没落子爵令嬢が冷酷辺境伯と一年限定の契約結婚をしたら、氷の仮面が熱で溶け落ちる
第2話 冷えた指先が撫でる嘘
朝の鐘が鳴る前に、リリアンヌはマルタを呼び寄せた。西塔の客室は冷え込み、吐く息が薄く白む。彼女は前夜から書き直していた送金依頼書を封筒へ入れ、封蝋の代わりに短く折り畳んで差し出した。
「これを会計係へ。テオ・ヴェルデ宛ての送金です。受領証をいただけますか」
「承知しました。朝食の前に届けてまいります」
マルタが封筒を受け取る。その指が一瞬、リリアンヌの手元へ目をやった。昨夜のかじかみがまだ残る指先に気づいたのだろう。彼女は何も言わず、深く一礼して廊下へ出た。
リリアンヌは机へ戻り、父の書簡をもう一度灯りにかざす。隠れた繊維は、やはり紙の中央より下にあった。光を斜めから当てると、文字とも模様ともつかぬ細い線が浮かぶ。書庫か、それとも教会の古記録か。いずれにせよ、この城の中で調べるには許可が要る。
「書庫の利用許可、か」
彼女は小さく息を吐いた。契約の妻として、どこまでが許される権利なのかまだ分からない。だからこそ、まずは相手の出方を待つのではなく、自分から動く。送金の次は、ギルベルトへ書庫の件を切り出そう。そう決めたところで、扉を叩く音がした。
「お支度がお済みでしたら、ギルベルト様が診察室へお越しくださいと」
扉の向こうから、マルタの落ち着いた声が聞こえる。朝食前だというのに、ずいぶん早い呼び出しだった。
診察室は東棟の奥、薬瓶の並ぶ棚と銀の器具が整然と収まった小さな部屋だった。ギルベルトは机に手帖を開き、リリアンヌが入ると同時に椅子を引いた。
「寒冷適応の確認です。初日は肺と手足の状態を見ておきたい。座ってください」
リリアンヌは革張りの椅子に腰を下ろす。彼は指を消毒液で拭い、彼女の首筋へ触れず、目だけで耳の後ろを覗き込んだ。左耳裏の痣を、二度、三度、角度を変えて確かめる。
「痣はいつからです」
「物心ついたときには」
「痛みや熱は」
「ありません」
ギルベルトは何かを納得したように頷き、手帖へ細かく書きつけた。それから窓辺へ歩き、軋む留め金を外して外気を入れる。途端にガラスの内側へ薄い霜が走った。この城の空気は、どこにいても凍気の名残を含んでいる。
「窓へ近づいてください。手をかざすだけで」
リリアンヌは言われるまま、ガラスから指先ほどの距離を保って片手を近づけた。霜は彼女の手形を避けるようにして薄れ、水滴となって窓枠を伝う。ギルベルトは手帖を開いたまま、その様子を食い入るように観察していた。
「なるほど。接触がないのに、ここまで明確な融解を示すとは」
「何かのご病気ですか」
「逆ですよ、奥様。あなたはこの城に必要な御方だ」
その言い方が、わずかに引っかかった。必要なのは嫁ではなく体質なのかもしれない。けれど今それを問えば、自分の足元が揺らぐ。リリアンヌは黙って窓から手を離した。
「本日はこれで結構です。午後までに書庫の利用許可を出しておきます」
「書庫、ですか?」
「ええ。何かお探しなのでしょう」
心臓が一つ跳ねる。彼女は表情を崩さなかった。ギルベルトは手帖を胸ポケットへしまい、蒸留水で手を流しながら、背中越しに言った。
「あなたが朝から書簡を透かして眺めていたと、女中が気を利かせてくれたので。城内の文書調査には許可が要ります。明日より利用できますよ」
リリアンヌは「ありがとうございます」と短く返し、診察室を後にした。廊下へ出ると、自分の手のひらにまだ窓の冷たさが染みていた。
昼前の回廊は、日差しが差さない分だけ底冷えがした。磨かれた黒い石の床に、彼女の足音だけが硬く跳ねる。ふと、曲がり角の先に黒衣の人影を見つけた。エゼルバルトだ。彼は片手を背に回し、侍従と何かを話していたが、リリアンヌに気づくと、侍従を一瞥で下がらせた。
「お話があります。送金の件で」
彼は銀色の瞳で彼女を射抜くように見下ろした。
「会計係に任せてある」
「いえ、そうではなく。今後、テオの養育費の必要額をどちらに相談するべきか確認を」
背に隠していた手に、黒い手袋が覆いかぶさっていた。左手だ。彼がわずかに身を引く気配があった。
「必要額は毎月、会計係が試算して届ける。お前が頭を下げる機会は作らなくていい」
冷たい物言いだったが、不思議と突き放された感じはしなかった。リリアンヌは一歩、彼との距離を詰めかけて、やめた。手袋の指先が、わずかに内側へ食い込んでいる。凍傷の痕が、彼の動きを慎重にさせていた。
「……分かりました。失礼いたします」
彼女が一礼すると、エゼルバルトは答えず、背を向けて執務室の方角へ去った。黒い手袋はついに外されることなく、硬い足音だけが凍てついた回廊に溶けていった。
夕刻、西塔の窓が橙に染まる頃、マルタが小さな包みを抱えて西塔の客室へ戻ってきた。会計係からの受領証に加えて、封のされた手紙が一通ある。テオの名前と、走り書きのような文字。リリアンヌは礼を言って受け取ると、マルタを扉の内側へ迎え入れ、扉を閉めてから封を割った。マルタは伝令を終え、西塔の客室の戸口傍らに控えている。
兄さんへ、借金の第一回返済が済んだ。送金ありがとう。それから、家にあった銀の燭台を売った。兄さんが持ち出さなかった分だ。店の控えを同封するから、何かの足しにして。
同封された紙片を開くと、質入れの控えの写しだった。日付、分量、売却先の名、そして受け取った額。それは彼女が知らないうちに家から消えていた品の行方を、はっきりと示していた。
リリアンヌは手紙を机へ置き、息を深く吸い込んだ。指先が震えている。返済の報告に混ぜて、テオは一人で何かを決めて、片付けた。その金額は借金の前ではわずかだ。けれど、そんなことをさせたかったわけではない。マルタは西塔の客室の戸口に控えたまま、目を伏せている。
「私が……何とかする」
声がかすれた。売却先の名も、返済先の控えも、彼女は指で何度か辿った後で、衣装箱の底へ、父の書簡の下へ滑り込ませた。誰にも言わない。今はまだ、胸の裡だけに留めておく。夕闇が窓を濃く覆い、部屋の灯りだけが彼女の呼吸に合わせて揺れていた。