FeverStory

没落子爵令嬢が冷酷辺境伯と一年限定の契約結婚をしたら、氷の仮面が熱で溶け落ちる

第1話 氷の契約に触れた指

銀の燭台の縁に、白い霜が這い上がる。指先ほどの小さな結晶が光を吸って、次の瞬間には卓上全体へ薄く広がった。大広間の空気が刺すように冷え、公証人が一歩後ずさる。リリアンヌは背筋を伸ばしたまま、契約書の上で曇っていく文字を見つめていた。

「継承権がどうした。冬を越えなければ意味がないと、お前も知っているだろう」

アルノルトの声は軽い。彼は左の薬指に嵌めた指輪をゆっくり回しながら、エゼルバルトを見上げた。指輪は彼の指には大きすぎて、骨ばった関節の上で頼りなく傾いでいる。

「守るべき家も、守るべき妻も、お前には重すぎるんじゃないか」

エゼルバルトの銀色の瞳が細くなった。返答はなかった。代わりに、床を走る霜がアルノルトの足元で鋭く枝分かれする。銀器の水差しが、澄んだ音を立てて内側から曇った。同席していたヴォルフラム家の侍従が息を呑み、老執事が卓上の蝋燭を庇うように両手で囲む。

リリアンヌは指先を組んだ膝の上で、そっと握り直した。冷たい。ここに来るまでに費やした覚悟が、氷の下へ沈んでいくようだった。だが、弟の顔を思う。借金の証文を突きつけられた朝の、あの静かな恐怖を思う。

彼女は立ち上がった。椅子の脚が石の床を擦り、その音だけが凍えた沈黙に穴を開ける。

「おやめください」

自分の声が、こんなに静かだとは思わなかった。アルノルトが笑う。

「令嬢、座っていなさい。これは家の話だ」

「いいえ。これは契約の場です」

リリアンヌは凍った床へ足を踏み出した。靴底から寒さが這い上がり、足首が痺れる。一歩ごとに、霜がひどくなる。それでも彼女はエゼルバルトの傍へ進んだ。彼の横顔は青白く、握りしめた拳の周りにだけ、空気が白く凍って漂っている。

「触れます」

断ってから、彼女は凍えながらも自分の指を、その拳の上へ重ねた。

瞬間、指先から熱が逃げていく。まるで七生分の冬を一息に吸い込むようだった。けれど、彼女が触れたところから、白い氷がほどけていく。薄氷が水へ戻り、銀器の曇りが滑らかな輝きを取り戻し、床の霜が一面に溶けていく。溶けた水が、差し込んだ夕日に金の筋を作って光った。

「……なんだ、これは」

アルノルトの手が止まった。指輪が音を立てて机に落ちる。誰も拾わない。公証人が二歩、三歩と近づいて、床を覗き込んだ。ギルベルトが目を細め、リリアンヌの左耳裏へ視線を滑らせる。

「離れろ」

エゼルバルトが低く言った。

「離れません。倒れられたら困りますから」

彼女の指はまだ彼の拳に触れたままだ。凍気は収まっていた。彼の指が、わずかにほどける。氷を吐き出すように白かった指先へ、うっすらと血の色が戻っていく。

リリアンヌは彼を見上げた。銀の睫毛が伏せられている。怒りなのか、戸惑いなのか、それすら凍らせたような横顔だった。

「妻の役目は見せかけだけでしょうか」

「それ以上を求めるな」

「解釈の余地は」

エゼルバルトがようやく彼女を見た。銀色の瞳はまだ冷たく、けれどその奥にある何かが、微かに動く。

「ない」

彼は手を引いた。接触が切れる。だが大広間の温度はそれ以上、下がらなかった。リリアンヌは自分の手を胸の前で握る。指先の感覚が、かじかんで鈍い。それでも彼女は背筋を伸ばしたまま、公証人へ向き直った。

「続けてください」

公証人は一瞬ためらい、傍らの契約書を直した。読まれる条項は、互いに恋愛感情を持たないこと、寝室を共にしないこと、公の場以外では肌に触れないこと。そして、破られた場合の違約金の額。それぞれが氷のように明確な言葉で、彼女の胸へ積み上げられていく。

「ご署名を」

リリアンヌが先に筆を取った。インクが凍えていないか確かめるように、指で一度、瓶の縁をなぞる。それから静かに、紙の上へ名を書いた。エゼルバルトは、彼女の手が離れるのを待っていたかのように、その隣へ黒い署名を落とす。公証人と証人が捺印し、小さく硬い音が三度、広間に響いた。

「これで婚姻は成立です」

リリアンヌは契約書の写しを受け取り、胸元で抱える。顔を上げると、ギルベルトが床へしゃがみ、溶け残った薄氷を銀薬瓶へ採取しているところだった。彼はそれに栓をしながら、彼女の耳の後ろをもう一度見た。

「西塔の客室を用意させてください。氷の残りが肺に障るといけませんから」

エゼルバルトは答えない。だが目だけで、侍従の一人へ指示を出す。アルノルトが椅子から立ち上がり、落ちた指輪を拾うと、含み笑いを残して凍てついた回廊の奥へ消えた。

マルタという若い女中が、リリアンヌの前で深く一礼した。

「ご案内いたします」

西塔への道は長い。回廊の窓から夕闇が差し込み、足元では消えた霜の名残が黒い石を濡らしていた。リリアンヌは歩きながら、さっきの自分の行動を数えていた。触れた。止めた。口にした。どれも令嬢らしからぬ、けれど今の自分に必要な行いだった。

客室の扉が開くと、マルタはすぐに火を灯し、窓の閂を確かめた。

「朝は鐘の音でお知らせします。夜間、この廊下を出ることはお控えください。あとはご自由にどうぞ」

「ええ。ありがとう」

マルタは一礼して出て行った。扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。

リリアンヌは鞄から父の書簡と契約書の写しを取り出し、灯りの下に並べた。光に透かすと、父の文字の下に、薄く別の繊維が浮かんで見える。彼女は紙を指先で挟み、灯りへ近づけた。

「隠されているもの、か」

紙の厚みが不自然に揺らぐ箇所がある。じっと見つめ、息を整えた。マルタの足音はもう聞こえない。静かな部屋に、彼女の呼吸だけが残る。

この婚姻は、選ばれた理由すら曖昧な契約だ。けれど今夜、彼女は凍気を止めた。この手が、あの氷を溶かした。それが意味することはまだ分からない。それでも、進むために必要な手がかりは、この薄い紙の下にある。

リリアンヌは書簡を胸の前で握りしめた。

「何が隠されているのか、私が必ず見つける」

声に出して、自分を確かめる。夜の帳が、窓の外で深く沈んでいった。

没落子爵令嬢が冷酷辺境伯と一年限定の契約結婚をしたら、氷の仮面が熱で溶け落ちる第1話 氷の契約に触れた指