処刑の朝に十年前へ戻った悪役令嬢が、今度こそ婚約破棄を選んだのに、断罪した第二皇子が手放してくれない
第3話 青い冠は闇を割く
その夜の扉は、開く前に答えを変えた。
ノブの真鍮が三度目の音を止めた瞬間、リーゼロッテはエルナの肩越しに外の気配を読んでいた。足音は二人分。制服の擦れる音が右にずれ、若い男の声がもう一度だけ名乗る。
「女学院監督官、夜間の緊急確認です。お休みのところ恐れ入りますが、令嬢ご本人にお伺いしたい」
エルナが振り返らずに囁いた。
「お嬢様、私が応対を」
「いいえ。ここまで来たのなら、私が出るわ」
リーゼロッテは文箱へ手を伸ばす。指先が冷えている。鍵はすでに回してあった。
扉を開けると、外套に学院の青い腕章をつけた若い男が立っている。その後ろに、同じ腕章の女が一人。どちらも夜の別邸に似つかわしくないほど穏やかな顔をしていた。
「毒見茶会の返信がまだ届いておりません。教会から直接、ご意向を」
「返信は祖父の指示を仰いでからと決めていますの」
「差し支えなければ、こちらで返信を預かりますが」
男が半歩、敷居へ踏み込む。革靴の先が廊下の光を遮り、リーゼロッテの胸元へ細長い影が落ちた。左の鎖骨の下が、ちくりと灼ける。
「お引き取りください」
声は低く、しかしはっきりと廊下へ響いた。
「夜分の来訪に返答は不要と存じます。返信は明日、学院へ出向いて直接お渡ししますわ」
男は一瞬、目を細めた。何か言いかけて、後ろの女が袖を引く。二人は軽く会釈し、階段を下りてゆく。足音が玄関の石床で止まり、外扉が閉まるまで、リーゼロッテは敷居の内で呼吸を詰めていた。
エルナが小声で言う。
「腕章が揃いすぎていました。夜警の監督官は一人のはずです」
「ええ。だからここまでよ」
リーゼロッテは扉を閉め、鍵を掛けた。心臓が肋骨の裏を叩いている。手のひらで胸元を押さえると、星型の痣が熱を持ったまま脈打っていた。
翌朝、光はまだ窓の桟に白く積もっていた。
女学院の裏門から入るよう誘導されたのは、いつもの登校時刻より半刻は早い。エルナが御者へ短く命じ、馬車は正門ではなく北の植え込み沿いで止まる。石畳には朝露が残り、裾を濡らした。
「お嬢様、応接の間へお回りくださいと」
出迎えたのは学院監督官でも舎監でもなく、王立審問院の灰色の制服だった。痩せた女が一人、銀縁の眼鏡を押し上げて名乗る。
「王立審問院、記録官補佐を務めております。ベアトリクスと申します。以後、この案件の立会人ですわ」
声は丁寧だが、視線がまったく笑っていない。リーゼロッテは背筋を伸ばした。
「案件とは、なんのことでしょう」
「こちらへ」
応接の間の扉が内側から開く。長机の上に、見覚えのある藁色の封蝋の欠片と、羊皮紙の束が並べられていた。羊皮紙の端が丸まり、インクの香りがかすかに部屋へ滲む。
ベアトリクスが羊皮紙の一枚を持ち上げる。
「こちら、侍女エルナ・バルバラの筆跡で『毒見茶会を利用した逃亡計画書』が、聖堂の庭の外れで発見されました」
エルナが息を呑む気配がした。リーゼロッテは半歩、彼女の前に出る。
「エルナは私の指示で動いたことは一度もありません」
「筆跡の鑑定では一致しております」
「筆跡など、写しを取る方法はいくらでもあってよ」
ベアトリクスが眼鏡を外し、布で拭きながら首を傾げる。
「では、これを書いたのは侍女ではなく、令嬢ご自身かしら。あるいは聖女候補を虐げてきた件を、令嬢が主導なさったと?」
「……マリアンヌに直接、何かをしたことはありませんわ」
「被害者証言は強要され得る、と教会令にあります。だからこそ、証言の代わりに物証を重んじるのです」
部屋の隅で、もう一人の審問院の係官が羽根ペンを走らせる。エルナが口を開きかけた。リーゼロッテは右手で制し、一歩、前に出た。
「お二人を責めるのはおやめください。私が答えを拒んだだけですわ」
黙ることを選んだ。これ以上、誰かを巻き込めば教会派の思う壺だ。左の鎖骨の下が再び疼き始める。彼女は背筋を伸ばしたまま、息を深く吐いた。
正門への道は、行きよりも長く感じられた。
外へ出ると、父の馬車がすでに停まっていた。クリストフが扉を開けて降り、一歩で娘の前へ立つ。
「王令もなしに、公爵家の娘をどこへ連れていく」
「枢機卿発行の親権停止令が下りております」
ベアトリクスが薄い紙を差し出す。親権停止令と書かれた羊皮紙には、眩いほどの朱い封蝋が押されていた。
「旧時計塔で証拠を押収してから、審問院へご同行いただきます」
クリストフのこめかみが震える。彼は一瞬、娘の腕を取った。馬車へ引き入れようとするのか、その手は強くは動かなかった。ベアトリクスの前に二人の護送官が並ぶ。
「父上。王城へ」
リーゼロッテは短く、父にだけ聞こえる声で言った。クリストフは歯を食いしばる。家令が馬車から飛び出し、主の耳元へ何かを囁く。クリストフは娘へ一度だけ目配せし、馬車の扉を自分で閉めた。
車輪が動く。その音が聞こえなくなってから、ベアトリクスが護送官に命じた。
「旧時計塔へ。先に証拠を」
朝の鐘が、どこかで一度だけ鳴った。石造りの街路に陽が差し込み、商店が戸板を外す音がし始める。リーゼロッテは馬車の揺れに身を任せながら、静かに自分の手を見ていた。指先が白い。心臓だけがやけに早い。
旧時計塔の入口広場に、先回りの馬の蹄が二頭分、乾いた影を落としていた。黒いマントを翻した人影が、こちらへ歩いてくる。胸元に王族の銀の飾り紐を留めたまま、第二皇子が広場の中央で口を開く。
「真実調査の先議権は、この三か月の間、私にある」
ベアトリクスは一瞬、立ち止まる。しかしすぐに顔を上げた。
「枢機卿の令がこれを優先します。王族といえど、教会法の執行を止める権限は」
「では、これで足りるか」
レオンハルトが片手を持ち上げる。指先に巻かれた銀の鎖が朝日を反射し、その先に小さな冠が揺れていた。青白い光が冠の内側を走る。
「契約の冠は、王族の婚約者に立会権を与える。真偽を疑うなら、教会の鑑定官を呼べ」
ベアトリクスの表情が初めて崩れた。彼女は冠を見つめ、護送官を振り返り、それから小さく唇を引き結ぶ。
「王城へ使いを」
レオンハルトが後方の従士に告げる。馬が一頭、石畳を蹴って走り去る。彼はリーゼロッテへ視線を向け、静かに言った。
「彼女だけを隠し部屋へ。お前たちは外だ」
冠が手の中で、かすかに震えていた。
もう人の声は聞こえない。扉が閉まると同時に、時計塔の内側が持つ古い静けさが二人を包んだ。壁は石。螺旋階段の奥で、誰かが落とした松明の燃え殻が古い油の匂いを残している。
隠し部屋の扉を押し開けると、部屋の中央に小さな台座があった。冠を置くためのくぼみが、台座の上で青い光を待っている。
レオンハルトが冠を掲げる。
「君の名を呼ぶ。リーゼロッテ・フォン・エルトベルン」
その瞬間、台座のくぼみが冠の光を吸った。空気が低く震え、壁の古い石目が浮かび上がる。リーゼロッテの左の鎖骨の下が焼けるように熱い。青白い光が衣服の上から漏れ、星型の痣がくっきりと浮かんでいた。
「君のそれ、何だ」
彼の声が、近い。視界の端でレオンハルトの指が動く。茨の音。石段。群衆の叫び。自分の手首を掴む骨ばった指。首へ回る冷たい予感。断罪台の朝が、頭の内側へ雪崩のように流れ込んだ。
「見えるのか」と彼が言う。「断片だけだ。俺には処刑台の場面しかない。お前が裁かれる理由も、その後の悔いも」
彼の声が初めて揺れた。リーゼロッテは胸元を押さえ、痣の熱を手のひらで包む。青い光が指の間から漏れる。膝が笑い、床へ倒れかけた。その体を、レオンハルトが抱きとめる。彼の吐息が髪にかかり、腕の力が強すぎるほどだった。
「今回こそ、お前を処刑台へはやらない」
一方の手が彼女の肩を引き寄せる。彼の胸元にある王族の銀飾りが、痣の光に応えるように熱を持つ。
「なぜ、と聞かないのか」
リーゼロッテの声はかすれていた。レオンハルトは答えず、冠を持った手を壁へ向ける。光が一点に集まり、床の奥から乾いた音がした。
隠し蓋がずれる。冷たい埃の匂いと古いインクの香り。青い光が床の凹みを照らし、そこに小箱が一つ、横たえられていた。押された封蝋は教会派のもの。中から羊皮紙の束と、旧時計塔への入塔記録簿が覗く。
レオンハルトが片膝をつき、記録簿の頁を繰る。指が止まったところに、名があった。
「審問院判事補の名前だ。こいつが入塔した記録が、教会の提出分にはない」
「証拠を先に、と来たのに」
「捏造の準備が先だった。これで裁きは止められる。王城の裁可で、お前の審問院への引き渡しは保留させる」
彼が小箱を閉じて立ち上がる。その手が、リーゼロッテの手を取った。
「黒幕は審問院だけじゃない。この箱の底に、まだ何か」
小箱の底から、青い光が浮かび上がる小さな鍵が出た。聖堂の庭の紋が刻まれている。その下に、古い誓約書が重なるように収められ、開いた端に二つの署名が並んでいた。一方はエルトベルン家の古い書体。もう一方は枢機卿の署名。
レオンハルトがリーゼロッテの手を引き、まっすぐに彼女を見た。
「エルトベルン家と枢機卿が、聖堂の庭で何を誓ったのか。それが分かるまで、お前を誰にも渡さない」
その青い光が彼の横顔を照らし、二人の影が壁へ長く重なった。