荷物持ちの少年だけが読める迷宮の落書きで、俺は最強の探索者になる
第1話 伽藍の抜け道
荷物持ちに落書きは読めない。それが十三層に足を踏み入れた全員の共通認識だった。
「右翼、崩れるぞ!」
セリアの声が蟲穴の岩壁に跳ね返る。前衛の斧使いが灰甲虫の波にのまれ、後退しながら盾代わりに腕を振った。虫殻が砕ける音と、男の悲鳴が同時に上がる。
俺は背負い荷の重さが一瞬だけ増すのを感じた。いや、荷だけじゃない。足の下の床が、ほんのわずかに沈んでいる。この蟲穴の床は灰甲虫の食害で空洞ができている。踏み抜けば最後だ。
「前衛、三歩下がれ。右後方の床が甘い」
俺の声に、前衛の剣士が反射的に跳んだ。その足元がぼこりと陥没し、灰甲虫が二匹、穴に呑まれる。
「リクト、なんで分かった」
セリアが振り返りざまに短く訊く。俺は答えず、壁を見た。
そこに『伽藍』の二文字が浮かんでいた。正確には、もっと長い。だが俺の目は、その二文字から離せない。背中に背負った荷台の木枠が、熱を持ったように脈打つ気がした。
他の連中にはただの壁の染みにしか見えないのだろう。ダンが俺の視線の先を追い、眉をひそめた。
ガキン、と硬い音。前衛の一人が体勢を崩し、膝をつく。灰甲虫の大顎が、その肩口を砕こうと迫る。
「荷物持ち、下がってろ!」
誰かの怒鳴り声。だが下がる場所はもうない。蟲穴の入り口まで二十歩。灰甲虫の群れは、その退路を半円を描いて塞ぎつつあった。
俺はもう一度、壁の『伽藍』を見た。
あの瞬間、違和感があった。二文字が、それまで読んでいた古代管理言語の記号列から、意味のある言葉に変わる。頭の中で、どこかで見た文字が浮かんだ。日本の、それもたどたどしい書体で書かれた伽藍の字が、迷宮の記号に重なる。
「……伽藍」
口に出すつもりはなかった。声が先に出ていた。それは音読と呼べるほど大きな声ではなかった。だが、聲の震えが、壁の染みに触れたかのようだった。
灰甲虫の大群が、止まった。
正確には、石になった。目の前の一匹が、大顎を開いた姿勢のまま灰色に変わり、次いで波が引くように後方の群れまで、一瞬で硬化していく。石像化した蟲の重みで、いちばん前の数体が床にめり込み、動かなくなった。
静寂が落ちた。
「なにをした」
ダンが呟く。俺は答えようとして、鼻の奥に生温かいものが流れるのを感じた。手で触れると、赤い。
「鼻血だ」
そう言ったきり、視界の端が青く明滅する。左の手のひらを見ると、細い青い線が走っていた。幾何紋様。どこかで見た形——十三層の壁に浮かんでいた記号のひとつだ。
「大丈夫か、リクト」
ダンが近づいてくる。俺は手のひらを握り、背負い荷の紐を締め直した。
「平気だ」
ダンは俺の鼻血をもう一度見てから、石像化した蟲群に歩み寄った。ナイフの柄で、いちばん近い石像をつつく。硬い音がした。肌を突けば砕けるか、と一瞬思ったら、ダンは手を引いた。
「完全に石だ。周辺の生体反応もない」
彼は腰の巻き紙を抜き、壁の文様を写し取ろうとペンを走らせる。ペン先が紙に触れた瞬間、紙面が白く泡立った。文字が浮き上がらない。何度試しても、紙はただ白い。
「写せない、か」
ダンは紙を折りたたみ、代わりに別の報告用紙へペンを置いた。
「第十三層灰甲虫蟲穴にて荷物持ちリクト、壁面文様の読解により蟲群を石像化、戦闘寄与あり」
セリアが、その報告書の文言を横から見る。彼女は何も言わずに、腰のポーチから擦り切れた布に包まれた折れた剣の柄を取り出した。握り直して、また仕舞う。それだけだ。だが、彼女が俺を見る目つきは、雇い主が道具を見る目ではなくなっていた。値踏みをする目だ。
「帰るぞ」
ダンの号令で、パーティは足元の危険な床を避けながら蟲穴を出た。俺は最後尾で、石像化した灰甲虫の列を振り返った。あの壁の文様はもう読めない。いや、読めたところで今日は二度と使えない気がする。体が妙に重い。
地上に出ると、午後の光が目に刺さった。血を拭いた顔を冷たい水で洗い、そのままギルドへ向かう。
冒険者ギルドの受付カウンターには、ナージャがいた。深い茶色の髪を後ろで束ね、書類の束を指先で整頓している。俺たちに気づくと、眼鏡の奥の目がわずかに細くなった。
「報告書を」
ダンが書類を差し出す。ナージャは一読してから、そっと俺を見た。鼻の下に残る血の跡を、彼女は視線でなぞる。
「ダン・ギリアム、あなたの署名入りね。とすると、この荷物持ちの少年の戦闘寄与を公式に認める、ということかしら」
「その通りだ」
「結構よ。ただ、問題がひとつ」
彼女は別の紙——受付印の押された差出人不明の書簡——を手に取る。貴族派閥の紋章が封蝋に薄く残っていた。
「こちら、あなたのF級登録に対する妨害申請。探索者協定の書式に則っていない箇所が三つ。受理できません」
ナージャは書簡を宙で揺らし、未処理の箱へ放り込んだ。処理ではなく、差し戻しという形で。
「いまはこちらの報告を優先するわ。F級探索者登録申請書、受付台に載せたわよ」
一枚の用紙が、カウンターの上に滑ってくる。F級探索者登録申請書。俺の名前が、渇いたインクで走り書きされていた。
「記入は済んでいるわ。あとはあなたが署名するだけ」
ペンが差し出される。俺はそれを受け取り、金属製のクリップの冷たさを指先で確かめた。
そのときだった。左の手のひらが、また青く光る。薄い幾何紋様が、一瞬だけ鮮明に浮かび上がった。
ダンとナージャが、同時にそれを見る。ダンが半歩、身を乗り出した。
「その手、見せろ」
俺はゆっくりと手を開く。だが紋様は、もう消えかけていた。
青い線が一本、手首のほうへ引かれて薄れていく。その形には見覚えがあった。十三層の壁に浮かんでいた文様の一部と、重なる。
「……壁の」
言いかけて、やめた。ナージャがじっと、俺の手のひらと申請書の印影を交互に見ている。
「リクト君。あなた、その紋様、迷宮で見たものだと断言できる?」
俺は答えず、ペンを握り直した。名前を書く。その間も、手のひらの青い線だけが、まだ少し熱かった。