FeverStory

没落子爵令嬢が冷酷辺境伯と一年限定の契約結婚をしたら、氷の仮面が熱で溶け落ちる

第3話 凍る鐘の密やかな企て

薬品の苦い匂いが、まだ廊下の冷気に混じって鼻を刺す。朝の光が窓の霜を融かしかけ、廊下の石床に冷えた水の線を引いている。リリアンヌは朝の呼び出しに応じ、診察室兼研究室の扉をくぐった。重い蝶番が低く鳴き、室内の沈んだ空気が肌に触れる。ギルベルトが背を向けて薬瓶の棚に向かっている。高い背が薬瓶の影を床へ落とし、硝子の蓋が時折かちりと小さく鳴った。机上には革表紙の名簿が開かれたままだった。頁の角が反り返り、何度も開かれてきたことが見て取れる。

「お呼びと伺いました」

声をかけると、ギルベルトは振り返らずに瓶を一つ手に取った。瓶の中で青黒い液体が緩やかに波立つ。

「昨日の診察の続きだ。体調を確認したい。手を出してくれ」 淡々とした声の奥に、診察を急かすような響きはない。

リリアンヌは机の横へ進み、名簿のほうへ目をやった。古い革と紙の匂いが、薬品の苦さの下から重なって立ちのぼる。開かれた頁には候補者たちの名が並び、余白に細い字で注記が付けてある。どれも針先で刻んだような細い字で、余白に影を落としている。その中の一行が彼女の足を止めた。呼吸が一瞬、薄い膜に遮られたように浅くなる。

「……左耳裏の痣、凍気中和体質の兆候」

指先が冷えていく。文字がその部分だけ生き物のように動いて、耳の裏の皮膚を這った。自分の体の一部を、まるで検分済みの品のように書き付けられた文字。しかもそれは彼女が婚姻契約の候補となる以前から、ここに存在していた筆跡だった。先日知ったばかりの事実が、こんな形で彼の手記に残っている。彼女は顔を上げ、ギルベルトの背に問う。

「名簿に、私の体質を書いたのはなぜですか」

ギルベルトの手が一瞬止まった。指でも止めるように、瓶を握る力が強さを変えた。だが振り返ると、その灰色の目は最初から観察していた者の目をしていた。

「見えたか」

「ええ、はっきりと」

彼女は名簿の余白に指を置いた。指の下で紙がわずかに湿る。部屋の冷気が彼女の体温で薄く溶けたらしい。湿った紙に指先の熱を奪われ、それでも手を引かなかった。

ギルベルトは名簿を閉じようと手を伸ばし、やめた。深く息を吐いて、薬瓶を棚へ戻す。棚板に瓶が触れる音が、妙に大きく部屋へ落ちた。

「最初から、目当ては私だったのですか」

リリアンヌの声は静かだった。心の内ではもっと鋭い言葉が渦を巻いていた。お前は氷を溶かす道具でしかなかった。そう告げられたも同然の書き込みだ。けれど彼女は肩を張らず、真っ直ぐに彼を見た。燭台の火が影を揺らし、二人の距離を壁に映し出していた。

ギルベルトは観察手帖を机の端へ寄せ、腰を下ろした。椅子の脚が床を軋ませる。彼の指先が観察手帖の縁を何度もなぞるのが視界の端に映った。

「違う。当初は他の者も候補にいた。だが最終的に名簿へ残したのは、お前の体質を確認した後だ。それなしでは主は次を越えられない」

「では、最初から道具だったということ。家名も借金も、選ばれる理由としては帳尻合わせに過ぎないと」

「そう受け取られても仕方ない」

彼は目を逸らさなかった。そのぶんリリアンヌの胸の奥が冷えた。契約書の文言が頭を過ぎる。互いに恋愛感情を持たない。寝室を共にしない。肌には触れない。すべては最初から取り決めで、感情の入り込む隙はなかった。条文の一つ一つが、触れることのないまま積まれた壁に思えた。彼女は唇を引き結び、一つ息を整える。組みかけた指をもう一度開き、スカートの上に置き直す。

「契約を破棄すれば、借金は一括返済になる。テオを危険に晒すのも同じこと。ええ、分かっています」

「ならば」

「私は残ります」 診察室の澱んだ空気を、自分の側へ一枚だけ引き寄せるような声だった。

ギルベルトの眉がわずかに動いた。リリアンヌは名簿から手を離し、背筋を伸ばした。

「道具として選ばれた事実は、私がここに留まる理由を消したりしない。なければ弟が路頭に迷う。それだけは、させない」 胸の奥でテオの声が響く。あの子を凍った路肩へ追いやるわけにはいかない。

指先はまだ震えていた。だが声はしっかりとしていた。彼女はもう一度ギルベルトを見た。彼の灰色の目に浮かぶのは、拒絶でも哀れみでもなく、計算をやめた一瞬の空白だった。

「書庫の利用許可、いただけるのでしょう。父の書簡に隠された繊維を調べます」

「……ああ。許可証は後で届けさせる。観察手帖の該当頁も写して渡そう。お前が知った上で残るなら、隠す必要はない」

ギルベルトは立ち上がり、鍵付きの引き出しから名簿を戻した。名簿が閂のように彼の領域へ滑り込み、私との間を閉ざす。鉄の鍵が回る音が、部屋の静けさを区切った。リリアンヌは一礼して扉へ向かう。彼は追わない。それだけが、わずかな謝意のように思えた。追わない背中が、この館では珍しいほどの優しさに思えてしまう。

廊下へ出ると、西塔へ戻る足音がいつもより硬く響いた。空気が冷えるほど足音は鋭く、西塔まで続く回廊の闇に吸われていった。三階の回廊に差しかかったとき、応接間の扉が開く。アルノルトが顔を出し、ほんの少し笑みを作って近づいた。笑みは形だけで、瞳の色は回廊の白い光を反射している。

「おや、朝から精が出る。兄の契約の妻殿」

「ごきげんよう」

足を止めるが、彼に歩調を合わせる気はない。アルノルトは袖口から大きな指輪を一つ取り出し、指の腹で弄んだ。何かの紋様が刻まれている。大きすぎるそれは彼の指に収まらず、鎖に通してあるようだった。紋様は古い文字の欠片のようで、窓の光を受けて鈍く金色を帯びる。

「その痣の意味、俺が調べてやろうか。左耳裏の、三日月の」

リリアンヌの背が一瞬強張った。彼がなぜそれを。いや、家の者なら候補の段階で知っていてもおかしくない。彼女は足を速める。首筋を髪で隠すように、ほんの少しだけ顎を引いた。

「結構です。御自分の領分をどうぞ」

「代わりに、と言っただろう。次の冬の継承儀式で、兄に触れるな。それだけでいいんだ。悪い話ではないぜ」

指輪の鎖がちり、と鳴る。リリアンヌは振り返らずに答えた。

「触れるかどうかは、私が決めます。お取引では動きません」

「そうか。残念だ」

アルノルトは薄笑いを浮かべたまま回廊に残った。リリアンヌは西塔への角を曲がる。後ろで指輪の音が一度だけ、硬く響いた。西塔への角を曲がってから、ようやく細く息を吐く。

彼女の姿が消えると、アルノルトは手鈴を取り出して軽く振る。鈴は乾いた音を三度ほど廊下へ落とし、壁の火を震わせた。しばらくして、鐘楼管理人と思わしき痩せた男が回廊の影から進み出た。まだ年若く、指先が霜で白い。一歩動くたび、床の近くで空気が裂けるように鳴る。

「旦那さま、お呼びで」

アルノルトは指輪を胸元へ戻し、声を落とした。

「冬の継承儀式の鐘を、凍らせろ。誰にも気づかれるな」

男は一瞬息を呑み、それから俯いた。

「……へい」

アルノルトの薄笑いが深くなる。彼の視線は靴先の霜をなぞり、喉の奥で笑みを転がした。三階の回廊に冷えた風が抜け、手袋をしていない男の指先から、白い霜が床へ落ちた。

没落子爵令嬢が冷酷辺境伯と一年限定の契約結婚をしたら、氷の仮面が熱で溶け落ちる第3話 凍る鐘の密やかな企て