断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える
第9話 真実の塩、証言者三人
法廷の石床に、折れた拘束具の留め金が転がっていた。陪審席を囲む金具の先端は乾いた血の色を薄く帯び、周囲の衛兵が一瞬、身を固くする。
リゼリアは右手の甲で口元を拭った。拘束具を金具へ打ち当てた反動がまだ手首に痺れている。だが、痛みに構う時間はなかった。背を向けた聖女席の前を駆け抜け、倒れたアルノートの傍へ膝をつく。
「お下がりください、ヴェルンハルト公爵令嬢。処刑囚が法廷内を」
「処刑囚ではないわ」
顔を上げ、衛兵の一人を正面から見据える。声は静かだった。息はわずかに弾んでいる。
「罪は確定していない。これは不当判決よ。それに、私の契約相手が毒矢で倒れている。離れろと命じるなら、北の国境伯の名を呼んでからにしなさい」
口調に皮肉を滲ませる。相手の顔色が迷いに揺れるのを待たず、彼女は傍らへ視線を落とした。マルタが毒矢の刺さった肩口を布で強く押さえている。血の色は悪い。黒い筋が首元へ広がる動きだけは、押さえた端から止まってくれなかった。
「マルタ。今、動かして問題は」
「脈が消えかけています。この冷え、氷の呪いだけじゃない。毒が心臓へ向かう前になんとか」
マルタが短く答え、薬箱の留めを歯で引き抜く。リゼリアは周囲を見渡し、傍聴席の方を振り返った。ルイスが衛兵の間を縫って走ってくる。その後ろに、青ざめた下級官吏が数人。教会派の護衛は、まだ動かない。
弟の手を一瞥し、彼女は低く命じる。
「ルイス、裁判所の正面ではなく西の通用廊から荷車を。向かう途中、聖堂の灯りが見えない道を」
「姉上、それは」
「今は、あの人の家名が何より盾になる。北の法では、氷の血印が王都の許しより先に効力を持つ。ここで衛兵を説得するより早い」
アルノートの腕を肩へ回す。冷たい。だが、触れた場所から霜が退いていく。その変化をマルタが目ざとく見、小さく息を呑んだ。
リゼリアは弟に目配せし、法廷の中央へ体を向ける。拘束具を外した両手で、アルノートの体を支えたまま告げた。
「どなたか、この方の体温を分ける布と馬車を。断るなら武器を抜きなさい。ただし、その一振りが北の結界へどう返るか、覚悟の上で」
沈黙が走る。正面の判事席から、老判事が書面を握りしめて身を乗り出した。衛兵たちが互いを見る。
その瞬間、低い声が割った。
「面白い。ならば、私が運ぼう」
傍聴席の一番後ろから、灰色の外套をまとった男が降りてくる。歳は三十前後か。腰に短剣を下げた軽装の域を、夜の法廷に似合わぬ早足で進んで来た。リゼリアは目を細める。
「名を」
「エリアス・グローフ。元・王都西拘束塔の門衛だ。貸しを返す相手は、あんたとその薬師で間違いないか」
「お前、なぜ」
リゼリアの声がわずかに鋭くなる。エリアスは肩をすくめ、アルノートの足元を示した。
「北から私の妹を生かしたのは、お前じゃない。あんたの後ろにいる女の薬だ」
マルタは止血を続けながら、初めて顔を上げた。唇を一瞬、結ぶ。
「……生きてるのか、あの子は」
「北の村で三年前に嫁いた。教会を追われた薬師のおかげでな。この借り、今返す」
リゼリアは二人のやり取りを遮らず、短く頷いた。法廷の空気が変わっていく。死刑判決の直後とは思えない速度で、周囲から一人、また一人と足音が離れていく。
「ルイス、先頭。エリアス殿は右側で足を。マルタ、私と担架の左右を」
各人が動く。リゼリア自身も、アルノートの右腕を背負い直した。
法廷の外へ出ると、夜風が髪を揺らした。西の通用廊には、聖堂の塔が映らない。エリアスは壁際の紋章灯へ手を伸ばし、片方の明かりを落としていく。闇は深く、足元の敷石だけが白い。マルタが小声で導いた。
「この先の西拘束塔、外から見える位置。塔の根元に旧教会の点検扉があるんです。今も使えるかは」
「あるいは塞がれてるか。確かめてからです」
リゼリアは息を整え、一歩を速めた。担架の上でも、アルノートの体温は自分の左肩から流れ込む熱のぶんだけ持ち直す。それでも、顔の色は紙よりも白い。
「あなたの解毒薬が通じるとすれば、何を使うの」
「地上の薬屋では手に入らない。旧調薬廊の棚に、燈心草香油の分解材が眠っている。教会が凍らせたまま捨てた古い在庫です」
マルタの声は、後悔と覚悟を同時に呑んでいた。夜道の端で、聖堂の鐘が一度だけ鳴る。リゼリアはその音の向こうを見通すように、顔を上げた。
──あの鐘が祈りではなく威嚇に聞こえる夜は、きっと二度とない。
壁伝いに曲がると、西拘束塔の黒い石組みが迫る。マルタが、蔦の垂れた目隠し壁の前に手を当て、古い符丁を三度叩いた。扉は、すぐには開かない。やがて、中から渋い音がして、手のひらほどの隙間が生まれた。
「今入る。足元に階段があるから、段を数えて」
マルタを先頭に、一行は地下旧調薬廊へ体を滑り込ませる。カビと乾いた銀香草の匂い。リゼリアは通路の空気だけで、ここが教会の治癒とは無関係の場所だと判断していた。表に出ない薬と、表へ出さない記録。そういったものが、壁の棚にいくつも並んでいる。
「ここで解毒の第一服を」マルタが棚を引き、幾つもの小瓶を革敷きの台へ広げた。「あんた、抱えてる方をそこの長机へ。ただし、離すな。接触は毒素の抑制材料になる」
「承知しているわ。それで、何から作るの」
「心臓へ回る前に熱を取り戻す。その間、私が矢の残りを抜きます。燈心草香油は冷温で効力を増す。この地下の温度なら、まだ間に合う」
マルタが道具を選ぶ手は、一切迷わない。リゼリアの背に、弟の足音が近づくのが分かった。
「私たちにできることは」
「薬草の番号を間違えないよう、袋に栓をして。終わったら、証拠の数量を数えて。ここへ運び込んだ滋養薬瓶と、毒矢の検査記録。裁判の決め手になる。欠けるわけにいかない」
ルイスが無言で頷き、棚の前へ立つ。エリアスは入り口の石段に腰を下ろし、短剣を抜いて布で拭いた。無駄な警戒ではない。腕そのものが、役割を分かっていた。
半刻ほどの後、アルノートの呼吸がわずかに深くなった。首元の黒い筋は、肩のあたりで迷い、それ以上先へ進まない。目を覚まさせはしなかったが、リゼリアには彼の指先の色が戻ったように見えた。
「一時的には止まった。氷の呪いと毒が、互いに冷やし合って平衡してる。完全に抜くには、この廊の奥の蒸散台が必要です。それから、聖女の滋養薬との比較反応も」
「見せて。その反応、私とあなたとで確認する」
リゼリアは、ルイスが背負ってきた小箱を受け取り、台の上で封を切った。証拠瓶が、しつらえた冷布の中から白い輪郭を現す。あの夜、北で解析して封印した物だ。マルタが、瓶の底へ細い銅針を差し込み、毒矢から採った残滓と並べる。
「どちらも同じ律動で血の温みを吸い、あとから艶を返す。普通の滋養薬の反応ではありません」
「闇魔法性の毒ね。生命力を食わせて、一時だけ血色を良く見せる」
「聖女宮の癒やしの中に行われているものと同じ原理です。ヴェルンハルト家の前夫人が亡くなった経緯を、この薬草の残りが裏切っている」
リゼリアは目を閉じ、開けた。母の枕元、あの妙に明るい血色を思い出す。弱っている病人ほど顔色が良い。その違和感こそが、毒の証だった。
「これを証人と共に法廷へ持ち出す。母の病床録に記された悪化の時系列と突き合わせるの」
言葉は、誰にというでもなく、部屋の空気へ落ちる。
マルタは、しばらく手を止めて、天井を仰いだ。湿った石壁の奥から風が抜け、通路の隅で蝋燭が揺れる。
「元王都教会の高位薬師が、わざわざ北へ逃がされた過去。隠す気はありません。地下の点検扉は、旧教会の薬師だけが使う抜け道でした。私の名で、あと二人を呼べます」
「あなたが王都教会にいたのね」
「十一年前まで。不正の疑いで排斥され、命だけ買った。そのあと北で薬草師を名乗った。それだけの人間です」
リゼリアの左こめかみが、再び熱を持つ。灼痕が意思を持ったように脈打った。触れた手で、アルノートの手首を包む。冷たいが、脈は先ほどより明瞭だ。生きている。
「なら、旧教会の記録係と元門衛を呼んで。証人は、あなたの過去を知っている者に限る。知らぬ者へ手紙を送るよりも、担保になる」
マルタが立ち上がり、調薬廊の奥まった丸窓へ歩いていく。窓の隙間に薬草の葉を一枚置き、指で符丁を空へ流した。風が、その葉を巻き上げる。方角は、夜の旧市街へ向かっていた。
その後、地下特有の静けさが満ちる。数刻を待つ間に、リゼリアはアルノートの指の霜が、自分の熱で薄く溶けるのを確かめていた。誓約書の原本、解毒調合録、矢の検査記録、滋養薬瓶。それらをどこへ置き、誰へ預けるのか。手順を詰めながらも、時折、彼の呼吸に耳を澄ませる。
「ねえ、あなたが聞いていたら。今度こそ、私が先に動く。いいえ——」彼女は自分の声の固さに気づき、笑う。「何でもないわ。起きてから言い直す」
夜半を過ぎ、地下の点検扉が二度、外から鳴った。最初に現れたのは白い記録用外套の中年男、ロルフ・ヴィンクラー。次に、鋭い目つきの女、イレーネ・グラナート。彼らはマルタの顔を見るなり、各々緊張した面持ちで石段を下りてきた。
「お前、まさか本当にここへ」ロルフは低く唸り、荷物の中の抄本を握り直す。「あの教会の裏帳簿を持ち出すなら、私の首も終わりだが」
「守る。証言者三名の名を、真実の塩で固定する。あなた方の安全は、私の名前と、ヴェルンハルトの血で担保するわ」
リゼリアは台の上の小箱を開いた。中から、王都高等法院の封印と同じ型の白い塩壺が現れる。粗い粒が炎の色を鈍く映した。ロルフは息を呑み、イレーネは唇を噛む。
「イレーネ。お母様の病床録を見せて。死の間際、血色が異常に良かった記述があるはず」
「……ある。治癒のあと、三日とおかず寝台を下りた日があった。翌週、急に黄ばんで息が止まりました。あんな治り方は毒か呪いでなければ説明がつかない」
イレーネの声は震えていない。それだけに、怒りが長く積もったことを感じさせる。
「ロルフ。処方簿の差し替えがあった記録、今ここで私にだけ示して。本物は法廷で頼む」
ロルフは一瞬、後ろの闇を見た。それから、抄本の一部を開く。
「王都教会病院の古い処方簿。女神の日付の頁が二枚、糊の痕ごと綴じ替えてある。差し替えたのは……高位聖具係の面々だ。聖女の座が移った年、前夫人の記録も同じ手で消されている」
リゼリアは、その頁が示す欄へ目を走らせた。そこには、毒の原料として分離できる薬草名。燈心草香油の古名。教会の治癒と呼ばれるものの内側が、文字の形をして並んでいる。
「誓う? 三人とも、真実の塩に」
沈黙。エリアスが最初に片膝をつく。次にイレーネ。最後にロルフが、溜め息を絞り出すように前へ出た。
リゼリアが塩壺を三人の中央へ置く。誓約の文言を、古い北の形式で小声に唱える。真実の塩には、成人証人三名の名前と、証言の要旨を記した副本が添えられた。白い紙に、低い炎の灯りが重なって流れる。
「これで、聖女の証言一枚より重い。三人がいる。証拠の出所が教会であり、その癒やしが毒であることを、法廷の手続きの上で覆せる」
リゼリアは、副本を小箱へ収め、封を切った。心臓の音が、静かな地下に響いている。不安ではなく、次の段取りを組み上げる鼓動だった。
「エリアス。あなたに頼めるかしら。招集状を、旧裁判所の監獄巡廊から判事へ。誰にも見られず、通ってきた道で」
「構わない。この道は門衛だった俺でも罰を受けた巡廊だ。今ごろ教会は、正面の門だけを固めてる」
彼は経路図を内袋へ滑り込ませ、短剣の位置を確かめて立つ。ルイスが、書きかけの用紙を差し出した。リゼリアは受け取り、判事への最終審理招集状を手早くしたためる。
「最終審理と証人申請の執行を。教会が逮捕状を整える前に、法廷外の合法性を判事の署名で固定して」
「俺が行けば、遅くとも明け方には戻る」
エリアスが点検扉を抜けていく。足音が遠ざかり、地下は再び息を潜める。
アルノートが、低く息を吐いた。彼の睫毛が僅かに震え、唇が動く。
「……リゼリア」
相変わらず、氷のように低い声だ。呼んでおいて、甘さはない。それでも、彼女の肩から力がひとつ抜ける。
「生きてるわ。約束が邪魔で、死ぬに死ねないのでしょう」
答えない。代わりに、彼は指先で担架の縁を叩く。危険が近いと知らせる、短い合図だった。
その時、地下の丸窓を、外の風が逆巻いた。薄く開いた扉の向こう、旧市街の屋根並みを走る足音。一つではない。マルタが火を絞る。ロルフの手が一瞬、胸の抄本に触れる。
「リゼリア様、あれは」
ルイスの小声に、彼女は首を横に振った。
「動かないで。彼が戻るまで、ここが一番安全よ」
呼吸を整え、息を潜める。その静けさを裂くように、聖堂の方角から、低い歌声が響いた。朝の祈りには早い、湿った詠唱。三人の証人は身を固くした。
やがて、扉の外が黄色く揺れ、エリアスが滑り込んできた。肩で息をしながら、胸元から承認封筒を差し出す。
「判事が受理した。今度の会場は、裁判所じゃない」
リゼリアは封を開ける。白い勅許紙に、判事の署名と古びた聖印。受理番号の上に、会場が記されていた。
「……聖堂地下の聖印の間」
読んだ瞬間、灯りが一度、大きく燃え上がる。三人の証人の影が、壁へ長く伸びた。リゼリアは、ゆっくり顔を上げる。左こめかみの灼痕が、ちりちりと疼いた。
「聖女の権威が一番強い場所。あちらは、そこで始末するつもりね」
彼女は証拠と副本を、三人の手に分けて置いた。同じ場所へ固めるな。誰かが捕まっても、残りが届くように。
「なら、そちらが一番二度と逃げられない場所にしてやる。毒と偽りの聖印を、その場で鎖に繋ぐ」
握りを離した手で、アルノートの手首をもう一度包む。冷たい体温が、応えるように微かに脈打った。聖堂の詠唱は、夜の外で低く続いている。だが、リゼリアの足はもう止まらなかった。