断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える
第11話 凍れる法廷の誓約
「包囲を解け」
リゼリアの声が、凍りついた法廷の空気を裂いた。
大法廷は朝の光に白く満ちている。天窓から差し込む光が、床に散った霜と混ざり、三人の証人の立つ証人席を淡く浮かび上がらせた。王都最高裁判所、大法廷。ユリウスが叩きつけた王太子名の審理差し止め令が、判事席の前でひっくり返ったまま光っている。
「判事、差し止め令の適法性を検証すると仰った。ならば検証の間、証人の保護は法廷の責務です。廷吏を下がらせ、扉を開けなさい」
ベネディクトが、痩せた頬をわずかに震わせた。木槌が、半ば持ち上がったまま止まる。
「リゼリア・フォン・ヴェルンハルト。差し止め令の適法性は確かに検証する。しかし、王太子令という形式そのものは有効性を帯びる。廷吏の配置を解く権限は、現時点で私にはない」
「では、証拠が汚されるおそれは検証の対象にならないと?」
彼女の背後で、アルノートの足元から伸びた霜が、扉の取手を覆ったまま溶けずに残っている。廷吏たちは剣の柄に手をかけた姿勢を崩さない。
「下がれ」
アルノートが一歩踏み出す。低い声は短く、壁を這って包囲全体に届いた。
「王都内での攻撃魔法は禁じられている。俺がこのまま凍気を広げれば、どちらが先に処断されるかは火を見るより明らかだ。違うか」
廷吏の一人が、後退した。鎧の音が、床石に冷たく響く。ユリウスが貴賓席で顔を歪めた。
「脅しか、ヴァルデック辺境伯。王太子の名を背にした私を」
「王太子の名など、今この場で剥がれ落ちるぞ」
アルノートの言葉に、リゼリアは半歩身を引いた。彼の横顔を見る。低い体温を感じるが、先ほどまでの凍てつく気配はない。毒は抜け、氷の制御は戻っている。ならば、この流れを止めるべきではない。
「判事。差し止め令の署名を、まず検分なさってください」
彼女は判事席へ進み、床に落ちた令状を拾い上げた。白い紙面に、王太子ユリウスの名が黒々と記されている。
ベネディクトがそれを受け取り、眉を寄せた。
「……令状の形式は正規のようだ。ただ、王太子御本人がこの場で発した令である以上、署名の真贋は問えまい」
「問うまでもない。俺が保証する」
アルノートが言った。
「その男は今、自分の筆跡で自分の墓穴を掘っている。ロルフ・ヴィンクラーを証人席へ呼べ」
リゼリアの喉が、かすかに鳴った。この男は、どこまで読んでいる。いや、信頼が先に来たのだ。自分が呼ぶと決めた証人の名を、彼は迷いなく継いだ。
「ロルフ・ヴィンクラー」
彼女の声が、再び法廷を貫く。
「ユリウス殿下が毒瓶を自ら偽造し、カインに渡した経緯。真実の塩に誓って証言なさい」
証人控えの席から、ロルフが立ち上がる。老いた記録係の顔は土気色だが、足取りに迷いはない。証人席に立つと、傍聴席から小さなどよめきが起きた。
「真実の塩に誓います。私がこの法廷で述べることは、すべて事実です」
塩皿に祈りの指を落とす。白い光が、音もなく弾けた。
「王宮文庫裏丁の出庫簿に、毒瓶の記録がある。余は知らぬな。でっち上げよ」
ユリウスが先回りして吐き捨てる。ロルフはまっすぐに王太子を見た。
「出庫簿には、王太子宮の封蝋が押された記録があります。だが、それは出庫の半月前の日付でした。出庫より後に押された封蝋が、なぜ記録の先頭にあるのか」
ユリウスの指が、肘掛けを叩いた。
「そういう問題ではない。偽造されたと言いたいのか。誰が、なんのために」
「殿下、誰がと問われて黙っている者を、法廷はどう裁くのでしょう」
リゼリアの皮肉が、静かに刺さる。ユリウスが立ち上がりかけた肩を、廷吏の槍が押さえた。
そのとき、ロルフが懐から一冊の薄い冊子を取り出した。
「出庫簿の筆跡と、殿下が先ほど法廷へ叩きつけた差し止め令の署名。この二つを並べていただければ、筆圧と字のかすれの癖まで検分できます。文字を偽ることは、誰かに見られると思わないときに一番、露骨になるものです」
傍聴席が、静まり返った。
「証拠として、出庫簿の照合を求める」
リゼリアが言い切る。ベネディクトがうなずいた。
「提出を認める。廷吏、証拠台へ」
ロルフの小冊子が、証拠台に置かれた。そこへ追い打ちをかけるように、エリアスが法廷の外から大股で入ってくる。手にした巻物を両手で掲げ、汗に濡れた顔で言った。
「判事、王宮文庫裏丁より、出庫簿の原本をご用意しました。閲覧室からの直送です。封印は、ここで解きます」
彼は巻物の封蝋を割った。赤い蝋の破片が、証拠台の上に散る。
「こいつは、誰の許しを得て持ち出した」
ユリウスの声が、初めて裏返った。
「前回の審理で、裁判所が文書提出を命じていました。王宮文庫は、裁判所の閲覧請求を受ける義務がございます。元門衛の私が持ち出すのでなく、文庫係より正式に受領しております」
エリアスの答えに、ユリウスの顔色が変わった。リゼリアはエリアスを見ず、ただ証拠台へ歩み寄る。
「殿下がカインに毒瓶を用意された事実。その瓶に使われた白磁と蜂蝋は、王太子宮の厨房でも教会の正規包装でも、どちらでも調達できます。唯一、王宮文庫の出庫簿だけが、その動きを記録している」
「黙れ」
ユリウスが吐き捨てた。
「もういい。出庫簿は偽物だ。この裁判は、私が王太子の名において全員を処分する」
「王太子の名で、今度こそ終わりだ」
アルノートが証拠台の前へ並んだ。二つの書面を並べ、指先で行をなぞる。その指先が、わずかに白い息を立てた。
「見るがいい。印璽の縁。出庫簿の封蝋は、この差し止め令と同じ偏りで押されている。王太子宮の印は、持ち手の癖で右下が深くなる。これは、十代の頃から変わっていないらしいな」
ユリウスの右手が、無意識に印璽をかばうように動いた。
「この筆跡と封蝋が、貴様のものだと判事が認めるなら、毒瓶偽造の記録は正式に裁判記録へ登録される。そして、王太子宮の文具を私的に使った記録までが、この法廷の証拠になる。判事、証拠登録を」
ベネディクトが、苦い顔のままうなずいた。
「出庫簿原本と差し止め令の照合結果を、証拠として登録する」
ロルフが息を吐いた。証言は、成立した。傍聴席の貴族たちが互いに顔を見合わせる中、リゼリアはマルタへ視線を送る。
彼女は証拠台の庇から一歩出た。
「判事、王都教会署名の旧修道院記録の提出を求めます」
マルタの声は、低く、よく通った。手にした麻布が外される。中から現れたのは、黄ばんだ羊皮紙の束だ。
「教会の封印庫にあったものを、北の修道院が写した記録です。王都教会の当時の薬師長と聖女宮の名が、この署名に並んでおります」
ベネディクトが身を乗り出す。
「氷の呪いの起原……だと?」
「はい。ヴァルデック家の初代辺境伯が受けた氷の呪いは、北部の結界を維持するためのものではありません。聖女の力を継続的に強化するために、教会へ霊力を送る装置として人に植え付けられました。呪いではありましたが、同時に教会が引いた回線でした」
アルノートの肩が、わずかに動いた。その横顔が、氷の下から生身をのぞかせる。
リゼリアは彼を見なかった。見なければ、法廷は続けられる。だがアルノートが一瞬、息を止めたことだけは、背中越しに分かった。
「ヴァルデック家の直系が結界を負うほど、聖女側へ力が渡る仕組みです。結界が弱まれば聖女も弱まる。だからこそ、教会の封印式と王太子の陰謀が、北部の結界不安定化と同じ輪につながるのです」
廷吏の一人が、証拠台の前へ半歩進んだ。マルタが、書類を持つ手を守るように引く。
「この記録は、元高位薬師としての私が内容を確認いたします。偽物の疑いがあれば、真実の塩の上で審議なさればいい」
ベネディクトが、深く息を吐いた。
「……提出を許可する。証拠として、裁判記録に登録する」
マルタが、静かに膝を折った。
その瞬間、セレスティーヌが証人席で立ち上がった。
「偽造よ」
彼女の声は、あの慈悲ぶった甘さを失っていた。
「全部、私を陥れるための偽造。聖女の証言は、この国で一番重いの。あなたたちの証拠なんて、破棄してあげる」
セレスティーヌは胸元の聖印を引き出した。青白い光が、指の間から漏れる。彼女は両手で聖印を握りつぶすように圧し、祈りの体勢へ沈み込んだ。
「やめろ、セレスティーヌ」
ユリウスが叫んだが、その声は既に届いていない。
空気が、内側から割れた。音ではなかった。耳の奥の空気圧が、急にゼロになって、すぐ逆流する。聖印から闇魔法の波動が広がり、証人席の花瓶が割れ、傍聴席の前列を白い泡が包んだ。
アルノートが、リゼリアの前へ出た。
「伏せろ」
リゼリアは伏せなかった。彼と並ぶ。
「あなたは退いてください。これは、あなたを狙う波です」
「だからだ」
彼の肩から、霜が一気に噴き出した。氷の呪いが、聖印に呼応して膨張してゆく。胸元の氷斑が首筋へ広がり、シャツの上まで白く覆う。
このままでは、アルノートの身体が氷の像に変わる。
リゼリアは懐から、血の誓約書の認証写しを取り出した。両の手で開き、光へかざす。
「アルノート」
まるで主語を確かめるように、短く呼ぶ。
「私を見て。誓約は、ここにある」
彼が振り返る。その目は、氷の奥にまだ人間の温度をわずかに残していた。リゼリアは、一歩踏み込んで彼の右手を取った。彼の手が、恐ろしいほど冷たい。彼女は自分の掌で包み、指を割って握った。
「聖女の力を受けて、あなたの氷が進むなら、私の熱もまた、この誓約に届く。そういう契約のはずでした」
「熱が、届いている」
アルノートの声が、かすかに震えた。氷の粒が、まぶたから落ちた。
「なら、一緒に砕け」
リゼリアが奥歯を噛み、アルノートの指を引いた。
彼が逆手に剣を抜く。刃に霜が走る。リゼリアは、誓約書を胸へ押し当てたまま、彼の腕ごと聖印へ踏み込む。灼痕が熱を持ち、左のこめかみが白く火花を散らした。
アルノートの剣が、光ごと聖印を貫いた。
リゼリアは、聖印に拳を振り下ろしていた。血の誓約書ごと、掌で押し砕くように。
聖印が砕けた。青白い光が爆ぜ、床に無数の破片を散らす。波動が消える。氷の呪いの急激な広がりが止まり、アルノートの肩から霜が剥がれ落ちた。
「動くな」
彼の剣が、ユリウスの首元を捉えた。
同時に、リゼリアの短剣が、セレスティーヌの喉へ当たる。
「私の剣は、いつも袖にある。聖女のご加護で、お気づきにならなかった?」
ユリウスが、両腕を衛兵に押さえられた。セレスティーヌは、聖印の破片を踵で踏み砕く。
「よくも、私の宿した光を……」
「加護は消えました。あなたが私の熱を吸い上げる資格は、もうどこにもない」
転移門で駆けつけた衛兵たちが、二人を完全に拘束した。ベネディクトが、木槌を握り直す。法廷の空気が、ようやく動き出す。
「裁判を、再開する」
ベネディクトが言った。
ユリウスが、振り返って叫んだ。
「この私が、法廷の判事ごときに……」
「お黙りなさい。貴公はもう、拘束下の被告人です」
ベネディクトの木槌が、床を打った。廷吏たちの包囲が解かれ、大法廷の扉が開く。
リゼリアは、跪くユリウスとセレスティーヌの間へ歩み出た。聖印の破片を、黒い指輪の手で握り締める。
「最終判決まで、拘束は解きません。王都教会と王太子の責任は、私が必ず明らかにします」
二人の顔が、朝の光の中で蟻のように歪んで沈んだ。