氷雪の契約結婚~冷徹公爵は偽りの妻を溺愛する~
第4話
夜半を過ぎた黒い書斎に、雪明かりが床を冷たく裂いていた。アヴェリンは外套の内側に半分焼けた手紙を折り込み、握りしめた匿名の紙片が白く変色するほど指に力を込めていた。リアンが裏切り者だと思ったのは、間違いだった。彼が何かを隠していなかったわけではない。だが、あのとき顎を捕らえたのは間違った問いで、正しい問いは彼を北へ追いやったのだ。
廊下の奥から足音が聞こえた。濡れたブーツが速く床を叩き、やがて扉の枠に柔らかくぶつかる音がした。
リアンが押し入るようにして入ってきた。外套は雪に覆われ、走ってきたせいで頬が紅潮している。彼女は敷居を越えたところで立ち止まり、アヴェリンの手元を見た。
「気づかれたんですね」リアンの声は縁が擦り切れていた。「遠くまでは行っていません。暗号を読めば、母の印章を誰が持ち出したか分かると思ったんです」
彼女は書斎を横切り、濡れた足跡を黒く残しながら、折り畳まれた紙と、体温で柔らかくなった小さな羊皮紙の一片をアヴェリンの掌に押し込んだ。羊皮紙には、木炭で写し取られた印章が描かれている。半分燃えた封蝋の途切れた中心部まで、一筆ずつ忠実に写されていた。
折り畳まれた紙は、ありふれた蝋で封がされていた。中の指示は短く、注意深く書かれている。
「二つ目の夜鐘までに一人で来ること。印章の残り半分を持つ者が、東の出撃門の外で話をしたいと望んでいる。砦の者は誰も連れてくるな」
アヴェリンは二度読んだ。
リアンの唇はひび割れていた。「東の出撃門の衛兵は、私が名簿に載っているから通してくれました」
アヴェリンはその密会の手紙を、リアンの机の端に置いた。しまわない。わざと表を上にして置き去りにした。すでに拒否された物のように。
「一人で出て行ったのね」アヴェリンは言った。
「分かっています」
「罠を持ち帰ったのよ」
「それも分かっています」リアンは自分自身を抱きしめた。「でも、この印章だけが本当の証拠なんです。封印審問の台帳には載っていませんでした。あなたが測量に行った後も調べ続けたんです。ページが抜かれていました」
アヴェリンはもう一度、その写しを見た。写し取られた印影は、半分燃えた封蝋に、折れた歯が歯槽に収まるかのようにぴたりと嵌った。台帳などなくても分かることだった。
「一人では行かない」アヴェリンは言った。
リアンは瞬きをした。「でも、手紙には——」
「待てる話よ」アヴェリンは写しを元の折り目に沿って一度折り、隠していた手紙の上から外套の内側に滑り込ませた。「これをリアンに持っていく。今すぐに」
リアンの顔は安堵と恐怖の間で揺れた。
「彼はもう出立しました」リアンは言った。「砦全体が、夕方からずっと北へ動いています」
「ならば、その人物は北の砦にいるはずだ」
アヴェリンはリアンの手首を、濡れたウール越しに強く掴んだ。痛いほどではない。だが有無を言わせぬ力で、彼女を書斎から引きずり出すように廊下へ出た。密室の会見録に押された封蝋が、冷えた部屋の中で固まりきる前に。
廊下には濡れた石と蝋燭の煙の匂いが漂っていた。夜警の兵が二人の姿を認めたが、何も言わない。書斎の扉に押された大公の封蝋はまだ熱を帯びていて、詮索を拒んでいた。
外の中庭はもっと酷かった。雪が小さく硬い粒になって顔を打つ。アヴェリンは顔を伏せ、風に逆らってリアンと歩いた。やがて閉ざされた兵舎の列の向こうに、北の砦の黒い輪郭が低く広がって見えてくる。鉄の門の脇で松明が激しく揺れていた。
歩哨が一人進み出て、道を塞ぐように長槍を斜めに構えた。
「大公閣下は霜の準備の最中だ。誰も通すなとの仰せです」
アヴェリンは歩哨の顎紐に張り付いた霜が見えるほど近くまで歩み寄った。
「公爵夫人が書斎より参ったと伝えよ。ソルトメア封印審問に関する証拠を携えている、とな」
歩哨の動きは鈍かった。リアンが誰も通すなと命じていたのかもしれない、とアヴェリンは思う。
「ここでお待ちを」
そう言って歩哨は石段を上っていった。
風が応えるように吹きつける。リアンの歯がかちかちと鳴っていた。
アヴェリンは外套の内側で、あの手紙と一緒に素描を押さえた。紙の端から冷気が染み込み、ポケットの中で硬くなっていくのが分かる。
歩哨が戻ってきたとき、その後ろに二つの人影があった。リアンが外套を肩に引っ掛けたまま石段を下りてくる。左手の手袋は外れたままだ。オスカーは一歩後ろを歩き、肩に雪を積もらせていた。
リアンの顔は門の前まで来るまで、何も語らなかった。
「入れ」
門が開いた。
北の砦の作戦室は狭く、熱がこもっていた。中央で火鉢が赤く燃え、奥の壁には地図が何枚も貼られている。リアンは火鉢の傍まで歩いたが、腰を下ろそうとはしなかった。オスカーが扉を閉め、閂を掛ける。
アヴェリンは素描を取り出して広げた。木炭は滲んでいない。火の光の方へ差し出す。
「リアンが封印台帳から写したものです。頁が抜かれる前に」
オスカーが、わずかに震える息を吐いた。
「頁が抜かれていたのですね」それは告白のような口調だった。「審問が閉じる前に、俺は記録庫を二度探しました。ソルトメアの封印目録の一頁が、どうしても見つからなかった」
リアンがオスカーを見た。唇が真一文字に結ばれる。
「なぜ私に報告しなかった」
「いいえ」オスカーはわざとらしいほど深く頭を下げた。「俺はまず自分で見つけようとしました。そして失敗したのです」
リアンは二人の顔を交互に見た。 「じゃあ、それを奪った人が同じ印を手紙に押したんですね。だから絵が一致するんだ」
リアンはその絵を見なかった。右手の篭手を火鉢の縁に当てたまま、左手の手袋の革が黒ずみ始め、手首から細い煙が立ちのぼる。
「これは暗号の絵だ。役には立つ。だが、書いた者を証明するものではない」
「再審査を強制するには十分な証拠よ」アヴェリンは淡々と返した。「公証記録庫に残りの頁が保管されているわ。もし欠けた頁が失われていても、前後の頁を見ればどの印が記録されていたか分かるはず」
リアンの顎が強張った。手袋から上がる煙が一瞬濃くなり、何かを噛み殺したように止まる。
オスカーがアヴェリンへ向き直った。 「コーラ・ヴェインの記録庫を公証審査するには、彼女自身の官署か帝国公証人の命令が必要です。どちらも我々にはありません」
「私がいるわ」アヴェリンは瞬きもしなかった。「彼女はヴェイン家の家系登録簿に対する異議申し立てには応じなければならない。封印目録の審査はその申し立ての一部よ。先延ばしにはできても、婚姻契約に基づいて拒否すれば契約そのものを争うことになる」
リアンはまだ黙っていた。背後で火鉢がかすかに鳴る。
やがて彼はリアンを見た。
「砦を抜け出したな」
リアンの顔から血の気が引いたが、視線は逸らさない。
「絵を持って戻りました。誰にも会っていません」
リアンの表情が一瞬だけ扉の方へ動き、すぐに戻る。
「オスカー」
「大公閣下」
「彼女を東の衛兵詰所へ連れて行け。砦からの外出は許さぬ。伝言もだ。彼女の身柄はお前が責任を負え」
オスカーは一礼した。 「承知いたしました」
リアンは口を開きかけて、閉じた。
「オスカーと行きなさい」アヴェリンは妹の冷えた頬に一度だけ手を触れた。「朝までには私も行くわ」
リアンはされるがままになった。オスカーが肩の外套を引き締めてやり、扉へと導く。閂が外れると、刃のような冷気が流れ込んできた。
火鉢の傍らにはリアンとアヴェリンだけが残された。
リアンは絵を手に取った。左手の手袋の煙は止まっていたが、手首はまだ焦げた匂いがする。彼は紙を灯りに近づけ、印影の壊れた中心をじっと調べた。
「一人きりの面会を断ったな」
「ええ」
彼の目が彼女を刺すように見た。
「なぜだ」
「私を一人にしたがっている相手は、私が手紙を保管していることを既に知っているからよ」彼女は腕を組んだ。「それに、あなたも同じように断ったはずだわ」
リアンはその絵を地図机の上、狼の形をした硝子の文鎮の隣に置いた。
「コーラの記録庫で公証審査を仕組む」彼は抑揚なく言った。「だが今夜ではない。彼女にそれが来ると見せつつ、どの頁を我々が探しているかは悟らせない」
アヴェリンは待った。
「君は登録された公爵夫人として臨む」とリアンは続けた。「オスカーが、彼女が次の頁を抜く前に審問記録を確保する。欠落した頁が彼女の私的書類にあるなら、審査はそれを要求する根拠になる」
火鉢の熱が顔に当たっていたが、指先の冷えは残ったままだ。
「彼女が審査を拒んだら?」
リアンの口元がわずかに曲がった。笑みと呼ぶには足りない。
「辺境伯領を拒むことになる」
狭く暑い部屋に、一拍の沈黙が落ちた。
アヴェリンは扉のほうへ向きかけた。その背に、リアンがもう一度声をかける。
「あの絵はノースキープに置いていく。俺の手元にだ」
断る理由はなかった。紙は地図机の上にあり、彼女はそれを狼のガラスの頭部の傍らに残した。暗号の最後の言葉が属する場所だった。
その夜更け、アヴェリンがリアンの背後から閾を越えると、宝物庫は溜め込んだ冷気を吐き出した。文書室のこもった熱が、まだ袖にまとわりついていた。
コーラの宝物庫の外の廊下は、石が冷気を抱え込んでいる。アヴェリンはリアンと歩調を合わせた。半分焼けた手紙は胴着の内側に平たく折り畳み、あの絵も同じ胸ポケットにある。蝋の拓本は歩くうちに硬くなっていた。
「彼女は根拠を要求するわ」とアヴェリンは言った。「沈黙で返さないで。彼女は沈黙を有罪と受け取る」
リアンは歩調を変えなかった。「ブラックスパイアの権威は弁明しない」
宝物庫の扉は半開きだった。コーラは高い机の向こうで待ち、白手袋を前に揃え、銀のワイバーンが襟元で松明の光を受けていた。彼女の視線は、アヴェリンの内ポケットの書類挟みへと向かう。
「この時刻に公証人審査とは」とコーラは言った。「大公閣下ご自身が証人とは、光栄ですこと」
アヴェリンは書類挟みを机に置いた。「あなたは二日間、私の身体検査を要求してきた。今度は私があなたに要求する。記録担当公証人は、自ら求める検証と同じものに服するべきだ」
コーラは手を伸ばさない。「封印された契約の執行における公証人は、検査する側です。検査される側ではなく」
「今夜は違う」リアンは机の一歩手前で止まった。「それとも辺境伯領の衛兵にやらせたいか」
空気が変わった。コーラの指がほどけ、また組まれる。
「あなたの書類を拝見します」と彼女は言った。「それから、軍靴の脅し抜きで話し合いましょう」
アヴェリンはまず手紙を取り出した。「焼けた端に部分的な封蝋の印が残っている。ブラックスパイアの台帳にある印章と一致する」
「そのような申し立ては、いかなる貴族をも汚すものです」とコーラは答えた。「印影を私自身に確認させてください」
アヴェリンは紙を離さなかった。折り畳んだ角が一度だけ震える。それから彼女はそれを平らに置き、手のひらを机に突いた。
「賽はここにあります」アヴェリンが言った。「あなたの襟元です」
コーラの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「芝居ですね」
「なら、外してみせて」アヴェリンは銀のワイバーンを指先で弾いた。「ローブの下の留め具です。紋章じゃない。隠された方の」
リアンは机の端を回り込み、内側の扉を背にした。コーラは体ごと振り向かず、目だけで彼の動きを追った。卓上に触れた指の節が白い。
「留め具の役割を、あなたは誤解しています」
「なら訂正して」
二呼吸のあいだ、誰も動かなかった。
コーラは襟元に手をやった。上着のローブがわずかに開き、その下でもう一つの留め具が黒い布を押さえている。小さな銀の賽だった。宮廷では使えぬほど面の磨耗した賽。彼女が外すと、澄んだ音が静寂を裂いた。
アヴェリンは手紙を松明の光に透かした。部分的な印章が、賽の下部の曲線と重なる。グリフィンの鉤爪。折れた鎖。三本目の爪にある同じ欠け。
「ソルトメアの公証賽だ」リアンが言った。
コーラの目が細まる。「蝋の欠片で証明など不可能です」
「あなたのローブから出てきた」アヴェリンが応じた。「飾りとして身につけていた賽。証明はあなたと共に歩いている」
コーラの微笑は崩れない。彼女は賽を外すと机の上に置いた。その手は揺れない。揺れなさすぎた。
「二年かけて告発を練り上げたのでしょう」彼女は言った。「終わりは始まりと同じ場所。あなたの口の中です」
彼女が一歩下がる。踵が床を二度打った。意図的な間隔。右側の本棚が音もなく内側へ滑り込んだ。
リアンが動いた。速い。
だが遅かった。コーラはすでに敷居を越えている。隠し扉が背後で閉じ、石と石が噛み合う重い音が響いた。リアンの肩が板にぶつかる。衝撃は枠から埃を落としただけだった。
「外だ」彼が命じた。衛兵の応答はない。この部屋は音を呑む。
アヴェリンは机の前に立っていた。賽はコーラが置いた場所にある。手紙の隣。彼女は持ち去らなかった。持ち去る必要がなかった。証拠は残ったが、裏切り者は消えた。
「内扉を」リアンが言った。「この部屋は彼女の設計だ」
「なら、彼女の設計を逆手に取りましょう」アヴェリンは背後の壁の棚を走査した。台帳、公証記録の巻物、古い封蝋壺。「自分の書類を扉の近くには置かないはず。隠すなら、背後の守れる場所よ」
リアンはまず本棚を試した。動かない。彼はブーツの底で下段の棚を蹴った。木が割れたが、抜けない。
「ここよ」アヴェリンは壁に埋め込まれた細い引き出しを見つけた。鍵なしで開く。中には革装の写本が一冊。背は寒さで割れ、ページから古い獣脂の匂いが立ちのぼった。
「『霜の儀式』の条項だ。古いウォーデンの文字で書かれている」
リアンは写本を掲げ、抑えた声で読み上げた。
「『結界が更新されるのは、相続人が自由意思で宣誓した場合に限る。強制または偽造された宣誓は、結界を強化するどころか破砕する』」
アヴェリンの顔から血の気が引いた。
「だから、あの抜かれた頁が必要だったのね」
「まだある」
リアンが写本を回すと、後半部から二つ折りの羊皮紙が一枚、はらりと落ちた。下書きだ。帝国の印章は押印ではなく描き写されていた。文面にはリアン・ヴェインの名が記され、霜の儀式を首都の審査が済むまで停止せよと命じてある。
「偽造ね」
「署名はない。後援者の印章を待つための下書きだ」
リアンの顎に力がこもった。
「あの女はリアンを連れ去り、儀式を止めるつもりだった。そして結界を落とす」
アヴェリンの言葉に、リアンは反論しなかった。机の紙に条項を鋭い筆致で書き写している。アヴェリンも偽造命令書を写し取り、手紙と素描と一緒に二枚とも上着の内ポケットへ折り込んだ。
「衛兵!」
リアンが外扉を開け放ち、廊下へ声を張り上げた。
「北の砦の儀式場を封鎖しろ。俺が着くまで誰も近づけるな」
遠い広間から応じる足音が響き、若い兵士が命令を復唱して駆けていく。
と、石造りの保管庫が震えた。扉ではない。地の底から響く深い揺れが石壁を伝わり、鉄の燭台が金具ごとがたがたと鳴った。細窓の向こう、砦のはるか彼方で、霜の境界線が白く閃き、そして翳る。
アヴェリンは地平線を見据えた。結界はもう弱まり始めている。
リアンは机のそばに立ち、焼け焦げた手袋を左の手首に押し当てていた。革から煙が立ちのぼる。かすかに、しかし勢いを増して。彼は何も口にしていないのに、烙印は燃えていた。誓約は罪の有無など斟酌しない。ただ彼が語れないことを罰するだけだ。
「次の戦いは冬至よ。この部屋じゃない」
アヴェリンが言った。リアンが振り向く。その瞳は、流れる川の上に張った氷のようだった。
「ならば儀式場へ行こう」
彼女はすでに動き出していた。