と、壁との隙間にほこりがびっしりと詰まっている。
「あれですね。固定されています」
リゼリアが振り返った。マルタは小さな刃物を取り出し、封蝋の位置で手を止める。
「開けて。ただし封蝋は砕かず、剥がす。裏から剥離油を塗って、時間を置けば浮きます」
マルタは封蝋の縁に、香油のような液体を一滴垂らした。粘り気のある匂い。リゼリアはその傍らにしゃがみ込み、施封板の継ぎ目を確認する。腐食で食い込んだ鉄板の下に、紙の端が見えた。薄い青の紙だ。
「この青は、王都教会の高位聖具係の認可紙」
「では、開けてみせてもらおう」
アルノートが低く言った。
◆
封蝋はゆっくりと持ち上がった。下から油が回り、聖女の横顔が歪む。ほどなく、施封板が外れると同時に、中から塵が膨らんで落ちた。リゼリアは袖口で口を覆い、奥を覗き込む。書架には木箱が三段、革表紙の書物が十三冊。羊皮紙の束が、紐で十字に縛られて寝かされている。
「これだ」
アルノートの声が、初めて揺らいだ。
彼は一冊の書物を引き出していた。黒い革の表紙に金箔の聖女紋。銀の留め金が外れ、表紙を開けたところで、彼の手が止まる。リゼリアは彼の隣に回り込んだ。
書物の中には、細い字が整然と並んでいた。インクは褪せているが、筆圧は強く、羊皮紙の裏にまで凹みが残っている。最上段に灰色の扉絵と、初代ヴァルデック辺境伯の名。続いて、王都教会の聖職者三名の署名。うち一名は『聖女の力、北方にて真価を開くため』と書いている。
「……読めるか」
「ええ。古い書式ですが、ゆっくりなら」
リゼリアは頁をめくった。細い字が、淡々と事実を記している。ヴァルデックの血に氷の呪いを植え付ける儀式の手順。呪いは辺境伯家の直系男子にだけ現れ、聖女の祝福を引き出すための「対になる冷え」として設計された。
彼女は唇を結んだ。指が、紙の縁で止まる。
「……聖女の力を強くするために、初代へ呪いを植えた。教会の署名入りよ。ここに血の誓約の印もあります」
リゼリアは書物を机へ置き、証明用の清浄紙を一枚挟みながら、頁の状態を確かめた。紙は乾燥し切っていない。この地下特有の湿り気を帯びて、折り目に微かな弾力が残る。インクの滲みは少なく、文字は鋭い先端で刻むように書かれていた。
アルノートは動かなかった。灯りの下、彼の影が壁の祈祷文を覆い尽くす。警護服の肩で、輪郭だけが光った。
「兵器として植えたというのか」
「そうとは書いていない。けれど呪いの効能欄に、『聖女の祈りが及ぶ距離を三倍に広げる』とある」
「三倍……」
「六属性の力を増幅する、王都教会の旧式儀礼です。これはそのための副産物ではなく、むしろ本命だった」
マルタが後ろから頁を覗き込み、短く息を詰めた。彼女は聖女に仕えた者として、この書式を知っていた。
「ヴァルデック辺境伯の氷の血を、聖女の光を映すための冷たい鏡にした。呪いが人を凍らせるほど、聖女の祈りは強くなる」
「ならば、私の命が続く限り、あの女の力は」
「ええ。増す仕組みになっている」
リゼリアは彼を見た。アルノートの左胸がかすかに上下する。怒りを押し殺しているときの呼吸ではなく、冷えに耐えているときの動きだ。
彼の右手が、知らないうちに書物の縁を握っている。爪が白い。霜斑が、指の付け根から青白く広がるのが見えた。紙の表面が、じわりと凍る。インクの上に、うっすらと氷の膜が張った。
「アルノート、手を」
リゼリアは自分の手を伸ばし、彼の上から重ねた。凍えた紙の上で、彼の指が触れる。彼女の体温が、霜斑を止め、その色を薄くした。氷の膜が、触れたそばから融ける。
「……――」
アルノートは手を引かなかった。温度を確かめるように、わずかに彼女の手の甲を見下ろす。彼の喉仏が動いた。冷たい息が、ひとつ漏れる。
「解呪の鍵になり得るかもしれない。私の生きた熱。それ以上は、まだ確かではない。でも、さっきより痛みは引いているでしょう」
リゼリアの声は低く、柔らかい。アルノートはしばらく沈黙していた。灯火が、二人の手の上で瞬く。
「触れるだけで、呪いが退く理由は訊かずにいる。お前には、答えられないことがまだあるな」
「訊いたところで、きっと、上手に答えられない」
「それでも、こちらの体温を与えられる場面は増やせ。証拠のため、ではなく契約の実効性のためと割り切るなら、私は拒まない」
リゼリアの指が、少しだけ彼の指を押し返す。それで彼の手から書物を引き取った。彼女の手のひらには、アルノートの冷たい温度が残っていた。
「割り切れば、いいのね」
「夫婦とは本来、そんなものだろう」
アルノートは淡々と答えた。けれど、その右手は開いたまま、力を取り戻すように一度だけ握られる。もう霜斑は薄れていた。指先の色も、死んだ青白さから生きた白へ戻っている。
「マルタ、記録は保存できるか」
「承知しています。教会印がついたまま、証拠としての形を崩さずに」
◆
マルタの支度は、静かで素早かった。彼女は書物を開いた状態で薄い和紙のあて板を挟み、封蝋と署名、血の誓約印をすべて収める角度を確かめてから、金属の留め金を締めた。次に、同じ物をもう一組、麻布で包み、王都高等法院へ提出するための写しを取る。彼女の羽根ペンが、羊皮紙の上を引っかかることなく走った。
リゼリアは書庫の入り口近くで、目録の冊子を開いている。細長い棚の番号と、書物の宛名が記されただけの簡素な表だ。これを北の城へ持ち帰れば、次に狙うべき史料が特定できるかもしれない。彼女は表紙の折れを直し、外套の内へ収めた。
「教会印と署名の写しも、この一組にすべて入れた」
マルタが封印容器へ原本を納め、机の上で蓋をした。小さな錠前がかかり、かちりと音を立てる。
「これで、王都教会が初代へ呪いを植えたことを証拠にできま……」
彼女の言葉が途切れた。
書庫の外へ通じる石段の上。誰かが入口の閂を三度叩いた。三度は、北の城で使う緊急の合図。リゼリアは顔を上げた。アルノートが先に立ち、武器の柄へ手をかける。書庫の中の空気が、外からの合図で震えた。
「入れ」
アルノートの一声で、石段の上から衛兵の声が落ちる。
「ヴェルンハルト公爵令嬢宛の急報! 王都より騎馬が参りました」
リゼリアの鼓動が、反応する。弟の名が、先に心を掠めた。
「私だ。ここを出るまで待て」
彼女は書物机へ間を戻し、マルタへ目配せをする。マルタは卓上の道具を隠すように麻布をかけ、封印容器を手前へ寄せた。アルノートは灯りを落とし、石段を先に上がっていく。彼の歩くたび、石に冷たい気配が染みる。
旧修道院書庫の外は、夜がほんのり白みかけていた。霧が足下を流れ、馬の吐く息が白い。北の城から走ってきた伝令らしい。裾も袖も泥に汚れ、鞍袋には封蝋が割れたままの書状が突き刺さっている。
「御報告します。王都から、ヴェルンハルト家の従者の妹と名乗る女が参り、城門でこれを」
「それを」
リゼリアの声が、無意識に鋭くなる。伝令は震える手で書状を差し出した。封蝋は、ヴェルンハルト家のものではなく、薄緑の蝋に消えかけた聖女宮の印。彼女の左こめかみが、ちくりと熱を持った。
中には、折り畳まれた便箋と、小さな革袋。手紙の文字は、丁寧だが拙い。ヴェルンハルト家の元従者を名乗る女が、王都で聖女の使いから頼まれたと書いている。
「……ルイスが聖女の滋養薬を受け取った。それも、私のためだと言われて」
手紙には、薬を弟が大人しく受け取ったこと、夜のうちに部屋へ持ち帰ったことが綴られていた。軟禁下で、彼はもう薬を所持している。
アルノートが覗き込むより早く、リゼリアは手紙を折り直して、封筒へ戻す。自分の顔が冷えていくのがわかった。頭は静かで、足の裏だけが地を噛むように固まっている。
「動くなら、今」
「わかってる」
リゼリアは北の城へ戻る方向を一瞬睨み、それから旧修道院書庫の入口を振り返った。
「マルタ、写しを持って王都へ来て。原本は北の城の金庫に。持ち歩くのは、写しだけで足りる。証拠の原本と写しを、あなた一人が抱えて動かないで」
マルタはすでに外套を羽織り、封印容器を抱え直していた。その顔は青ざめているが、眼だけ強い。
「御意。途中、隊を割ってでも守ります」
「王都で使え」
アルノートの声が低く、静かに落ちた。彼の視線は旧修道院書庫の出口へまっすぐ向いている。リゼリアも同じ方へ体を開いた。
北の空を、夜明けが押し上げていく。弟が、聖女の滋養薬を手にしている。その事実だけが、彼女の背を強く叩いた。