荷物持ちの少年だけが読める迷宮の落書きで、俺は最強の探索者になる
第3話 青い隊章を喰う偽りの道
壁の青い隊章が、ぽつりと光を失った。
「おい、どうした。止まってると踏み抜かれるぞ」
ロルフ・ゼルが通路の先を指す。青い隊章を縫い付けられた革鎧の背中が、安全経路の白線の上に立っていた。再測量の先導役。貴族派閥が寄越した顔だ。それが十八層の入り組んだ沈黙を、ずかずかと歩いている。
俺は荷縛帯を肩へ食い込ませ、一歩下がった。足元の石板は隙間ごとに違う暗さをしている。ロルフの足音が、その石板の下で妙に長く響いた。空洞がある。十三層で灰甲虫の食害を受けた床と同じ、薄い残響だ。
「セリア」
「気づいたか」
小声だ。彼女は右腕の包帯の上に剣帯を締め直し、俺の視線を追う。壁だ。天井近く、青黒い染みのような場所が濡れたように浮き上がっている。古代管理言語の落書き。
『偽りの道は青い隊章を喰う』
一文字ずつ、眼球の奥へ焼きつく。読むな。まだ声に出すな。まず安全な壁際を確保してからだ。
「この経路やめる。壁に沿え」
「青い隊章の指定線から外れると、再測量の資格が疑われるぞ」
「それでもだ」
ロルフが振り返る。荒い頬髭の下で口元が嘲けた。
「D級に上がったばかりの小僧が、何を根拠に」
「俺が言う。下に空洞がある」
「なら確かめればいい」
奴は長槍の柄で床を叩いた。乾いた音が、奥へ転がる。次の瞬間、青い隊章を着けた足場の石が三枚、まったく音もなく内側へ折れ、ロルフの身体は腰まで沈んだ。
「何——」
悲鳴の続きは落盤に食われる。指定された安全経路の白線が浮き上がり、水路のように青く走って、ロルフごと崩れていく。俺は壁際の出っ張りへ跳び、セリアが剣を岩床へ突き刺して踏みとどまった。土埃。太い乾いた衝撃が、迷宮の奥を走る。
「これ、どうなってる」
セリアが低く唸る。俺の目の前で、青い隊章一つが白線の上から弾け、石の割れ目へ吸い込まれていた。壁の文言はまだ青黒く濡れている。代償が来る。今度は鼻血だ。生温い筋が唇を伝い、視界の端が青く明滅した。
「壁づたいに戻る。奴を拾うぞ」
「生きてるのか」
「わからん。だが置いていく」
足元から崩れた岩の下に、ロルフの右腕だけが突き出ていた。青い隊章の袖は裂け、指が土を掴んでいる。俺は落盤の縁へ這い進み、奴の手首を荷縛帯で縛る。
「セリア、肩を持て」
「ああ」
二人で岩塊の隙間から引き上げた。ロルフは意識が浅く、白目を剥いて口から泡を吹いている。全身が打撲で膨れ、右脚は嫌な角度に曲がっていた。それでも息はある。
「やけにあっさり落ちたな」
「重さで足場を叩いた。あれが悪い」
会話を続けながら、俺は鼻を袖で拭う。視界の青い明滅は治まらない。読解の負荷が肩へ石のように増えていた。ロルフの足首を折り畳み、担ぎやすい形にする。彼女が右腕で剣を支えながら、俺の背に荷縛帯を回した。
「合図符を焚く。入口は近い」
セリアが腰袋から薄緑色の筒を取り出し、火打ち金で短く擦る。白い煙が天井へ昇り、迷宮の空気に青く灯った。通路の先で別の隊章を持つ探索者が数人、こちらを見て騒いでいる。動転して、足を止めたままだ。
「立ってるのは無理か」
「無理だな。上に乗せろ」
俺はロルフを岩の平坦面へ転がし、胸へ縛帯を二重に回した。セリアが足側を持ち、二人でずるずると後退を続ける。背中の空洞を初めて意識した。あの落書きが教えたのは足場の虚ろだけじゃない。青い隊章そのものが、狙われている。
「リクト、目が光ってる」
セリアの声が近い。彼女は俺の顔を覗き込み、包帯を巻いていない方の手で俺の肩を押さえた。細かな痺れが背骨を下っていく。
「治まる。先を急げ」
「無理をするな。お前まで歩けなくなったら、道を選べない」
だから選べるうちに退くんだ。俺は舌で乾いた歯の裏をなぞり、十八層の壁へ手を置いた。壁は冷えていた。入口の光が、ようやく遠くに細い筋となって見える。
測量テントに着く頃には、ロルフは唸り声を上げ始めていた。ダンが入口の杭のところで待っている。俺とセリアが荷を下ろすと、ギルドの補助員二人がロルフを馬車の板へ乗せ、粗い縄で固定する。
「ご苦労だった。二人とも、無事か」
「無事、だった。あの経路、青い隊章の下が全部空洞になってる」
ダンは頷き、テントの中へ顎で差した。机の上に再測量の測量図が広げられ、朱印の複写が重しで留められている。
「現場を封鎖する。補助員に言って、青い隊章の者は通路へ入れ続けるな。測量器を置いたままにさせろ」
手際よく指示を飛ばす。広げた記録帳の端に、ロルフの供述を取る欄を作っていた。ペンが紙に触れ、最初の一行が書かれる。
「雇われ妨害の記録を始める。お前たちは見届けろ」
「誰に雇われたか、吐きますかね」
「吐かなくても証拠は残る。所持品を調べるぞ」
テントの隅に、ずんぐりした老人がいた。マルロ・ファーズ。ギルドの測量顧問だと聞いた。彼が外套の下から滑らかな石片を取り出し、俺の前へ差し出す。
「右手を見せなさい。掌を上に」
俺は手を差し出した。石片には半円の幾何模様が刻まれている。読み上げた記憶そのままの線が、俺の掌にも薄く青い輪を描いて現れていた。複雑な曲線が互いを追い越し、閉じないまま交差する。
「一致するな。『管理者の再来』の候補、といえます」
マルロは石片を俺の手の上でゆっくり回した。模様が重なった瞬間、石片の青い線が一度だけ白く燃える。老人は静かに息を吐き、テントの記録帳へ日付のない走り書きを残した。
「確定とは言わない。可能性だ」
その含みが、妙に落ち着いていた。俺は手を下ろす。石片はマルロの手へ戻り、外套の内へ消える。
ダンがロルフの胴巻きをほどいた。厚い金貨二枚。それから、折りたたまれた紙が三つ。開くと細かい文字で、第18層の見取図と安全経路の指示が書いてある。青い印影の付いた紙だ。ナージャがその紙を裏返し、灯りに透かした。
「ギルドの金庫に通した紙です。ここで見られますね。あちらの金印が、わずかに斜めです」
「貴族派閥の者にしか使えない帳簿紙か」
彼女が眼鏡を押し上げる。ロルフは馬車の板の上で目を開け、俺と目が合った。乾いた唇のまま、よく回らない舌で言う。
「……逆らうな。青い隊章は、もっと深く沈むぞ」
セリアが低く笑った。
「沈んだのはお前だ」
ロルフは言い返せず、喉を鳴らす。馬車が石畳を軋ませて、ギルド拘束室へ向けて動き出した。
夕方の光が、テントの帆を通して橙色に濁る。ナージャが新しい札を手にして、俺の前に立った。
「第18層での罠逆用と、妨害工作の摘発。これを根拠に、C級昇格を受理しました。ヴァルムシュタット暫定パーティ、構成員二名。C級探索者リクト」
認可札を受け取る。D級の札と違い、縁に銀の薄い板が打ってある。掌の中で、読解の余熱と混ざった。
「次は、第24層を調べましょう」
セリアが机の端に両手を置いた。測量図の余白へ、彼女は父の折れた剣の柄を置く。俺がかつて持ってきた荷物の重みに耐えてきた木の柄だ。
「あの剣、見せろ」
彼女は一瞬ためらって、柄を差し出した。手に取る。表面は磨かれて黒くなり、刃の折れた金具だけが光る。その金具の付け根に、青い幾何紋様の一部らしき刻印が浮かんでいた。俺にだけ読める。霧を噛むように、短い管理言語が柄の陰から浮かび上がる。
『継ぐ者よ、二十四層で問え』
セリアの横顔へその言葉を返すことはできない。伝えようとすると、声は形を持たずに砕ける。それでも彼女は、俺の視線の先を追って剣の柄を見た。
「何が浮かんでる」
「そう遠くないうちに、わかるかもしれん」
手のひらの青い紋様が、柄の刻印とわずかに共鳴し、それから静かに消えた。次は第24層だ。だが、今日はこれ以上、読み解かない。目を閉じれば、あの壁の文言が視界の裏でまだ青く瞬いている。
「迷うなよ、相棒」
セリアが柄を腰へ戻す。俺は荷物を背負い直し、測量テントの外、夜の帳へ一歩踏み出した。