外れスキル『翻訳』で魔物と会話できた俺が、伝説級と契約して大陸最強に成り上がる
第6話 名を抜く楔
「喉が、焼ける」
ソーマは片膝をついた。一音目を読みかけた途端だ。舌の上で冷たかったはずの文字が、喉の奥で逆流する。血の味が濃い。ガルドが肩を押さえたまま唸る。
「読むな、ソーマ。それは呼び水だ」
リュカが尾を打ちつけた。岩が砕ける。
「ならば我が読む。あの谷の印ごと、地ごと引き裂いてくれる」
「待て。読むんじゃない。見ろ」
ソーマは溝の続きを指で追った。真名文字は一本ではなかった。南西へ向かって、古い傷のように無数に走っている。どれもが微かに同じ方向へ曲がる。まるで一つの名前へ集まる水脈だ。
エルナが観察板を両手で持ち、溝の上へかざす。
「文字自体が共鳴してる。さっきの牙将が持っていた杖の欠片と、同じ低い唸りよ」
「同調してやがるのか」
「ええ。この溝が、谷と王都を繋いでる。誰かがこれを目印に、魔物を呼べるようにしたんだわ」
ガルドが顔を上げた。額に汗が浮いている。
「古傷が言っている。これは罠だ。夜のうちに王都へ戻れ」
「だから、夜明け前に来る」
ソーマは立ち上がった。膝の土を払い、南西の稜線を見る。闇が深い。星の光だけが、稜線の端を白く浮かべた。
「今は戻る。ギルドと王都の防衛を固める。谷は、調べてから攻める」
「お前らしくない慎重さだ」
「負け戦をしに来たのか」
「戦うなら勝てる場所でやる。それだけだ」
リュカが鼻を鳴らした。白い息が闇に溶ける。
「その石片、まだ脈打ってるぞ」
エルナが腰袋を開く。回収した黒い石片が、観察板に触れる寸前で二度、明滅した。
「なにかを待ってるみたい。眠そうなのに、片目だけ開けてる」
「気味が悪いな」
ガルドが剣を支えに立ち上がる。古傷の痛みが引いたようで、肩を二度回した。伝令の蹄の音はもう消えている。王都の壁の上で、松明が増えた。誰かが南門に兵を割いた証拠だ。
「戻るぞ。朝までもたせろと言った。部下に軽口を叩いてる暇はない」
四人は岩場を下りた。ソーマは最後尾で、溝を振り返る。消えたはずの西日が、溝の底だけを薄く照らしているようだった。いや、違う。文字自身が、かすかに光っていた。
「おい、見ろ」
そのとき、王都の南門が鳴った。重い鉄の音が、夜を裂く。続けて梟の鳴き声が二度。違う。あれは合図だ。
「封鎖警笛……」
ガルドが駆けた。ソーマも走る。岩場を出た瞬間、夜明け前の王都が星明かりの下で歪んで見えた。南門の手前に、白い煙が這っている。いいや、瘴気だ。
「来た」オルベリオが、封鎖広場の中央に立っていた。
白の神官服が夜闇に浮いている。左手に銀の鎖。右手に、拳大の石。洞窟の天井から垂れる鍾乳石めいた、黒い共鳴石。魔物の真名を吸い込む穴だ。
ソーマは足を止めた。
「神学校の使いが、火の始末にでも来たか」
「火など起こしておらん。門の外に獣がいる。回収に来たのは、そやつの真名だよ」
「ピケ……?」
ピケはリュカの背から滑り降りていた。小型の魔物が、広場の割れた敷石の上で後ずさる。牙猪でも石狼でもない。丸い体に短い手足。古い文字の刻まれた鱗を、月明かりに晒している。
「ソーマ、あの石が、ピケの胸の音とおんなじ」
「下がってろ、ピケ」
「もう聞こえてる。あの石が、ピケの名前を呼んでる」
声が掠れた。ピケの喉が、二度、三度、痙攣する。
広場の周囲で、足音が重なった。王都の石畳を這う、革靴と金属の音。闇の奥から、ネルガ・ドルンが現れる。騎士団の汚れた制服を纏った男が、手にした短剣で部下に指示を出した。
「囲め。王都はもう、兵を裂く先がない。逃げ道は地脈へ続く道だけだ」
「下がれ、ピケ」
ソーマが一歩、前に出る。オルベリオは笑った。口元だけの冷たい笑み。
「お前の獣は二匹だ。狼一匹と、這い蜥蜴一匹。さて、どちらから試す」
オルベリオが共鳴石を掲げた。石の表面に、白い亀裂が走る。空気が割れた。
「——リュカ・ハウルネア」
リュカの四肢が硬直した。白銀の毛が逆立つ。
「お前の群れを呼んだ古い音だ。どうだ、身体が覚えているか」
「……吠えるな、ソーマ。名を呼ばれたのは我だけだ」
リュカの牙が、痙攣して噛み合った。
「ピケ、耳を閉じるな。ソーマの声だけを聞け」
ピケの耳孔が塞がれる。
「真名を、石が抜いていく。リュカ、しっかり」
「抜かれて、たまるか」
リュカが前足に体重を乗せた。しかし動けない。敷石に、銀色の文字が円形に浮かび上がる。術式円。石から投影された真名の文字が、リュカとピケを縫い留める。
「今だ、かかれ」
ネルガの部下が三人、駆けた。短剣が二人を囲む。
ソーマは魔核片を握りしめた。掌が熱い。翻訳が、リュカの真名を反芻し始める。偽命令の上書きのときとは違う。魔力の流れが、名前そのものを外側から掴まれている。
「……見えたぞ」
ソーマは声を低くした。
「リュカ、聞け。お前を縛っているのは石じゃない。円だ。円の上に三つの命令が乗っている。動きを縛る、牙を封じる、ソーマに飛ばす。三つだ」
「三つ使えば、お前が殺される」
エルナが叫んだ。
「わかってる。三つ目を、発動させるな」
ガルドが剣を抜いた。
「リュカを助けるなら、あの石を砕くしか——」
「いや、石を壊すな。命令の内側から壊す」
ソーマは術式円の縁ぎりぎりまで歩いた。右手に、己の血が滲む。走ってきたときに擦りむいた傷が、開いている。
「俺のお前への命令は、まだ一つだけ残ってる。真名契約の枠内だ」
オルベリオの指が、共鳴石の上を滑った。
「命令を重ねたければ重ねるがいい。四つ目で、その獣は暴走して死ぬ。貴様の言葉で、この場にそれを証明してみせろ」
ソーマは唇だけで笑った。
「命令しない」
「なに?」
「俺は命令しない。お前に喋らせるな」
血を落とさないように、ソーマは左手を持ち上げなかった。魔核片が、脈打つ。呼吸が、鼓動が、あの石と、呼応する。
「リュカは、自分の牙で自分を壊す理由を持っている。俺はお前の名前を、もう一度だけ正確に読む。戻ってこい、リュカ・ハウルネア」
真名が、魔物語の音で、夜に響いた。
ソーマの喉が裂けた。血の味が口の奥から噴き出す。契約主が、真名を呼んだ。命令ではない。真名を呼ぶ声は、命令の楔を逆に打ち返した。
リュカの巨体が、跳んだ。
「——ガァアアアアッ!」
牙が、術式円を砕く。石畳が割れ、銀の文字が火花を散らした。ピケを縛っていた縛鎖が、音を立てて切れる。
「ピケ!」
エルナが駆け込み、ピケの体を抱えて転がった。ガルドが片手で二人を引きずり出す。
「術式円が崩れる! 離れろ!」
リュカは砕けた円の上に立った。四肢の打撲が、血に染まっている。だが、目は闘志に満ちていた。
「今、自分で思い出したぞ。これは、我の古傷と同じ、強奪の術式。我の群れを追い立てた音に、今夜も似ておる」
エルナが、観察記録を広げた。指が、震えながら真名文字の写しを辿る。
「一致してる。幼い頃、私が森で魔物に命を助けられた日。あの子の傍にあった地面に、同じ文字列があった」
「確かか」
「確かだ。今まで、何度も記録と比べて捨ててきた文字。これが、魔物の命を奪う禁術の、一番古い形」
エルナの声が、別人の声になった。
「やっぱり、この文字は魔物を従えるためじゃない。魔物から名前を剥がすための呪いよ」
オルベリオが、一歩後退した。
「剥がして何が悪い。獣に真名など、本来、無縁のものだ。拾った言葉をむやみに使うのが、貴様らだろう」
「よく喋る神官だな」
ソーマが、もう一度だけ真名を読まずに、笑った。
「そこまで名前に執着してる理由だけ、教えてくれ」
「教える価値もない。退け、ネルガ」
ネルガ・ドルンが、地脈の裂け目へ駆けた。部下の数は、三〇に迫っていた。
「追え! 地脈から何かを打ち込む気だ!」
オルベリオが、王都の南門の外れ、岩盤の裂け目へ走る。共鳴石から、黒い霞が漏れ出していた。傷ついたリュカと、解放されたピケが、後を追う。
ガルドが叫ぶ。
「門を閉じろ! 王都から兵が来る、それまで持ちこたえろ!」
「遅いよ、討伐官」
オルベリオが、裂け目の上に立った。地脈の結節点。彼は黒い楔を、自らの手で、岩の割れ目に打ち込んだ。
「縛鎖の瘴気谷を、開く」
地の底が唸った。石畳が、ひとりでに動く。地面が裂け、瘴気が噴き上がる。王都の街の灯が、一瞬、消えた。
ソーマは瘴気の風を受けて、目を開いた。
「最下層だ」
リュカとガルドが、同時に声を上げる。
「あの楔を抜くために、地脈の底まで行く。王都に残るか、来るか。選べる時間はない」
「選ぶ必要がない。行くぞ、ソーマ」
リュカが牙を剥いた。
「我の牙は、あの禁術を噛み砕くために門へ向かう」
「これが決定だ。全員、地脈裂け目へ」
男が、瘴気の谷へ向かって、一歩踏み出した。