断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える
第10話 白き塩の法廷
まだ藍の残る空の下、朝の光が差し込むより先に、リゼリアは大法廷の石段を駆け上がっていた。濡れた石畳が靴底を滑らせ、肩に掛けた外套の裾が後ろへ流れる。手には判事署名の承認封筒。封筒の角が汗ばんだ指に食い込み、夜明け前の冷えた空気が喉の奥に刺さる。後ろからマルタと三人の証人、担架を押すアルノートの足音が続く。マルタの息遣いは切れ切れで、証人たちの足取りは互いに縺れそうだ。湿った夜の空気を裂いて、聖堂の詠唱がまだ尾を引いている。
「マルタ、証拠は」
リゼリアの声は、走ったせいでわずかに掠れていた。
「ございます。ここに」
マルタが胸の革鞄を押さえる。リゼリアは振り返らず、拳で大法廷の扉を押し開けた。錆びた蝶番が哭く。古い木と蝋燭の匂いが、開いた隙間から一気に流れ出し、彼女の頬を撫でた。傍聴席の視線が一斉にこちらを向く。聖女セレスティーヌが聖女席で白い頬を強張らせ、貴賓席のユリウスが指を組んで喉を鳴らした。
「第3回公開審理の開廷を請求します。判事署名と受理番号はここに」
彼女は封筒を高く掲げる。封筒の端が天窓から差し始めた淡い光を受けて、紙の繊維まで浮かび上がる。傍聴席から、誰かが息を呑む音が聞こえた。ベネディクト・ラウエンが判事席で木槌を握り直し、険しい目で封筒を受け取らせた。開封の音だけが、静まり返った法廷に響く。蜜蝋の封が剥がれる音は、やけに鋭く傍聴席の隅まで届いた。
「受理を確認しました。被告人リゼリア・フォン・ヴェルンハルト、および辺境伯アルノート・ヴァルデックの出席を認めます」
傍聴席がざわめく中、アルノートが担架から身を起こし、リゼリアの右側へ立った。解毒の後の顔色は土気色だが、背は曲げない。その肩越しに、冷たい夜の名残がふわりと漂った。
「無理は」
リゼリアは視線だけで彼を支えようとしたが、口にしたのは短い問いだった。体の芯に残る痛みを押し隠し、彼の袖に手を伸ばしかける。
「命令か」
彼の低い声は、それきり空気を裂いた。その一言には、心配を寄せつけない鋭さがあった。リゼリアは口を噤み、前へ進む。床石の冷たさが、靴底を通して足裏から這い上がってくる。
「本日、真実の塩に誓う成人証人三名を申請いたします。証人名は、元侍医イレーネ・グラナート、旧教会記録係ロルフ・ヴィンクラー、元門衛エリアス・グローフです」
ベネディクトが苦い顔で頷いた。廷吏が三人を証人席へ導く。白い勅許紙が書記の手で読み上げられ、真実の塩が台座へ置かれた。透明な結晶が、天窓から差す朝光に淡く瞬く。六角柱の結晶は、台座の中心で静かに呼吸するように光を返した。
リゼリアは聖女席を振り返った。セレスティーヌの指が、膝の上で白くなるほど組まれていた。
「その塩の前で、もう一度申し上げます。セレスティーヌ様の癒やしは、祈りではありません。生命力を吸収する闇魔法性の毒です。私の母を診たのは、あなたのその御手でしたね」
瞬間、左こめかみの灼痕が、ちり、と熱を吐いた。火傷の跡をなぞるような痛みではなく、内側から押し上げるような熱さ。リゼリアが僅かに息を呑む。その熱は、まるで心臓の拍動に合わせて脈打っている。マルタが傍聴席の最前列から身を乗り出し、手元の反応記録へ視線を落とす。
「リゼリア様、御自分で触れてください。灼痕の熱を」
リゼリアは指先でこめかみを確かめた。確かに、肌が熱い。指の腹にじんとした熱が残り、しばらく離れない。真実の塩の結晶が、その熱に反応するように一瞬、青白い光を通した。
「これが証拠の一部です。私の体は、聖女の癒やしを受けた者の末路を知っています。母は、あなたの診察のたびに衰弱しました。病状は良くならず、顔色だけが一時的に血色を帯びました。あれは活力の偽装です」
傍聴席が息を呑む気配。マルタが記録をペンで押さえる。羽根ペンの先が紙を引っ掻く音が、静寂を細く裂いた。リゼリアの灼痕は、なおも熱を保っていた。
「では、第一証人、イレーネ・グラナート」
ベネディクトの声が、静かに証人席へ下る。イレーネが立ち上がった。灰色の髪を一つに結び、真実の塩へ手をかざす。
「私、元侍医イレーネ・グラナートは、真実の塩に誓って証言いたします。すべて真実を述べると」
結晶が、彼女の言葉に白く応えた。その輝きには、一瞬の迷いも許さない厳しさがあった。
イレーネは胸から、母の病状記録の認証写しを取り出す。黄ばんだ紙片を、廷吏が判事へ回す。紙の折り目からは、古い薬品の匂いがほのかに立ち上った。
「先代ヴェルンハルト公爵夫人は、当初は普通の熱病でございました。ですが聖女様の癒やしを受けた直後、脈が一時的に強まり、その後、半日と経たずに昏睡へ落ちました。この記録の日付の頁をご覧ください。診察前と診察後の筆跡が、同じ私の手によるものです」
ユリウスが貴賓席で小さく笑った。その笑みは、口元だけの冷たいものだった。
「元侍医が何を言おうと、当時の診療記録など教会の承認が必要だろう」
リゼリアが一歩出る。
「その記録は、王都裁判所が証人と共に受理した正式の認証写しです。王太子殿下がお認めにならなくとも、法廷の記録として効力を持ちます」
ユリウスの笑みが引っ込む。ベネディクトが喉を押さえ、証言台へ視線を落とす。
「異議を退けます。証言を続けなさい」
イレーネが息を吸う。その目が、一瞬だけ天井を仰いだ。
「夫人の病室には、聖女様が何度も通われました。診察のたびに、夫人は一度、目を開けて笑われます。ですが翌日には、必ず熱が上がりました。私は、あの癒やしが夫人の命を削っていると確信しました」
傍聴席の奥で、ルイスが小さく拳を握る。リゼリアは弟を見ず、顔を聖女へ向けた。セレスティーヌの白い喉が、ゆっくり動く。その喉元に浮かぶ青い血管が、一瞬、早く脈打ったように見えた。
ロルフ・ヴィンクラーが証人席に立つ。禿げ上がった頭を垂れ、真実の塩へ誓った声は、意外に通った。
「誓います。旧教会の記録係として、私は多くの患者の黒斑を見てきました。聖女様の癒やしを受けた者に共通する、左の鎖骨の下に浮かぶ黒い斑。生前は隠れ、死後、丸一日を過ぎると浮かび上がります」
「その記録が、どこにあるのですか」
リゼリアの問いに、ロルフは古い処方簿の抄本を掲げる。
「ここに写してあります。五人の患者の黒斑の位置と、急変までの日数が」
傍聴席がどよめく。ルイスが身を乗り出し、唇の端で何かを呟いた。ユリウスが腰を浮かせる。
「死者の痣など、疫病でも現れる。決めつけが過ぎるな」
マルタが傍聴席から静かに声を上げた。
「判事さま、検査記録を補強いたします。この黒斑は、教会由来の毒物が血液を巡った痕跡と一致します。毒矢から検出された燈心草香油と同じ系統の反応です」
彼女が手にした聖女の癒やし検査記録を、廷吏が証拠台へ並べる。矢毒の反応と、黒斑の記録。リゼリアの灼痕が、また一つ熱を深める。まるで古傷が、真実へ一歩近づくたびに目を覚ますようだった。
「祈りで人は死にません。魔女の烙印なら、なおさらです。黒斑は、呪いの痕跡ではなく、毒の証拠です」
ロルフの証言が終わり、ベネディクトは長く沈黙した。天窓から、新しい朝の光が差し込んでくる。その光が、証拠台の矢毒の反応を白く照らし出した。
第三証人、エリアス・グローフが前へ出る。沈着な声は、法廷の隅まで淀みなく届いた。
「元門衛エリアス・グローフ、真実の塩に誓います。私は先代公爵夫人の最期の夜、詰め所から病室への裏木戸を開けた者です。侍医イレーネ様の記録には、夫人の死因は持病の悪化とありました。ですが私が見届けたのは、聖女の癒やしの後に始まった、呼吸と臓腑の急速な衰弱です」
「多臓器の衰弱が、直接の死因と断言できるのか」
リゼリアの問いに、エリアスは死因診断書を差し出した。黄ばんだ羊皮紙には、折り目のところで文字がかすれていた。
「この診断書は、当時、殉職した下級医師が私に託した写しです。原本は教会へ差し押さえられましたが、ここには、死因を多臓器衰弱と明記し、自然悪化ではない、と」
傍聴席から、押し殺した悲鳴が上がる。聖女セレスティーヌが立ち上がった。
「違います。私はただ、病人を慰めただけです。そのような毒を、私が作るはずが」
「御自分でお作りになったのです。瓶は白磁、栓は蜂蝋。教会の正規包装で、中身は毒でした」
リゼリアが言い切る。真実の塩が、三人の証言を吸い込み、白い光を放った。灼痕が、それに呼応して熱い。熱は左のこめかみから首筋へと広がり、彼女の呼吸をわずかに深くさせた。
ベネディクトが、木槌を両手で握りしめた。
「聖女の証言は貴族一名より重いとされてきました。ですが本審理においては、真実の塩に誓う成人証人三名の証言と、検査記録が一致しています。よって、この法廷はセレスティーヌ・エルミナの証言を証拠不十分として破棄します」
聖女の顔が、血の気を引かせて白く強張る。ユリウスが、王太子名の審理差し止め令を卓へ叩きつけた。革張りの卓面が、重い音を立てて震える。
「これ以上、王都の聖女を傷つける審理は認めない。廷吏、大法廷を包囲しろ」
貴賓席の後ろで、鎧の音が一斉に動く。廷吏たちが扉を塞ぎ、法廷の四方へ展開する。鉄の靴音が床石を叩くたび、空気が震えた。傍聴席から悲鳴が上がり、ルイスが立ち上がる。三人の証人が、互いの腕を掴んだ。
アルノートが、リゼリアの背をかばうように立った。彼の肩越しに、霜の粒子がかすかに舞い上がった。
「動くんじゃない」
低い声が、包囲の音を一瞬、凍らせる。彼の足元から、白い霜が床を這い、扉の取手を薄く覆った。霜が石の目地を伝う音が、かすかに周囲へ広がる。
「攻撃魔法です。王都内で、禁忌ですわよ」
セレスティーヌが喘ぐように告げる。リゼリアは半歩、アルノートの横へ並んだ。燃えるような灼痕を押さえ、判事席を仰ぐ。
「ベネディクトさま、審理続行を。差し止めは王太子の政治です。法廷の記録は、まだ閉じられておりません」
ユリウスが、紅潮した顔で叫ぶ。
「王太子令だ。誰であろうと、この場で逆らえば反逆だ」
「反逆の演説を、判事の前でなさるのですか」
リゼリアの声が、冴えて響く。アルノートの凍気が、扉を白く縁取った。廷吏の一人が剣の柄に手をかける。空気が、張り詰めた。
リゼリアは判事席の前へ歩み出した。
「差し止め令が有効なら、証人の保護はどうなりますか。この三人の命と、証拠の入った瓶。貴方の署名した最終審理の記録は、聖女の証言を破棄した後で、なかったことにできるのですか」
ベネディクトの顔が、苦渋に歪む。銀の木槌が、震えながら持ち上がった。
「閉廷は、できません。差し止めの適法性を、まず検証する」
ユリウスが、忌々しげに貴賓席の肘掛けを叩く。アルノートが、わずかに唇を開いた。
「賢明だ、判事」
氷の低い声。リゼリアは振り返らず、背後の男の凍気を肌で感じた。うなじの産毛が逆立ち、けれど不思議と恐怖はなかった。包囲は解けない。だが、閉廷もされない。夜明けが、完全に法廷を白く染め上げる。三人の証人の誓約が、真実の塩の上で静かに光っていた。