外れスキル『翻訳』で魔物と会話できた俺が、伝説級と契約して大陸最強に成り上がる
第1話 魔物と交わる声
瓦礫がまだ転がっていた。ガルドの剣だけが三歩先に落ちていて、鞘は空っぽのまま回転を止めた。
壁が唸る。いや、壁じゃない。岩甲獣の喉の奥だ。
「卵を、返せぇ……奪った者を、焼き尽くす……!」
ソーマの耳に、咆哮が意味として届いた。灰色の目が細まる。足裏から伝わる震動が、あの巨体の突進力そのままだった。
「ガルド、動くな」
地面を蹴る。前衛の巨漢は岩壁に背中から叩きつけられていた。肋骨のあたりを押さえ、歯を食いしばって立ち上がろうとしている。
「剣を拾うなと言ってるんだ」
ソーマは言い切り、両手を上げて岩甲獣の正面へ出た。黒いロングコートの裾が揺れる。岩甲獣の鼻面までは二十歩もない。
「止まれ」
魔物語だった。人間の喉から出るべきではない低い唸りが、ソーマの口から紡がれる。
岩甲獣の前足が止まった。石の甲殻に覆われた頭部が、ゆっくりとこちらを向く。黄色い瞳がソーマを映した。
「聞こえているな」
「人間が……我らの言葉を……?」
「ああ。だから撃つな、ガルド」
ガルドが半身を起こしたまま、剣の柄に手を伸ばしかけていた。ソーマは視線だけで制す。岩甲獣の呼吸が、熱い風になって頬を打った。
「卵を返せ、だそうだ」
「……何を言って」
「こいつは俺たちが卵を盗ったと思ってる。奪還の咆哮だ。まだ交渉の余地はある」
「交渉だと? 魔物と?」
ガルドの声に困惑と警戒が混じる。無理もない。人間と魔物の会話は、物理的に不可能とされている。
ソーマは一歩踏み出した。空の両手を胸の高さに保ち、指を広げる。
「我々が奪ったわけではない」
「人間は、皆、奪う」
岩甲獣の声が地を這う。怒りで甲殻が微かに持ち上がり、隙間から蒸気が漏れた。
「この縄張りに人間が入った時点で、貴様らは同罪だ」
「違う。俺たちは探索隊だ。卵には触れていない」
ソーマは地面を指した。岩甲獣の足元、砕けた岩の間に黒い罠が覗いている。鋼の歯が剥き出しになった足挟みだ。
「見ろ。これは誰が仕掛けた?」
岩甲獣が鼻を近づける。罠の匂いを嗅ぐ動作だった。
「……人間の鉄と油の臭い」
「それを作ったのは俺たちか?」
「知らぬ。だが人間の道具だ」
ソーマは数歩横へ動いた。倒れた石柱の裏に、砕けた卵殻が散らばっている。白い欠片が三つ。乾いた血が黒くこびりついていた。
「卵を奪った奴が通った道だ。匂いを追えないか」
岩甲獣の瞳孔が開いた。
「人間風情が、この我に追跡を命じるか」
「命じていない。お前の嗅覚なら追えると言っただけだ」
一瞬の静寂。ガルドが息を呑む音が聞こえた。
岩甲獣がゆっくりと頭を下げ、罠の周囲を一周した。それから横道の入口に鼻先を向ける。
「血の匂いだ。新しい。……密猟者だな」
「どうする」
「どうする、だと?」
「追うか、追わないかだ。卵を取り返すなら今だ。匂いが消える前にな」
岩甲獣の尾が石畳を打った。轟音。天井から細かい砂が降る。
「貴様、何を企む?」
「企みはない。俺たちは無関係だと示したいだけだ。お前が追跡すれば、本当の賊に行き当たる」
岩甲獣は長い沈黙の後、横道へ首を向けたまま言った。
「面白い。人間が我に選択肢を差し出すとはな」
「答えろ。追うのか」
「この場で貴様を砕く方が早いが……卵は今しかない」
巨体が動き出した。横道の天井が低い。岩甲獣は身を屈め、甲殻を擦らせながら闇へ消えていく。
ソーマは動かなかった。十秒。二十秒。振動が完全に消えるまで待ってから、肺の空気を吐き出した。
「……立つな。肩を貸す」
ガルドの脇に手を入れて抱える。巨漢の体重がソーマの肩にのしかかった。思ったより熱い。服の下で筋肉が震えている。
「お前、今、あの咆哮が聞こえたのか。言葉として」
ガルドが低く尋ねた。
「聞こえた。意味もな」
「……馬鹿な。魔物語を人間が理解できるはずがない。そんな報告は……過去に一例も」
「事実だ。お前が生きてるのが証拠だ」
ガルドは言葉を失い、黙ったまま石段へ向かう。坑道の空気が湿って冷たい。たいまつの火が出口の風で揺れている。
二人の足音が壁に反響した。ガルドの呼吸は浅く速い。あばらがひび割れている。一歩進むごとに眉が動いた。
「息を止めるな。浅くてもいい、続けろ」
「……痛みに耐えるのは慣れている。それより、あの魔物は本当に密猟者を追ったのか」
「追った。匂いの方向を知っていた。嘘を吐く理由もない」
「理由がないと、なぜ?」
「卵だ。あの魔物にとっては命より重い。人間に構ってる時間が惜しかったんだ」
岩甲獣の咆哮をもう一度、頭の中で反芻する。あの声の中に、意味とは別の何かがあった。個体の名に触れるような感覚。薄い膜越しに輪郭を掴んだが、今は命が先だ。
「それと、ガルド」
「何だ」
「お前は剣を拾おうとした。あの場で拾っていたら、交渉は終わってた。次からは俺の指示を待て」
ガルドが押し黙る。足音だけが続いた。悔しさか、感謝か。判断できない沈黙が二人の間に横たわった。
地上への階段が見えてくる。石段は白く乾いていた。王都の光が上の口から差し込み、冷えた体に当たる。
そのとき。
――ギュルルルル、ガアアアァ――
咆哮が響いた。坑道の奥から。さっきの岩甲獣とは違う。もっと深く、もっと高く、金属を裂くような。
白銀の獣の怒声だった。地下深部から突き上がり、石段の壁が微かに震える。
ガルドが足を止めた。
「今のは」
「深部だ。岩甲獣の縄張りより下……聞いたことがない叫びだ」
ソーマは坑道の闇へ目を向けた。翻訳が、あの咆哮の輪郭を掴もうとしている。痛いほど明確な感情が押し寄せてきた。怒り。喪失。そして、同胞を返せという叫び。
だが、言葉にはならない。距離か、強い情動のせいか。翻訳が意味を結ばないまま、ソーマの内側で痺れだけを残した。
「……先へ進む。お前を地上に上げるのが先だ」
「あんな声を初めて聞いたぞ。遺跡の深部は調査範囲外のはずだ」
「範囲外でも、現に響いている。戻ったら報告する」
ガルドの肩を支えたまま、ソーマは最後の短い石段を登っていく。上から風が吹き下ろし、たいまつの煙を押し返した。
すぐ後ろの闇で、壁がもう一度だけ傾いだ。