FeverStory

断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える

第7話 善意の毒

「昨日のうちに、城門から届いた荷が薬草室で封を確認してある」

マルタの声は低く、夜が落ちる前の空気より乾いていた。旧修道院からヴァルデック城へ戻った翌朝、薬草室の石壁には前夜の冷気がしみこんでいる。北向きの窓から入る光は白く、作業台の上の道具箱をやや硬く照らしていた。

リゼリアは卓の縁に手を置いたまま、目だけで小革袋と手紙を見下ろす。夜通し馬を飛ばした伝令の疲れが、まだ自分の腿の裏に残っている。呼吸は浅く、されど声は揺らがなかった。

「開封は」

「しておりません。届いた時のまま、蝋も革紐も」

マルタが一歩下がり、卓の中央を空ける。薄緑の封蝋がついた手紙と、旅の埃を吸った小革袋が並んでいる。ルイスの字ではない。ヴェルンハルト家の元従者の妹を名乗る女の手蹟だった。

「読んでも?」

リゼリアは短く頷く。マルタは封を切らず、手紙を光にかざすことから始めた。紙の厚み、折り目、余白。それから封蝋の裏に残る指の痕を、銀のへらで軽くなぞる。

「聖女宮の印です。偽装ではないかと見ましたが、この型押しは数年前の教会式。今の宮中でよく使う型より、縁の丸みが古い」

「古い型なら、むしろ偽造が難しい」

リゼリアは手紙を受け取らず、傍らから覗き込んだ。文字は丁寧だが拙く、ところどころインクの濃さが変わる。読むうちに、指先の力が抜けていくのがわかった。

『聖女様より、お姉さまのためになる薬です。弟様はとても心配されていて、どうかお受け取りくださいませ。あの方はお姉さまが北で無理をなさっていると聞くたび、夜も眠れぬ様子で』

そこまで読んで、リゼリアは一度まぶたを閉じた。怒りではない。名状しがたい冷たさが、腹の底で薄く固まる。これは善意の手紙だ。差出人の女は本気で、聖女の薬が姉弟を繋ぐ滋養になると信じて書いている。

「手紙は、ルイスの依頼で出したのではなく、聖女の使いに頼まれて書いたとある。薬も、その使いから託されたと」

「ええ。封蝋の形は、上が王側、下が聖女宮。どちらも真正です」

マルタが手紙を卓へ戻す。リゼリアは小革袋に手を伸ばしかけて、指先を引いた。

「瓶を開けずに解析できる?」

「可能です。清浄手袋と、聖別水と、検査紙があれば。ここは薬草室ですから」

マルタは袖をまくり、壁の棚から小さな鉄箱を下ろした。中には紫の粉、硝子皿、銀針、蝋で包んだ検査紙が行儀よく並んでいる。彼女の手つきに迷いはない。

「下がっていてください、と申し上げたいところですが」

「私も残る。手は出さない」

リゼリアは卓から二歩引き、危険物を扱うときに使う銅線の囲いの外に立った。マルタは小さく息を吐き、首元の布で口を覆う。部屋の戸口には、いつの間にかアルノートが背を預けていた。彼は何も言わず、ただこちらを見ている。入ってきた気配もなかった。

「いらしていたんですか」

リゼリアの声が、ほんの少し低くなる。

「お前がこの部屋を押さえた時点で、隣の詰め所からは見えていた」

アルノートは戸口から動かない。氷の体温が、薄く空気を冷やした。

「解析の邪魔はしない。だが、開けるなら私が先に立つ」

「開けません。開けずに、毒かどうかを確かめる」

「毒かどうか、ではない。どういう毒か、だろうな」

彼の声に、わずかな刺がある。マルタは二人の会話を背中で聞きながら、小革袋の口元を銀のへらで少しだけ開いた。革の内側には、小さな封蝋のかけらと、木綿に包まれた白い瓶が入っている。

「瓶は白磁、栓は蜂蝋。教会の滋養薬の正規の包装です」

マルタは瓶を銅の皿へ移し、栓に触れないよう布越しに支えた。それから聖別水を一滴、瓶の外側へ垂らす。水は表面で丸くなり、滑り落ちた。

「外側に、薬液の染みはありません。内容物の漏れも、今のところ」

次に、極細の銀針を瓶の栓と首の隙間へ差し込む。ほんの毛先ほど。引き抜いた針の先は黒く濁らず、淡い虹色に光った。

「……脂融性の変性。普通の滋養薬なら、ここまで光りません」

「教会の瓶のままなら、中身も教会のものだ。おかしくはない」

アルノートの声が後ろから落ちる。マルタは答えず、検査紙を一枚封筒から抜いた。紙は薄黄で、縁に祈りの言葉が印刷され、触れると微かに温かい。

「王都教会の高位検査紙ですね。この薬草室に?」

リゼリアが問う。マルタは首を振った。

「いいえ。四日ほど前、王宮文庫裏丁から戻る道で、別の業務ついでに購っておりました。法廷の証拠検査を想定して」

「先が読めるのね、あなたは」

「読めるのは、私ではなく令嬢の方です。けれど証拠の検査道具は、私が揃えます。役目ですから」

マルタは検査紙を細長く切り、聖別水で湿らせた。銀針の先に付いた痕を、紙の端に触れさせる。紙は一瞬、黄色のまま止まり、次に中央から青黒く染まっていった。染まりの速さに、マルタの指が止まりかける。

「光ではなく、闇のほうですね」

「生命力を吸う型だ。青黒く散る。それも紙が焦げないうちに広がる」

マルタの声が一段低くなる。青黒い斑は、教会の祈りの文字をなぞるように紙の縁へ走り、やがて止まった。薬草室の白い光の中で、その色だけが異様に濃い。

「闇魔法性の毒、生命力吸奪の兆候です。教会式の滋養薬とは、正反対のようでいて、表の効能を偽装できる。受け取った者は一時的に血色がよくなり、体が軽く感じる。ですが、その効き目こそが命を削る」

リゼリアは一歩、卓へ近づいた。頭の奥が冷え、視界の輪郭だけが異様に明瞭になる。母が病で倒れたとき、教会の癒やしはむしろ苦痛を長引かせた。あれは老齢ゆえの衰弱ではない、誰かがそう見えるように仕向けたのだ。

「証明は」

「この検査紙の変色と銀針の輝きで、十分に初期証拠になります。加えて私の署名入り解析記録を作ります。判定は、聖女の癒やしとして知られる清浄な滋養薬には起こりえない反応、と」

マルタが鉄箱から木の筆記板を出し、所定の欄へ細い字で記録を付ける。リゼリアは手紙へ目を戻した。封蝋は薄緑、聖女宮の印。差出人の善意は本物だというのに、その善意ごと薬は誰かの手で毒に変えられている。

「アルノート様。一つ、申し上げておきます」

リゼリアは振り返らずに言った。

「聞こう」

「この薬を送った弟を、私は責めません。責めるべきは、弟の心配を利用して運び役に仕立てた側です」

声は静かだった。しかしその分、部屋の空気が一瞬だけ温度を下げた。アルノートは腕を解き、戸口から半歩だけ内側へ入る。

「善意の運び屋ほど、使いやすい者はない。お前の弟は、敵の計画のなかで都合よく動いた。責めはせずとも、いつかは切り離せ」

「切り離しません。あの子を前線へは出しません。けれど、事件の外へ追い出すことも、共犯のように扱うこともしません」

「ならば、どうする」

「証拠にします。この瓶と、この手紙、それにマルタの解析記録。公開審判で聖女の癒やしを毒と証明する」

リゼリアはそこで振り返った。アルノートの瞳が、戸口の暗がりで青白く光る。彼の左掌は無造作に下がっていたが、指先の霜斑が薄くなり、骨の浮く甲に血の色が戻っている。昨夜の接触の名残だ。どちらも口にはしない。

「聖女を告発するには、瓶と手紙のつながりでは足りない。王都側から、封蝋と有効な調合記録が要る。この北でいくら証拠を固めても、あの法廷は教会の声を重く見る」

「だから、王都へ行きます。この瓶の由来を、元従者の妹から法廷で証言させます。彼女は善意で動いた。だからこそ、誓いの上で真実を話します」

アルノートはしばし黙った。薬草室の冷えた空気が、窓から差す光の筋を白く濁らせる。

「善意の証人は、敵に何を吹き込まれるかわからん。お前はそれでも、弟を証人として扱わないつもりか」

「扱いません。あの子を法廷で、姉の命を救うために毒を運びましたと言わせる真似は、敵と同じです」

リゼリアの口調が一拍、かすかに尖る。アルノートは微かに眉を上げたが、反論は挟まなかった。彼女は呼吸を整え、卓の上の品々へ向き直る。

「薬と手紙と記録は、我々が一体で保全する。原本は開封した今、化学変化を止めなければ、法廷へ出す前に効能が失われかねません」

「氷で封じる。瓶ごと、紙ごと。解析が済んだ証拠なら、無菌と低温で保てば三か月は原型を保つ」

「お願いできますか」

「代わりに、誰が運ぶかは私が決める。お前一人では持たせられん」

アルノートは卓の傍へ歩み寄る。マルタが清浄布を敷いた封印箱を差し出し、リゼリアが手紙と検査紙と記録を順に収めた。三つ目に、白磁の瓶を蜂蝋の栓ごとソフトな木綿で包み、いちばん深い段へ横たえる。

「王都まで、私が持ちます。開封も、裁判所への提示も、私が行います。リゼリア様の手は汚させません」

マルタが言った。だがアルノートは首を振る。

「お前は証拠の説明役だ。荷を持つ者と同じなら、移送中に二人分を同時に狙われる」

「では」

「私が持つ。北の障壁から離れるぶん、呪いの進行は抑えられる。王都の人間が辺境伯へ手を出すには、手続きが要る」

彼は箱の縁へ左手をかざした。青白い光が生まれ、箱の内側から薄い霜が立ちのぼる。冷気は鋭く、だが薬を凍らせるほど強くはない。瓶の表面が磨かれたように白く曇り、手紙の紙は折り目を保ったまま硬く平らになった。

リゼリアが箱の蓋を押さえようとして、指先がアルノートの手背に触れた。ほんの一瞬。氷の箱を閉じようとした互いの手が、蓋の金具の上で重なったのだ。

アルノートの手が、わずかに動いた。彼の左掌を走っていた霜斑が、触れたあたりから薄れていく。輪郭がにじみ、青白さが引く。それでも彼は手を離さず、蓋の金具を指で閉じた。リゼリアも何も言わなかった。二人の呼吸だけが、ごく短い間、薬草室の静けさにまぎれた。

「……開けるな、揺らすな、火に近づけるな。王都に着くまで、この箱は俺の側を離れない」

アルノートが一息に言い切り、封印箱を片腕で抱え上げた。その動作に、昨夜の旧修道院での不意の接触がよぎる。けれどお互い、原因を言い立てることはなかった。解呪の鍵になり得る、それだけを伝えた前夜の言葉が、まだ二人の間に薄く残っている。

「馬の準備は済んでいます。王都まで、途中の詰め所で二度替えます」

マルタが手早く道具を片づけながら言う。リゼリアは胸元へ手をやり、服の下の護符の位置を確かめた。弟の徽章は、今は別の袋へ、素肌から離してある。王都の検問で奪われぬよう、ただの装飾品として持ち込む。

「元従者の妹には、王都の宿で会いましょう。まずは証言の内容を、本人の口で聞きます。ただし教会の者が先に接触していないかは、必ず三方向から潰す」

「手間だが、いい。本命が後手に回るよりはましだ」

アルノートは封印箱を抱えたまま、戸口へ半身を向ける。薬草室の白い光が強まり、窓の外では朝靄が晴れはじめていた。北の城の見張りが、いつものように角笛を短く二度鳴らす。出立の刻限だ。

「マルタ、解析記録の写しは」

「こちらに。原本の記録は箱の中、写しは私が持ちます」

「いい判断よ、分けて運べば、片方が奪われても法廷で読み上げる材料は残る」

リゼリアは手袋をはめ直し、裾の埃を払った。頭の中では、もう王都へ向かう道筋が三本描けている。どの道でも、検問は二か所、教会の巡察は三か所。聖女宮へ近づくほど、偽りの善意が手を伸ばしてくる。

「毒瓶と、聖女宮の封蝋。これを公開審判で並べたとき、聖女がどう動くか。私には読めております」

リゼリアの声が、低く響いた。

「癒やしを語る方が、毒を流す。それを証明できたなら、弟を法廷で傷つけずに済む。ヴェルンハルト家の汚名も、母の死の内実も、ひっくり返せます」

「行くぞ。この箱は凍らせてある。時間を稼ぐなら今だ」

アルノートが戸口の向こうへ歩き出す。マルタが卓上の小道具を施錠棚へ戻し、最後に鉄格子の窓を閉めた。リゼリアは一瞬だけ卓の上に目を走らせ、聖別水の小瓶を袖へしまう。法廷で検査をやり直された時のため、試薬は一つ持っておくべきだと判断したからだ。

薬草室の扉が閉じる。外の長廊下には、北の冷たい風が流れこんでいた。アルノートの背を追いながら、リゼリアは小さく息を吸う。左こめかみの灼痕が、ずっと昔の温度を忘れずに熱を持っている。

「公開審判で、あの癒やしが毒だと証明する」

彼女の声は、誰への宣言でもなく、けれど背中で聞くアルノートの歩みに吸い込まれるほど、静かだった。

封印箱から立ちのぼる霜の気配。それだけを道連れに、二人は城の外へ続く石畳を進んでいく。

断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える第7話 善意の毒