FeverStory

処刑の朝に十年前へ戻った悪役令嬢が、今度こそ婚約破棄を選んだのに、断罪した第二皇子が手放してくれない

第1話 冠は三か月を縛る

後悔しても、もう引き返せない。そう結論を固めた瞬間、リーゼロッテは謁見場の床へ膝をつく動作を装い、深く頭を垂れた。十年前の朝の空気は冷たく、王宮の石壁が吐く湿気がドレスの裾から這い上がってくる。指先はとうに感覚を失い、心臓だけがやけに速く脈打っている。夢で見た断罪の光景が、まぶたの裏でまだ明滅していた。

玉座の横に立つ国王の視線を肌で感じながら、彼女は声を張った。天井の高い広間には、ざわめきを飲み込むような静寂が断続的に訪れ、貴族たちの衣擦れの音だけが薄く響く。

「陛下、並びにご列席の皆様。私、リーゼロッテ・フォン・エルトベルンは、第二皇子レオンハルト殿下との婚約破棄をここに申し立てます」

どよめきが広がる。隣で侍従が息を呑む音すら聞こえた。

「破棄を、だと」

国王が低く呟く。その声には明確な困惑が滲んでいた。だが答えを返すより先に、重い扉が開く音が響いた。薄暗い広間の空気が揺れる。

「その申し立て、私が聞き届けるわけにはいかない」

聞き覚えのある声に、背筋が凍る。振り返らなくてもわかる。王宮礼拝所から借り受けた契約の冠を携えたレオンハルトが、ゆっくりと歩み入ってくる。手にした銀の冠が青白く震え、彼女の宣言に反応しているのが離れた場所からでも見えた。一歩ごとに彼の堅い靴音が石床に反響し、列席者の間を静寂が広がる。彼のまとう濃紺のマントが空気を裂いて翻る。

「殿下、これは王家と公爵家の間の正式な——」

「正式な破棄には両家と枢機卿の承認が要る。ならば私が拒めば、まだ不成立だ」

彼は一歩も譲らず、冠を掲げて見せた。青白い光が一際強くなる。それに呼応するように、彼女の胸元が小さく熱を帯びた。

「君が何を恐れているのか、すべて暴くまで逃がさない」

その宣言は公衆の前で行われた。破棄は不成立。リーゼロッテは自分の指先が冷えていくのを感じた。唇の内側を噛み、膝の震えを押さえる。

「……陛下の御前で、殿下は私への嫌がらせを堂々となさるのですね」

「嫌がらせかどうか、三か月もすれば皆が知る」

彼の碧眼がまっすぐに彼女を捕らえる。前世で断罪を言い渡したあの目とは違う——何かを探るような、執着に近い光があった。あの目に映る自分が、いつかの罪人の面影と重なって見える。

扉の向こうへ下がるよう侍従が促し、二人は王座の間の奥にある控えの間に通された。廊下の石畳は冷たく、空気は一層重い。記録係の侍従がひとり、離れた卓につく。部屋の隅で燭台の火が揺れ、二人の影を壁に映し出している。羽根ペンを構える音が無機質に響いた。

「改めて伺う。君は、私に断罪される未来を知っているようだ」

「十年前の少女に断罪の記憶などございません」

即答しすぎた。指先をスカートのひだに押し込む。レオンハルトは距離を詰め、彼女の顔を覗き込んだ。彼の吐息がかかる距離で、心臓が喉を叩く。

「ではなぜ、今朝になって突然破棄を? 何か急ぐ理由があるのだろう」

「家名を殿下の怒りに晒さないためです」

「私が君に怒る理由はない。まだな」

「まだ、とおっしゃるなら、その可能性をお認めではないのですか」

彼は短く息を吐き、侍従に合図した。束の間の沈黙が、部屋の体積を実際よりも狭く感じさせる。

「三か月の真実調査と王都滞在を条件に、婚約継続を王命附則として認める」

「待ってください。私の意思を——」

「お前の意思で破棄を申し立てたのだ、エルトベルン公爵令嬢。ならばこれはその答えだ」

彼が侍従から受け取った証書を差し出す。記録が読み上げられ、羽根ペンの音だけが響いた。羊皮紙の微かな匂いが立ちのぼる。

差し出された証書を受け取ろうとした瞬間、彼の素手が彼女の手を包んだ。その接触で左鎖骨が灼けるように痛む。熱が脈打ち、視界の端が白む。息を止めなければ、悲鳴が零れそうだった。

「……っ」

声を殺し、彼女は証書を抱えたまま床に膝をついた。手で胸元を押さえる。青白い光が襟元のガーネットを透かして揺らめいた。

「痣か」

レオンハルトの声が急に近くなる。彼は彼女の手に触れたまま、鎖骨の辺りを見つめていた。その瞳には、確かな動揺が浮かんでいる。

「触らないでください」

「触れてなどいない」

確かに彼の指は証書に掛かったままだ。だが痛みは彼の皮膚との接触から広がっている。断罪の夢で砕けた記憶の断面——自分の手が彼女を捕まえる映像——が、彼の頭をよぎったのか、瞳が細くなった。

「この痣は」

「生まれつきのものです。殿下の興味を引くものではございません」

彼女は膝に力を込め、何とか立ち上がった。証書はしっかりと胸に抱いている。彼はそれ以上追及せず、侍従に「下がれ」と命じた。部屋を出る足音だけが、やけに長く耳に残った。

王宮馬車寄せに出ると、待機していた公爵家の馬車からクリストフとエルナが駆け寄ってきた。外の空気は冷たく、石畳の下から馬の匂いが漂ってくる。御者台のランプが風に揺れ、馬のいななきが夜の入り口を告げていた。

「リーゼロッテ!」

父は彼女の顔色を見て何かを察し、背に庇うように立った。

「殿下、これ以上我が娘に何を」

「三か月の調査だ、公爵。彼女は王都に留まる」

追ってきたレオンハルトが馬車へ近づく。エルナは御者台の陰で息を詰め、身を縮めた。リーゼロッテは動悸を隠し切れず、左手で右の手首をさする。指の下で脈が不規則に跳ねている。

「三か月の最初の日は、君の学舎から始める」

彼の声が背中に刺さる。クリストフは彼女を腕で制したまま、御者へ馬車を出すよう目配せした。車輪が回り始め、王宮の影がゆっくりと遠ざかっていく。

処刑の朝に十年前へ戻った悪役令嬢が、今度こそ婚約破棄を選んだのに、断罪した第二皇子が手放してくれない第1話 冠は三か月を縛る