FeverStory

没落子爵令嬢が冷酷辺境伯と一年限定の契約結婚をしたら、氷の仮面が熱で溶け落ちる

第4話 霜が刻む古い地図

三階回廊の角を曲がるリリアンヌの靴音に、後ろから指輪の鎖が擦れる音が一つ追いかけてきた。それきり足音は消え、回廊には壁の火の揺れだけが残る。彼女は西塔へ向かう足を、途中で東の廊下へ切り替えた。アルノルトが窓へ近づく気配を背中に感じながら、胸の内で短く呟く。

――あれは、合図だ。

確信はない。ただ、あの男の笑みの温度と指の動きには、見せ物にしろ取引にしろ、人の意志を試す獣のような間があった。リリアンヌは歩を速め、西塔への角をわざと一つ通り過ぎる。彼女の影が壁を滑り、診察室兼研究室の前でようやく止まる。

扉の下から薄く灯りが漏れていた。

「ギルベルト様、まだ起きていらっしゃいますか」

返事の代わりに、内側から椅子の脚が床を擦る音が響く。重い扉が開く。ギルベルトは手に金属製の観察手帖を持ち、開いた頁へ細い字を書き加えていた。

「戻るのが遅かったな。西塔へはもっと早い道があったはずだ」

「三階で少し、回り道を」

リリアンヌは訊ねた。

「候補者の選定に、私の体質だけを見たのですか。他に何か、私を選ぶ理由がありましたか」

ギルベルトはしばらく手帖へ視線を落としていた。やがて彼女の目の前で、開いた頁を折り返す。古い紙のこすれる音が静かな部屋に響いた。

「体質だけなら、お前でなければならない理由には欠ける」

彼は薬瓶の並ぶ棚から一つの小瓶を外す。

「婚姻前の記録だ。お前の家系に現れる稀な気質と、左耳裏の痣。あの日、お前が辺境伯の袖へ触れたときの融霜の度合いを足しても、まだ足りない」

「ではなぜ」

「氷に触れた後、お前だけが手を離そうとした」

リリアンヌは眉を寄せる。ギルベルトは小瓶を手帖の隣に置いて続けた。

「他の候補は皆、主の凍気で指先が白むと、離すどころか力まで抜いた。凍気に飲まれまいとするより、上等な血筋の男に触れている証を保とうとしたんだ。お前は違った。凍傷の手を案じ、自分の痛みを後回しにして離れた」

「それが選定の理由ですか」

「候補者名簿に加える決め手にはなった。最初の観察は、手帖の後半だ」

ギルベルトが手帖を押し出す。リリアンヌは手に取らず、頁へ目を走らせた。針で刻んだような文字が、彼女の留守居中の行動、弟への送金、水仕事で荒れた指先まで書き連ねてある。日付は婚姻の知らせが来る前から始まっていた。

「あなたが送った手配人は」

「物売りと祭りの行商人に扮してヴェルデの屋敷を三度訪ねている」

彼女は唇を噛む。

「ええ、そうでしょうね。父の書簡に隠された一文を私が持っていることも、ご存じなのではありませんか」

ギルベルトの指が一瞬だけ止まった。それが答えだった。彼は小瓶を袖の内へ戻す。

「隠されているものの話か」

「まだ確かめていない。だからこそ、確かめる場所が必要です」

リリアンヌは手帖の端を指でなぞる。霜の下に埋もれたような背筋の冷えが、喉まで持ち上がってきた。

「地下の書庫は、館の中でも封鎖に近い場所だと聞きました」

「あれは先代の資料が眠る場所だ。勝手に入れるものではない」

「私はあなたに選ばれ、契約でここへ縛られた。選ばれた理由を真実にしておく務めが私にあるなら、同じだけの真実を私に渡してください」

ギルベルトは長く息を吐き、襟元から細い革紐に通した鍵を引き出した。

「許可証は後で渡す。この鍵は、地下書庫の閲覧扉を開けるものだ。返却の言質は取らない。ただし、見たものすべてを私に報告しろ。一つでも隠せば、今後のお前の頼みは一切聞かん」

「承知しました」

彼女は鍵を受け取る。重さは見た目よりずっと冷たく、掌で握ると氷片のように食い込んだ。

「真夜中に動くな。明日の朝、閲覧許可証と夜着の検分を終えたら、主の執務室へ行け。鍵束はあの男が持っている」

朝の鐘が鳴る頃、リリアンヌは客室の小机で父の書簡をもう一度透かしていた。隠し繊維は昨夜と同じく、光の角度を変えたときだけ浮かぶ。彼女は書簡を胸元へしまい、支度を済ませて扉を出る。ひんやりとした廊下で、通りかかった女中が軽く身を引いた。

「おはようございます。旦那様は執務室にいらっしゃいますよ」

「ええ、ありがとう」

執務室の前へ着くと、扉の向こうから押し殺した咳が聞こえた。ノックをして、名乗る。

「リリアンヌ・ヴェルデです。地下書庫の開錠をお願いしたく参りました」

ややあって、低い声が返る。

「入れ」

エゼルバルトは机の上に広げた領地図を片付けていた。黒手袋の左手が、紙の端を押さえたまま彼女の顔を見る。銀の瞳が一瞬だけ細められた。

「お前一人で地下書庫へ入るつもりか」

「そのつもりはありません。できれば、あなたに同行願います」

リリアンヌは昨夜の鍵を見える位置へ掲げた。

「ギルベルト様からは閲覧許可証と鍵を預かっています。ですが、書庫の開錠は当主の権限と伺いました」

「話が早い」

エゼルバルトは椅子から立ち上がる。腰の鍵束が重く鳴った。

「それで、何を調べる」

彼女は一拍おいて答える。

「父が書簡に残した一文のことを、まだはっきりとは。ただ、地下書庫にある古い地図と照合できるかもしれません」

エゼルバルトは彼女の胸元、書簡の隠されているあたりへ視線を走らせる。

「読め」

リリアンヌは書簡を取り出し、隠し繊維の浮かぶ一節を彼へ向けた。内容は短い。

「『ヴォルフラム辺境伯領に何かが隠されている。冬を越える前に、それを確かめろ』。それだけです」

彼はじっと文字を見る。空気の温度が、少しだけ下がったようだった。

「来い。ただし、俺の半歩後ろだ」

執務室を出ると、廊下の銀の燭台がかすかに白く曇って見えた。朝の光が入らない壁際から、地下へ下りる階段が口を開けている。角を曲がった先で、アルノルトの自室の扉へ一瞬だけ目をやる。窓の鎧戸は昨夜のうちに下ろされていた。

地下書庫の扉は、階段の終わりにある重い鉄扉だった。エゼルバルトが鍵束を差し、二度回す。閂が外れ、冷えた空気が一気に足元へ流れ込む。

「明かりは俺が」

エゼルバルトが手近の燭台へ火を入れると、書架の列が暗がりから浮かび上がった。古い紙と黴の匂い。リリアンヌは少し咳き込む。彼が歩みを止めて振り返る。

「無理はするなよ」

「大丈夫です」

彼らは古い地図の棚の前で立ち止まる。リリアンヌは父の書簡を開き、隠し繊維の浮かぶ文字を光に透かしながら、棚へ収まった丸めた羊皮紙をひとつずつ広げ始めた。都市の区画、古い街道、冬の祭礼場——どれも古い時代の絵図で、角が茶色く欠けている。

「それだな」

エゼルバルトが、棚の最上段から一巻の地図を引き抜いた。黒い手袋の指先が、地図の端をすれている。

リリアンヌは彼の手元で開かれていく図をのぞき込む。広がったのは、ヴォルフラム辺境伯領の旧い祭礼図だった。中央に古い文字で書かれた祭壇らしき記号と、周囲を囲む冬の祝祭の列。だが、彼女には別のものが見えた。地図の余白、ちょうど書簡の隠し繊維が光る位置と同じところに、小さな三日月が刻まれている。

「これです」

彼女が指を伸ばした瞬間、エゼルバルトの手が地図へ触れていた。

空気が、張り詰めた。

書庫の壁で、何かがきしむ。低い音が天井近くから走り、燭台の火が一斉に青く揺れる。壁際の銀器——壺、盆、蓋物——の表面へ、白い霜が音もなく広がってもいく。薄氷が、地図を持つ彼の指先を起点に、床を、書架を、周囲の銀の背表紙を覆っていく。

リリアンヌは息を呑んだ。指先が震える。凍気が、部屋全体を絞め上げるようだった。

エゼルバルトは歯噛みするように動きを止める。

「……離れろ」

けれどリリアンヌは地図の余白から目を離さなかった。浮かび上がったのだ。旧い方角を示す線が、霜の筋となって浮かび上がる。北西。地下へ向かって斜めに走る、細い線。

「待って。方角が、見える」

彼女は凍気に震えながら、浮かんだ霜の線をそっと指先でなぞった。触れた瞬間、その線は淡く溶けて水滴へ変わり、地図の上で一筋の光のように光る。エゼルバルトの銀の瞳が、その水の跡を追っていた。

没落子爵令嬢が冷酷辺境伯と一年限定の契約結婚をしたら、氷の仮面が熱で溶け落ちる第4話 霜が刻む古い地図