FeverStory

処刑の朝に十年前へ戻った悪役令嬢が、今度こそ婚約破棄を選んだのに、断罪した第二皇子が手放してくれない

第4話 閂の落ちる音

王立審問院・大法廷の黒御影石の床に、封蝋の欠片が一つ落ちていた。欠けた紋は教会の聖印。誰かが踏み砕いた跡が、開廷前の静けさだけを残している。

リーゼロッテは傍聴席からではなく、被告側の木柵の内でその欠片を見下ろした。拘束は解かれたが、銀の鈴を二つ、両の手首から外された痕がまだ薄く残る。

書記官が羊皮紙を広げ、読み上げる声が天井へ吸い込まれていった。「前夜、第二皇子レオンハルト殿下より王城へ提出された小箱。教会派封蝋の記録簿、並びに未報告の入塔記録を含むすべてが受理されました」

ざわめきが波のように広がる。リーゼロッテは表情を動かさない。その隣へ、重い足音が届いた。

「この女を裁くのは俺だ」

レオンハルトが審問官席を見下ろして言い放つ。場内の私語が一瞬で消えた。彼は契約の冠を手にしたまま、被告の隣に入る。

時計塔の鐘が一打、低く鳴った。開廷の合図が遅れて届き、リーゼロッテの左鎖骨が灼けた。思わず右手首を押さえる。布越しでもわかる、青白い光の点滅を。

「立つのが辛なら椅子もある」

「問題ございませんわ」

断罪の朝が頭の端を掠める。彼女は疼きを噛み殺し、証言台のほうへ一歩踏み出した。手すりの木が冷たい。そこが自分の立つ場所だと、指先が覚えている。

審問官イーゴルが咳払いし、木槌を置いた。

「これより審理を再開する。本日の第一証人は、侍女エルナ・バルバラ」

監視付きで連れてこられたエルナの足音が、石床に小さく跳ねた。彼女はうつむいたまま証言台に立ち、何度か唇を開きかける。

「顔を上げて。君の言葉が君を守る」

リーゼロッテの声は静かだった。エルナが息を吸い、顔を上げる。

「私は、その逃亡計画書を書いておりません」

灰色の制服がざわつく。ベアトリクスが異議を挟もうと口を開きかけたが、イーゴルが片手で制した。エルナは震える指で、提示された羊皮紙を示す。

「この紙は、私が使う学院の便箋と厚みが違います。それに墨の色も。私が書付に使うのは灰青の墨だけです」

彼女は証言台の上へ、自分の練習用の書付を差し出した。文字の並びが二枚、並べられる。形は似ているのに、墨の光り方がまるで別物だった。

「書記官、両方とも記録へ。墨と紙の年代鑑定を、教会派ではなく王城の加護学科へ」

イーゴルの命令に、ベアトリクスが一瞬、眼鏡を押し上げた。

「では、再鑑定が済むまで審理続行か、その程度なら教会の権威を汚すことにもなりませんわ」

皮肉を込めた声が、エルナの肩をびくつかせた。リーゼロッテは口元を引き結ぶ。彼女はエルナを一瞥し、もう大丈夫だと一度だけ、うなずいてみせた。拘置衛士に連れられて証言台を下りる侍女の背中が、背筋だけは真っ直ぐだった。

その傍聴席から、一人の男が立ち上がるのが見えた。クリストフだ。手に、古い羊皮紙の束と帳簿を携えている。

「旧エルトベルン家調査記録の原本を、ここに提出します」

クリストフの声は重く、大法廷の空気を割った。宰相席でも大臣席でも、息を呑む音が同時に鳴る。

「そこへは国王のもとへ、直訴へ向かったはずでは」

ベアトリクスの問いに、クリストフが短く返す。

「陛下の勅書を得て、裁判所へ持ち込む手続きを終えてきた。中身は、旧時計塔看守名簿の写しと教会派資金路の帳簿だ」

帳簿の表紙が開かれた瞬間、最前列の司教の一人が腰を浮かせた。数字の列が、何かを語ろうとしている。クリストフは名簿の一ページを指先でなぞる。

「看守名簿に記された三名の受け取り印。その名と、その後の教会派の帳簿に並ぶ受領印が、すべて一致するのです」

「奇しくも、教会側が提出した記録には、国家調査の印が欠けたままだ」

レオンハルトが、抑えた声で続けた。彼は審問官席へ一歩近づき、イーゴルを見る。

「追加調査を求める。これは人権の問題ではなく、証拠の出自の問題だ」

イーゴルが額の汗を拭う。彼の手元で、再鑑定命令書が静かに光っていた。

「裁判所はこれを預かる。休廷を、いや、まずは次の証人から承認する」

声が揺れている。リーゼロッテの目が、傍聴席の端に向いた。マリアンヌが監視付きで立たされ、両手を胸の前で結んでいる。外出制限が一時解除されたのだ。彼女と目が合い、小さく互いの生存を確かめ合う。

「証人、マリアンヌ・ベルンシュタインは、教会側の要請により参考人席へ。しかし先ほど、弁護側証人への移動を自分から申し出ている」

イーゴルが告げると、場内が再びざわめいた。マリアンヌは偽の毒見茶会招待状を手にする。その指から、淡い光が洩れたかと思うほどだった。

鏡の加護。リーゼロッテの目にだけ、光が正体を見せたように感じられた。

「この招待状、私の名で届いたとされていますが、私は聖女候補の毒見役を命じられたことはありません。それに、これは…」

マリアンヌは印章へ手をかざす。光は招待状を透かし、偽の印が二重に浮かぶ。教会派の捏造だと、誰の目にも映る形で。

「私の加護は、魂の傷や誓いの真偽を映す鏡です。その力が、勝手に偽聖女工作へ使われた。私はそのことを、ここで告発します」

場内が一瞬、大きく揺れた。司教席の数人が立ち上がり、イーゴルが沈黙を命じる。リーゼロッテは、マリアンヌが一歩、こちら側の証言へ移るのを見た。足音が、被告側の木床を確かに鳴らした。

「証人移動を認める。検察側は反対を記録されよ。これにて…」

イーゴルが休廷を言いかけた、その瞬間だった。

大法廷の重い扉が、外側から突き飛ばされるように開く。金縁の白い祭服をまとった男が、教会警備隊を従えて踏み込んできた。枢機卿オスヴァルト。彼は審問官の言葉を待たず、周囲の悲鳴の上から命令を下した。

「この審問は無効とする。被告の身柄は、旧時計塔・鐘楼閘門の間で最終審問にかける。直ちに移送せよ」

「枢機卿、本日はまだ、王城の…」

イーゴルの声を、オスヴァルトの手袋が制した。黒い革が、空を一度、切る。

傍聴扉が、外で並ぶ警備隊の槍で塞がれていく。金属の音、続いて閂の落ちる音。リーゼロッテの胸元で、痣が一際強く光った。

レオンハルトが彼女の前に立つ。契約の冠を握る指先が白い。

「行かせぬ、と先に言っておく」

彼の声は静かだが、封鎖された扉のほうへ向けられていた。

「この女の身柄を動かすなら、まず俺を殺してからにしろ」

オスヴァルトの目が、ゆっくりと細くなった。

処刑の朝に十年前へ戻った悪役令嬢が、今度こそ婚約破棄を選んだのに、断罪した第二皇子が手放してくれない第4話 閂の落ちる音