FeverStory

断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える

第8話 毒矢と氷の証言

王都高等法院の石段を踏みしめた瞬間、リゼリアは「勝てる」ではなく「ここで負けたら終わる」と判断した。朝の光は白く、正面扉の鉄鋲が冷たく光っている。後ろを歩くアルノートは無言のまま、封印箱を小脇に抱え直した。

「マルタ、証人控え室の様子は」

「三人とも到着しております。ただ、カイン・ルーヴェン殿は今朝になって馬を替えたそうで、到着が他の二人より半刻遅れました」

「半刻、ね。半刻あれば真実の塩の誓いを済ませて、腹を決め直す時間には足りるわ」

リゼリアは手袋を外し、袖の下で短剣の留め具を一度だけ確かめた。もちろん法廷では抜けない。抜かなくていい。自分が何を持ってここへ来たかを忘れないための、指先の確認にすぎない。

第一法廷の扉が開く。傍聴席はすでに息苦しいほど埋まっていた。前列の貴族たちが一斉にこちらを振り返り、扇の陰で囁きを交わす。リゼリアは視線を正面へ固定した。判事席の左、一段高い場所に聖女セレスティーヌが座っている。白い法衣の裾が、まるでこの場所の主のように広がっていた。貴賓席にはユリウス。指を組んだ膝の上へ、わずかに口元を緩めて、リゼリアを見下ろしている。

「あの顔、判決を待っている顔だな」

アルノートが低く呟く。リゼリアは前を向いたまま、唇だけで返した。

「いいえ。判決が覆る瞬間を、まだ知らない顔です」

被告側証言台の右側に、法廷保管申請済みの品々が並べられていく。白磁の滋養薬瓶。聖女宮の古い型押しを使った封蝋片。ルイスの手紙。そしてマルタの解析記録写し。白い光の下で、どれもがひどく静かに見えた。

裁判長ベネディクト・ラウエンが木槌を手に取り、ゆっくりと台座へ打ち下ろす。

「反逆並びに聖物破壊嫌疑、リゼリア・フォン・ヴェルンハルトの第2回公開審理を続行する。まず、被告側が申請した追加証拠の登録を認める」

書記が証拠番号を読み上げる。リゼリアは箱の中から瓶を取り上げた。栓を開けないまま、光へ透かす。

「この白磁の瓶は、聖女宮から我が弟ルイスへ届けられた滋養薬です。瓶の形状、封の押印、包み布に至るまで、すべて聖女宮の正式な品です。ですが中身は違う。マルタ・ハインツの解析では、生命力を吸い上げる闇魔法性の毒物が含まれています」

傍聴席がざわつく。聖女席から、セレスティーヌが首をわずかに傾げた。困った小鳥のような仕草で、指先を胸元へ添える。

「まあ。私の宮の品だというのは、また随分な言いがかりですわ。野の回し者から仕入れた薬を、聖女宮へ結びつけるおつもりかしら」

「瓶の底面に、聖女宮の給薬印が彫られています。旧様式の、縁が丸い印です。現在の宮中型とは異なる。ですが、この印を彫る型は教会の器庫に現存しております」

リゼリアは判事席へ向き直り、静かに頭を下げた。

「器庫の型帳と照合すれば、押印の同一性は証明できます」

ベネディクトが眼窩の深い目を細め、瓶を見つめる。それから傍聴席を一瞥し、低い声で言った。

「続けよ」

「加えて、聖女セレスティーヌ直筆の指示書もございます」

書状台の上へ、折り畳んだ紙を一枚。濃い藍の封蝋が落ち、罫線の上を、丸みを帯びた文字が走っている。

「『お姉さまのための薬を、確かにお届けください』。これが、善意の差出人を装った指示の原文です。我が弟が毒の運び役にされた事実と、聖女宮が毒物の供給元である事実を、これで結びつけられます」

聖女側の弁護人が即座に立ち上がった。

「異議を申し立てます。その書状の筆跡鑑定は未了。被告側の主張は、証拠の信頼性を誇張するための演説にすぎません」

ベネディクトは手を上げ、弁護人を制した。

「異議は記録する。しかし、書状と瓶の関連性については、証人尋問で明らかにすればよい。証拠登録は認める」

リゼリアは箱の蓋を閉じる。登録された。申請のあいだ、聖女側が品に触れる隙はなかった。それだけで今日の勝率は二割上がる。

だが、残り八割は、証人席で決まる。

真実の塩に誓った成人証人三名が呼ばれた。最初に立つのは、王都の古物商を営む男だ。痩せた頬に深い皺。リゼリアが旧修道院で書簡を入手した深夜の足取りを、西の城門で目撃したと誓う予定だった。

しかし男は宣誓の直後、証言台の縁を握りしめたまま、うつむいた。

「王都の西門で、馬に乗った人影を見ました。二人連れです。ただ、顔までは」

「ただ、顔までは?」

リゼリアが静かに問う。男の指が、縁から離れた。

「聖女様のおっしゃる通り、あの夜は霧が深く、顔は分かりませんでした。西門を通ったというのも、覚え違いかもしれません」

傍聴席にどよめきが走る。リゼリアは指一本動かさなかった。

「貴方は誓いの場で、いま供述を変えました。王都教会の高位の方が、昨晩あなたの店を訪ねたのでは?」

男の首が、かすかに揺れた。弁護人が割って入る。

「威迫的な尋問です」

「事実確認ですわ」

リゼリアは男から目を離さない。男はしばらく固まっていたが、やがてか細い声を絞り出した。

「……誰も、来ておりません」

次の証人、旧修道院の門番をしていた老女も、同じように供述を退けた。彼女は一番記憶が確かだったはずだ。リゼリアが貸した手袋の礼を言った声まで覚えていた。だが今日の老女は、裁判長に背を向けて、膝を震わせている。

「あの夜は、風の音ばかりで。人など、よう知りません」

リゼリアは唇を噛みしめ、それから息を吐く。買収されたなら、暴く。ただし、ここで暴いても次の手がある。証人はもう一人いる。元従者の妹。彼女だけが、聖女宮から薬を手渡された経緯を直接知る。

第三の証人が入廷した。薄い青の上着に、結った髪。リゼリアより五つ下の娘が、小さく頭を下げて証言台へ立つ。彼女は自分の手のひらを見つめ、それから顔を上げた。

「私は、聖女宮の使いから包みを受け取りました。『公爵令嬢の弟君が、姉上に渡してほしいと託した薬です』と言われて」

リゼリアの肩が、ほんの少し弛んだ。

「弟から、直接でしたか」

「いいえ。聖女宮の印の付いた包みを、教会の玄関先で」

「その方の顔は」

「顔は見えません。フードを目深にかぶっておりました。ですが、背の高い女の方で、白い指輪をはめていました」

証言が、ゆっくりと法廷へ積み重なっていく。聖女席のセレスティーヌが、顔の前で組んだ指を、一度だけ引き寄せた。リゼリアはその指に視線を止める。右の中指、聖女宮の白い指輪。

「白い指輪、と。左手ではなく」

「左手には指輪はなく、薬を持つ手、そう、右手の中指です。あの日は陽が強くて、石の上に指輪の影が映ったのを覚えています」

リゼリアはベネディクトへ胸を張った。

「聖女宮の給薬使は、聖女の補佐役である高位の女性信徒が務めます。その方が右手の中指に嵌める指輪は、清廉の印。この証言は、弟ルイスが薬を受け取ったのではなく、聖女宮から一方的に託された事実を示します」

裁判長の目が、証人の手元と聖女席の間を往復する。だが、判事が口を開くより先に、貴賓席のユリウスが、軽く手を打ち合わせた。

「偶然だな。白い指輪など、王都の信徒なら誰でも嵌めている」

「王太子殿下。証言を遮られますか」

リゼリアが静かに応じる。ユリウスは笑みを深くした。

「遮っているわけではない。裁判長、次の証人をお呼びなさい」

第四の証人として、カイン・ルーヴェンが証言台へ立った。伯爵家次男、王都商務院の記録官補。ここが山場だ。マルタの解析記録の裏付けを、証拠物としてではなく、証人の誓いとして支えるはずだった。

「カイン・ルーヴェン、真実の塩に誓って申し上げます」

彼は宣誓の言葉を最後まで唱え、それから、真白い顔でリゼリアを見た。

「私は昨晩、ルイス・フォン・ヴェルンハルトが証拠室の瓶に触れるのを見ました。彼は、中身を抜き取りました。茶色の小瓶から、黄色い液体を、白磁の瓶の薬に混ぜ込むところを、確かにこの目で見ました」

リゼリアの指先が、服の下で冷えた。

「……何を」

「よって、法廷に提出された滋養薬が毒であることは事実でも、毒を混ぜたのはルイス・フォン・ヴェルンハルトです。姉を守るための、彼自身の犯行です」

カインはまっすぐ前を向いたまま、証言台の縁へ手を置き直した。ひとつ言い足すように、口元を歪める。

「王宮文庫裏丁の出庫簿を改変したのも同じ手口です。被告側が写しを取った直後、毒瓶の記録は抹消してあります。だから、いくら調べても、あの瓶が文庫から出たという記録は出ません」

リゼリアの視界が、一瞬だけ白く滲む。

「出庫簿の返却欄を黒く塗ったのは、あなたではなく」

「私は記録官です。記録官が真実の塩に誓って述べます。あの瓶の来歴は、教会でも聖女宮でもなく、ヴェルンハルト家から持ち出されたものです」

カインの証言が終わった。ベネディクトの声が、妙に明瞭に響く。

「真実の塩に誓った成人証人三名のうち、二名が被告側、一名が証拠汚染を証言した。聖女の証言を覆すには、同じく真実の塩に誓った成人証人三名が必要となる。しかし、証拠物への汚染が成立した以上、瓶と書状の証拠能力は失われた。本件は、聖女の証言を覆すに足る証人数に達しない」

リゼリアは一歩、前に踏み出した。

「待ってください。証人カインは自分の口で、『毒瓶の記録は抹消した』と言いました。記録を抹消できる者がなぜ、事件に関わらないのでしょう。これは」

「黙りなさい」

ベネディクトは、初めてリゼリアを真っ直ぐに見た。その声は、抵抗する自身を押し殺すように震えていた。

「被告リゼリア・フォン・ヴェルンハルトは反逆並びに聖物破壊の罪により、死刑を宣告する。処刑期日は、血月の晩。これより退廷までは、拘束の上で待機せよ」

傍聴席が沸き立つ。聖女席で、セレスティーヌは目を伏せ、胸の前で聖印を切った。聖女が、天を仰いで囁く。美しい、祈りの声が、ざわめきに混じる。

「お姉さま……私の癒やしは、あなたの隣の方を、まだ救えます」

何者かが叫ぶ。退廷だ、もう退廷だ。衛兵が四名、リゼリアの周りを固める。腕を取られ、手首に冷たい輪が押し当てられた。足元で、証拠台の白磁の瓶が箱ごと運び出される。押収。彼女のものではなくなっていく。

リゼリアは振り返った。傍聴席の一番後ろ、大扉の隣に、ルイスが立っている。白い顔で、口を開き、何かを叫んでいる。声は届かない。

「姉上……僕は、僕は」

弟の瞳が、自分を呼んでいる。リゼリアは小さく笑った。泣かせるな、そう口の形で返した。大丈夫、まだ巻き返せる。

その時、後方の傍聴席が大きく割れた。

空気を裂く音。一拍あと、盾を掲げた衛兵の影の下から、誰かが飛び出して来て、リゼリアの背を突いた。

「伏せろ!」

アルノートの手が、リゼリアの肩を掴むより早く、彼の身体が回り込んだ。手錠につながれた腕ごと、彼女を床へ押しつける重み。直後、硬い木と布を射抜く音がして、アルノートの背と肩の間から、黒い矢羽根が突き出す。

毒矢だ。

空気から音が消える。冷たい石の床に、彼の膝が落ちた。左肩を貫いた矢の先から、黒い筋が首筋へ、迷いなく広がっていく。リゼリアは喉の奥で叫んだ。拘束具を床へ打ち当てる。石と鉄の音。もう一度。留め金が歪み、手首の内側が裂けた。

「誰か、矢を! 矢を抜かずに固定して! ルイス——」

「動くな! 被告は拘束中だ!」

衛兵の手を振り切り、リゼリアはアルノートの横へ這った。両手の枷は床で壊れ、石の上に血の筋を残した。アルノートの顔がこちらを向く。唇が青白い。なのに、彼の手が、リゼリアの指を一度だけ握り返した。氷の呪いの冷気が、かつてないほど強く、指先から流れ込んでくる。

「毒は、回る。下がれ」

「何を言って」

「氷魔法で凍らせれば、毒の進行は、止められる。この身体ごと、な」

リゼリアは彼の肩へ手をかけた。氷のように冷たい、と思った瞬間、触れた部分から、白い霜が薄れていくのが見えた。指先の下で、黒い筋は止まらない。けれど、皮膚の霜だけは確かに後退している。凍えた左手の甲に、赤い血の色がほんのわずか戻った。

「……お前の身に何が起きてるか、気になるだろう。今度こそ、聞かせろ」

アルノートの声が笑む。リゼリアは唇を噛んだ。

「話すわ。生きていれば、すべて。だから——あなた、自分を凍らせるなんて選ばないで」

側へ、人影。マルタが両手で道具袋を広げ、倒れたアルノートの肩口へ跪いた。

「マルタ、調べて頂戴」

「承知。毒矢の付着物を、聖別水と検査紙で簡易検査いたしますっ」

マルタの指が、矢羽根の根元から付着物を拭い、検査紙の上へ塗った。白い紙が、黄緑に変わり、その中央へ、銀の粒のような火が散る。マルタは顔を上げた。声が震えている。

「王都教会の高位聖堂薬草です。聖堂の塗油に使われる、燈心草香油と、教会式の防腐薬。ここまでの濃度は、教会の高位聖具係しか扱えません」

リゼリアは法廷を見渡した。聖女席のセレスティーヌが、指を組んだまま、こちらを見ている。口元に浮かぶのは、悲しげな憂い。けれど、白い喉が、ゆっくりと上下した。

貴賓席のユリウスが、傍聴席へ向かって低く命じる。

「医師を。辺境伯の傷は、王都で最も慈悲深い治療院の手に委ねよ」

「お断りします」

リゼリアの声が、石の壁へ鋭く返った。彼女は未だ床に散らばる拘束具の残骸へ目を落とし、それから血の滲む手首で、アルノートの左手を包んだ。冷たい指を握る。体温を、流し込む。

「マルタ。検査の控えを、ルイスへ。写しは私が持つ。毒矢の教会出自を証明できる唯一の記録よ」

「承知しております。あれは、この場で押収されては」

「ええ。だから、あなたの手でルイスへ繋いで。彼はヴェルンハルト家の令息よ。証拠保全の名目で、この裁判所内へ留めて」

振り返る。聖女席の下、セレスティーヌはようやく立ち上がった。白い指先を、口元へ当て、善良な困惑を装う。

「まあ、この期に及んで教会をお疑い? 辺境伯様は、こういう時こそ、王都の癒やしをお受けくださいな」

「結構です。王都の癒やしは毒を盛る方から、二度と受けません」

リゼリアは、アルノートの身体を抱えるように、自分の肩を彼の脇へ差し込んだ。運べる。自分が立たせれば、氷の呪いと毒の進行を、同時に抑え込める。そう、根拠は既にある。触れている場所の霜が退いた。ならば、手を離さなければいい。

ルイスが傍聴席を突き破って、こちらへ走ってくる。彼の声が、ようやく届いた。

「姉上! 医師を、いま医師を呼びました。だけど、王都の治療院は教会系ばかりで——」

「落ち着いて、ルイス。あの人の医者には、マルタがいます。お前は、私が死ぬまでに、毒矢の出所を結べる証人を三人、揃えなさい。今は、それを」

弟の顔を見下ろす。彼は泣いていない。白い頬に、唇を噛んだあとだけが赤い。リゼリアは笑った。拘束された腕ではなく、自由になった両手で、弟の肩を一度だけ叩く。

「お前が運ばされた薬は、お前が運ぶべきではなかった。だけど、お前が封を確かめていたから、私が毒だと証明できた。次は、お前が法廷で話す順番よ」

法廷の大扉の向こうで、衛兵が増えていく。リゼリアは、アルノートの腕を肩へ乗せ、一歩を踏み出した。男の重みは、氷のように冷たく、それでいて、確かな意思で彼女を押す。

「死なせるものか」

声が、自分の声ではなかった。敬語も、表面の静けさも、全部剥がれた。リゼリアの中の、十年前の火と、今の体温が、同時に燃える。

「アルノート。お前は、こんな毒矢一本で」

彼の耳元で、それだけ、言った。

振り返らず、彼女は法廷の中央に倒れた毒矢の罅を、一度だけ見る。

「これで終わらせない。解毒して、最終審理を開かせる。この裁判所ごと、証拠の上でひっくり返してやる」

断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える第8話 毒矢と氷の証言