荷物持ちの少年だけが読める迷宮の落書きで、俺は最強の探索者になる
第4話 青き家章を灰に埋めるまで
C級の認可札は縁の銀が薄くくすんで、測量テントの灯りを弾かなかった。三日後、俺はその札を胸の内袋へ押し込み、第23層前進拠点の昇降門をくぐる。セリアが半歩斜め後ろからついてきた。右腕の包帯は外れている。傷跡だけが白く残っていた。
「第24層は再測量区画が封鎖されている。許可は通してある」
「どこまで通した」
「隠し壁の南側、測量杭七番まで。先遣の記録だと、そこから先は理由不明の出血が報告されていた」
昇降門が開く。湿った風が昇ってきて、灯りが揺れた。セリアは父の折れた剣の柄を帯の右に差している。刃のない柄だけの得物が、歩くたびに軽く音を立てた。
「迷ったら壁を読め。道は俺が選ぶ」
第24層は天井が低かった。通路の両側に古い測量杭が並び、青い隊章の旗だけが規則的に垂れている。床には白線。だが、その白線は所々で途切れ、別の方向へ曲がっていた。古い線だ。俺は壁に手を当てて、呼吸を整える。
淡い青が視界の縁で明滅した。手のひらの紋様が熱を持つ。管理言語が壁全体に細く浮かぶ。
『白き標に従う者は、古き杭の間で眠る』
「白線を外れる。杭の右側を通れ」
「正規の経路と逆ね」
「だから正しい」
二回目の読解は、天井近くの亀裂で行なった。そこだけ管理言語の配列が逆さまになっている。
『眠らぬ石の目が、隠し壁の南を開く』
声に出した瞬間、床が低く唸った。壁の一面がわずかに後退し、隠し壁の南側が口を開ける。青い紋様が手のひらから腕まで走り、鼻の奥で鉄の味がした。俺は壁に肩を押し付け、息を吐く。
「隠し壁の位置はわかった。この先の突き当たりだ」
「読解の残りは」
「一回だ」
セリアが剣帯に手を置く。何も言わず、俺の前へ出た。それが必要だ。俺は壁から体を離し、指先で壁をなぞる。隠し壁は、通路の突き当たりの壁より少しだけ色が濃い。近づくと、壁の表面に細かな剣撃が無数に走っているのが見えた。どれも壁を削ることを目的とした跡ではない。
「これだな」
「開ける」
三回目の読解。俺は壁の中央に浮かぶ青い文言を見据えた。
『隠されたる壁よ、持ち主の名を返せ』
声に、壁が震えた。青い光が走り、隠し壁が音もなく左右へ開く。奥から湿った空気が流れ出て、セリアが小さく身構える。開いた壁の内側には、一つの剣撃跡だけが青く輝いて浮かんでいた。斜めに走る太い斬撃。それから、壁の右下に青い隊章が刻まれている。隊章の中央には、杖と剣を交差させた家章があった。
「これは、ヴァルムシュタットの剣筋よ」
セリアが壁へ歩み寄る。折れた剣の柄を腰から抜き、震える手を抑えるように両手で持ち直した。刃のない柄を、壁の剣撃跡へ当てる。
金具の傷が、壁の削れと重なった。刃こぼれの角度も、鍔の欠けた位置も一致する。
「父のだわ。間違いない」
彼女の声は低く、乾いていた。壁の青い隊章に目を移す。
「この紋章は、ライバル貴族の家章よ。父が最後に調べていた偽経路を作ったのは、こいつらということになる」
俺は何も返さなかった。壁の奥から、黒い煙のようなものが床を這ってくる。瘴気だ。迷宮の深層で稀に溢れる、生物の動きを鈍らせる澱み。開いた壁の奥から流れ始めている。
「リクト、下がって」
「下がる場所はない。あれが通路側へ出れば、退路まで巻かれる」
セリアが杖を抜いた。前衛の構えになる。だが瘴気は物理的な一撃では止まらない。俺は開いた隠し壁の縁に、四つ目の管理言語が浮かぶのを見た。
短い句だった。
『門を塞ぎ、息を止めよ。青き家章を灰に埋めるまで』
これを読めば、今日の読解は四回目になる。安全限界の三回を超える。だが、他に道はない。
「読むぞ。後ろで支えろ」
「ええ」
俺は壁の文言に手を伸ばし、声に出した。
『門を塞ぎ、息を止めよ。青き家章を灰に埋めるまで』
壁が内側へ倒れるように閉じていく。青い家章が光を失い、石の継ぎ目が溶けるように塞がった。床を這っていた瘴気が、向こう側で締め殺されるような音を立てて止まる。
直後、目の前が真っ白になった。
耳鳴り。膝の感覚が消える。視界の全部が青く明滅し、鼻から熱いものが流れ落ちる。足の裏が床を掴めなくなって、体が傾いた。
「――っと」
セリアの手が俺の胸を押さえた。そのまま膝が折れて、床までの距離を意識できない。背中に回った腕の硬さだけが残る。目を開けられない。開けると、視界のすべてが青い幾何紋様に食われている。
「リクト、手を」
「……無理だ。歩けん」
「背負う。剣とお前、両方持って帰るから黙って捕まってろ」
彼女は俺の腕を肩へ回し、体を引き上げた。折れた剣は帯の右に差し直してある。俺の荷物は彼女の左肩へ。意識が途切れるたび、足先が床へ擦れた。遠くで昇降門の軋む音が聞こえ、それから人工的な明かりの匂いがした。
前進拠点の空気だ。
「医療区画へ。歩ける者は何人いる?」
ダンの声が近い。俺は何も答えられないまま、布の上に寝かされた。手のひらの青い紋様が、まだ薄く明滅している。鼻血は拭われていた。誰がやったかは、わからなかった。
夕方になって、俺は小部屋の隣室でダンとナージャの声を聞く。目は閉じたまま、音だけがはっきりしていた。
「父の剣撃と、青い隊章を確認しました。剣の欠けと壁の傷も一致しています」
セリアの声。それから紙が動く音。ダンが何かを確かめるように低く唸る。
「B級相当の貢献と、第25層挑戦権を共同名義で出す。台帳照合は任せる」
「ええ。第24層の隠し壁は封鎖状態ですね」
「ああ。リクトが塞いだ。今日の読解は四回目だ。当分は目を覚まさんかもしれん」
足音が変わる。マルロの老人の声がして、石片の触れる硬い音が手のひらの上で鳴った。冷たい石の溝が、青い紋様の線と重なる。誰かが慎重に、俺の指を一本ずつ動かした。
「一致ですね。記録を残します。この照合書は、あの壁が何を選んでいたのかを示す物証になる」
夜になり、誰かが燭台を一つ、部屋の隅へ置いた。火が揺れて、瞼の裏が橙色に変わった。ダンが椅子を引く音。
「明日、第25層の門を開く。邪魔は私とナージャが止める」
その言葉の先は、何も続かなかった。