外れスキル『翻訳』で魔物と会話できた俺が、伝説級と契約して大陸最強に成り上がる
第5話 偽りの名を断つ牙
ソーマは筒を背負い直し、ギルドの階段を八段飛ばしで下りた。夕方の王都に避難鐘が薄く響いている。南門へ続く大通りは、騎士団の馬が石畳を掻く音で満ちていた。
「近い。魔核片の震えが、さっきより強い」
リュカが鼻先を西へ向ける。白銀の毛並みが夕日に染まる。
「あの査察官が言った牙将とやらか」
「おそらくな。南門を出てすぐの岩層だ」
背後でマティアスの怒鳴る声がする。兵士を二個小隊、南壁へ回せという指示だ。ソーマは振り返らない。エルナとガルドが追いかけてくる足音だけを確認した。
王都南門外の岩層は、古い街道を挟んで高さ十尺ほどの岩壁が続く隘路だった。ソーマが辿り着いた時、西日はもう鍍金の色を失っている。岩陰から出た灰色の牙猪が三頭、街道を塞ぎ、東の斜面には赤目の石狼が五頭。南の崩れた石垣にも、影が這うように群れていた。
「三方か」
ガルドが剣を抜く。左肩が微かに強張った。
「あれは全部、普通の魔物だ。統率がありすぎる」
エルナが観察板を開く。斜面の上、岩壁の裂け目から、黒い外套の男が現れた。右腕に細長い杖、腰に魔核で出来た鈴を幾つも提げている。牙将ザルム・グレス。そう名乗ったかどうかは分からない。ただ男は、ソーマを見下ろして笑った。
「ほう。真名を読む者というのは貴様か」
ソーマは答えない。左手の魔核片が熱い。
ザルムが杖を掲げる。鈴が鳴った。三方向の魔物が一斉に嘶き、前足で地面を掻く。突入の間合い。
「真名を縛ったな。偽の音で」
ザルムが目を細めた。
「読めるか」
「読める」
リュカが一歩前へ。
「下がれ。前衛は俺が止める」
リュカが笑うのを、ソーマは背中で感じた。白い獣が駆けた。岩壁を蹴る音。牙猪の先頭に前足を叩き込む。一頭が横転し、石狼がリュカの脚を狙って走る。
ソーマは腰の黒いスレートを抜いた。指先が刻まれた文字の溝を滑る。耳を澄ますまでもない。魔物たちの鳴き声が、偽の音節で命令を覆い隠している。
「真名を読み直す。リュカ、左の狼を二頭跳ね飛ばせ」
「任せろ」
リュカの尾が、夕闇を裂いた。
ソーマは牙猪の一体に距離を詰める。灰色の巨体が鼻先を向けた。が、すぐに目が揺れる。偽命令が、ソーマの読む音とかち合い始めたのだ。
「汝の名は違う。その音はお前を縛るだけだ」
スレートの角で拳を切り、血を一筋、地面へ垂らす。血の匂いに残る魔物の混乱が、ソーマの翻訳を尖らせた。
「名を返す」
ソーマが低く唸るように、魔物語で言った。前衛の牙猪が一頭、足を止めた。偽命令が薄れる。石狼も耳を伏せ、後退する。
斜面の上でザルムが舌打ちをした。
「まだだ。前衛など捨て置け」
ガルドが急に息を呑み、左肩を押さえた。
「来るぞ。妙な疼きだ。まるで古傷が名を呼ばれてる」
「方向は」
「真上——いや、もう近い」
ソーマは反射的にスレートを構えた。ザルムが杖の先で、岩の裂け目の影を指す。
「ちっ」
ザルムが一歩下がり、鈴を二つ落とした。金属が岩を跳ねる。魔物群が再編される。
「下がって援護しろ。エルナはザルムの位置を補足。ガルド、無理に動くな」
「動ける。痛みくらいで止まるか」
ガルドが剣を握り直す。
ソーマは停止した牙猪に跨るでもなく、その脇をすり抜けた。操られた魔物に、次の命令を重ねない。契約なら三つまで。偽命令なら尚更だ。一頭ごとの拘束は既に一つ目が揺らいでいる。
「あと二つ、だな」
ガルドが顔を顰めた。
「何の数だ」
「縛れる命令の数だ。下手に重ねれば、こいつらごと暴走する」
ザルムが聞き咎めたか、杖を引いた。鈴が鳴る。魔物群が後ろへ。その中央に、もう一体、人の背丈より高い黒い影が立ち上がる。蜥蜴にも似た迷宮産の獣だ。
「リュカ、杖だ。奴の偽命令の核になる名を読む。いいな」
ソーマは指先で血を弾き、魔核片を握った。翻訳が、鈴の音を言葉に変える。
「黒い名だ。断てるか」
リュカが岩壁を蹴り上げた。
「愚問を」
リュカの白い体が、一気に斜面を駆け上がる。ザルムが杖を横薙ぎに振った。黒い影がリュカへ跳ぶ。リュカは避けない。前足で頭を踏みつけ、その反動でザルムの正面へ出た。
「お前の名を使う魔物遣いめ」
リュカの牙が、杖を斜めに断つ。小さくない音がして、杖は先から崩れた。持ち手に近い箇所から黒い砂が噴く。
ザルムが右腕を押さえ、岩壁の裂け目へ身を翻す。銀の軌跡を一筋、岩肌に残した。血だ。
「言っておくぞ、真名を読む男」
ザルムが裂け目の向こうで笑う。
「貴様の読みは、まだあの谷の声を知らん」
残った魔物群が、示し合わせたように散開する。東、西、南へ。北は王都の壁だ。ザルム自身は、南西の低い稜線へ消えた。縛鎖の瘴気谷という言葉を、そのとき初めてソーマは意識した。
「深追いはしない」
リュカが戻り、血の付いた杖の欠片を地面に落とした。
「同族を操ったままで、よくも逃げおおせたものだ」
「わかってる。だが目的は部隊の位置を知る事だ。奴は南西から来た。谷へ戻るだろう」
夕闇が岩場を沈めていく。散った魔物たちが遠くで一度だけ鳴いた。怒りでもなく、警告でもない。命令から解かれた後の、曖昧な呼び声のようにソーマには聞こえた。
エルナが停止した牙猪の傍へ近づき、観察板へ鳴き声の波形を写す。
「すごい数だ。鳴き声の下に、ずっと真名文字の残響が走ってる。古い」
「見えるか」
「波形が、公会堂の床の偽紋より崩れていないわ。もっと根源に近い文字」
エルナの指先が観察板の端をなぞる。目が輝いていた。危険への緊張と、知りたい欲が混ざった顔だ。
「命令は上書きした。だが拘束が解けたわけじゃない」
ガルドがギルド伝令符を取り出し、馬丁に言付けるよう指示を飛ばした。伝令が王都へ駆ける。蹄の音が遠ざかった。
「南西の森と谷を、朝までに二重警戒させろ。第一報は俺の名前で出せ」
ガルドが左肩を揉む。古傷が、まだ疼いている。
「あの牙将が近づくたびに、古傷が名を呼ばれる」
「なら次は、もっと早く言え」
ガルドが苦笑した。
「負傷兵を気遣う余裕を、お前から引き出すとはな」
「軽口は肩が治ってからにしろ」
ソーマは魔核片を収め、エルナの観察板を覗き込む代わりに、岩場の割れ目を指差した。リュカの断った杖の残骸が、黒く地面を汚している。
「これと、あの谷の印。関係がなければいいが」
エルナが顔を上げた。
「岩場よ。足元を見て」
ソーマが屈む。西日が消えた岩の窪みに、古い真名文字の溝が一本、南西へ向かって刻まれていた。三種の複写にある軸の文字と、ほぼ同じ形に見える。
「縛鎖の瘴気谷へ続く印だわ。さっきの牙将が逃げた方角と重なる」
ガルドが近づき、その文字を見た瞬間、左肩を強く押さえて膝をついた。声にならない唸りが漏れる。
ソーマは文字を読み始めた。一音目が、舌の上で冷たい。血の味に似ていた。