FeverStory

没落子爵令嬢が冷酷辺境伯と一年限定の契約結婚をしたら、氷の仮面が熱で溶け落ちる

第5話 旧い祭壇の氷

氷の線は、祭壇の在り処を指している。ただの古地図の染みではない。地図の余白に走った霜の筋が、北西へ向かって斜めに沈んでいく先を、リリアンヌは指先の水滴ごと目に焼きつけた。

地下書庫の空気はまだ冷たい。エゼルバルトの手を離れた地図の上で、溶けた霜が小さく光っている。

「祭礼図の時代と、父の書簡の隠し繊維が同じ方角を示す。これは偶然では済みません」

彼女は父の書簡をたたみ、胸元へしまい込む。指先の感覚がまだ痺れていた。エゼルバルトは黙したまま、壁際の銀器へ広がった薄氷を黒手袋の甲で払う。氷片が床に落ちて、細かい音を立てた。

「北西の地下。あの向きには何があるんです」

「旧い儀礼場の封鎖扉だ。だが、あれは先代の時代に埋められたはずだ」

「埋められたのに、地図には残っている。それに霜が反応した。あなたの凍気にではなく、この地図にです」

エゼルバルトの銀の瞳が、リリアンヌの濡れた指先へ一瞬向いた。彼は答えない。外套の襟でくぐもった息が白い。

そこへ階段を下りる足音がした。ギルベルトだ。彼は書庫の入口で燭台をかざし、室内に広がった薄氷の残骸を見回してから、静かに息を吐いた。

「これはまた派手に反応したな。地下まで冷気が下りてきた」

「ギルベルト先生、地下書庫の地図に古い祭礼図がありました。北西の地下へ続く封鎖扉の記録を、今すぐ照合したい」

ギルベルトは眉を上げ、リリアンヌの手元に目をやった。

「その手、霜に触れたな。痺れているだろう」

「構いません」

「そう言うと思った。端末室の手前、古い台帳を広げる。来い」

彼は鍵の束から、棚の奥にある閲覧台の引出を開けた。分厚い台帳を抱え、地図の見開きの上へ広げる。

リリアンヌは身を乗り出した。台帳の頁には旧いインクで、封鎖扉の位置と通れなくなった経緯が記されている。日付のあとに続くのは、先代が冬の祭礼のたびに扉を凍らせていたこと、そして最後の記述のあと一文だけ間を空けて、「息子には見せるな」 と書かれてある。

「……エゼルバルト様には、見せないと?」

「先代の遺志らしい。俺は当主家の古い記録には口を出せん」

ギルベルトが台帳を閉じようとする。リリアンヌはその手を止めなかった。代わりに指で一行を追い、背筋を伸ばす。

「見なくても、もう方角はわかっています。北西の封鎖扉へ、ご一緒願えますか」

ギルベルトは答えず、エゼルバルトを見る。エゼルバルトは地図から目を離し、壁の銀器に残る霜片を一瞬だけ見下ろした。

「鍵を出せ、ギルベルト。調査だけなら、当主権限のうちだ」

ギルベルトは一度、曖昧に首を傾けてから、鍵束へ手を回す。

「故あっての調査だ。無理はするな」

三人は地下書庫の奥へ進む。古い棚が途切れると、そこには鉄格子の狭い扉があり、先の階段は湿った闇になっていた。ギルベルトが鍵を回す。数十年ぶりに開いたらしい錠が、嫌な音で回った。

足元へ古い空気が吹き上がる。エゼルバルトが燭台を掲げると、下へ続く石段が光の中に浮かんだ。壁には古い祈りの文様。リリアンヌは指で書簡の上から、心の中で照合する。隠されているものは、この先にある

石段を下りるほど空気が冷えていった。息が白む。指先の痺れが肩へ這い上がる。二人の背中だけが頼りだった。

やがて円形の空間に出た。天井は低く、中央には白く古びた祭壇。氷が祭壇全体を薄く覆っていて、内側で何かが鈍く光っている。古い氷の祭壇だ。

リリアンヌは息を呑んだ。その瞬間、祭壇の表面に白い霜が波紋のように走る。エゼルバルトの足元から冷気が押し寄せたかと思うと、銀の燭台が祭壇の上に立てかけられているのが見えた。細工の台座に、使い込まれた銀の脚。持ち主は一つしか思いつかない。

「この燭台……うちの家紋が彫ってある」

リリアンヌは膝をついた。テオが無断で売ったはずの銀の燭台。質入れの控えに記されていたのは、間違いなく同じ物量だった。

ギルベルトが顔を曇らせる。

「なぜ君の家の燭台が旧い祭壇にある。それにこれは、買い戻したか盗まれたか。燭台の脇に奉献札まであるぞ」

燭台の根元に挟まっていた小さな札を、ギルベルトが折らないように抜く。封蝋のあとが残る奉献札には差出人印がびっしりと朱く染みていた。

「この印、最近、館で見た。誰の執務室のものだ」

「……アルノルト様の遠縁に、印を扱う者がいる可能性は。でもこれは、奉献の札です。儀式に使うなら、旧い祭壇へ銀器を捧げる形を取る」

リリアンヌの喉が一瞬冷えた。テオの苦し紛れの売却が、ここへ流れ着いた。その間に誰が噛んだのかは、まだ断定できない。だが父の遺した言葉と重なっていく。

「旧い祭壇へ銀器を捧げて、氷を起こす手順がある。兄が研究室で呟いていた。だから、あの男はこの場所を調べていたんだ」

「待て、誰の口からそれを聞いた」

リリアンヌの問いから目を背ける。エゼルバルトは祭壇の氷へ掌を近づけていった。氷が彼の手に応えるように薄く持ち上がり、燭台の脚をきつく呑み込む。

ギルベルトが半歩下がる。

「やめろ、その祭壇に触れるな。地図の霜といい、この氷は外の銀器とは性質が違う」

エゼルバルトは黙って手を引きかけた。遅かった。祭壇の芯がひとつ光り、続いて雪を吸ったような白い靄が、燭台の火から上がる。リリアンヌの目には、地図と同じ三日月が祭壇の足元に彫られているのが見えた。父の書簡に隠されていた「隠されているもの」。この部屋だ。

三人は一旦、血のような冷えから逃れるように地下書庫へ戻った。息が白い。リリアンヌの肺が冷たかった。

「これ、貸出簿を調べていいですか。あの奉献札と同じ印が、書庫の古い貸出記録に残っていないか」

リリアンヌはギルベルトから貸出簿の頁を借りた。綴じ糸が泣きそうな音を立てる。彼女は記録を繰った。古いインクと削れた押印が並ぶ中で、件の奉献札に刻まれた印影と似た捺印が、地下書庫の貸出台帳から浮き上がる。三カ月前、貸出人は署名こそ違うが、許可欄にはグレイシア家遠縁の名。祭壇の銀器について書かれた記録の頁だけ貸し出された形跡があった。

「アルノルト様の指輪。母君の遺した大きすぎる指輪。あれの内側に、同じ印が刻まれているのを見ました。貸出簿のこの印影と、比べられますか」

ギルベルトが彼女の顔を覗き込み、黙って頷く。エゼルバルトは入口で沈黙し、黒手袋の先で鉤の具合を確かめていた。

そこへ、館の上から、凍てついた号令が聞こえた。時鐘が一度だけ、割れそうな音で鳴る。祭祀が始まる合図だった。

「時間が取れない。あの印と貸出簿は、俺が後で両方を突き合わせて記録を取る」

ギルベルトは貸出簿に紙片を挟み、彼女の手から印影の写しを受け取る。エゼルバルトが入口へ向かった。

「執政官の求めで、俺は先に祭壇前へ入る。お前たちは無理をするな。全館に響いた鐘、これ以上かき乱すな」

「かき乱すな? お前がだんまりで祭壇前へ立つほうが、よほど不気味だ」

ギルベルトが毒づいた。エゼルバルトは答える代わりに、地下書庫の扉を閉じる。リリアンヌは貸出簿の挿み紙を握った。突き合わせは後回し。でも、この忌中のような冷えが続く時間は、何かが起こる前ぶれだとわかった。

継承の冬の儀式場へ、人の足音が集まってくる。階段を上がると、廊下の端から銀器が一斉に鳴り始めた。表面から薄く氷が滑る。空気が、息を吸うたびに白い針へ変わる。

儀式場は広く、両側に古い燭台が並んでいた。祭壇前にはすでにエゼルバルトが立ち、祝詞の残りを支える姿勢を取っている。見守る列の影が、白く煙る床の上で揺れていた。

リリアンヌは入口近くで足を止めた。ギルベルトが隣へ並び、薬瓶を握りしめる。

「寒いとか、そういう話じゃないな。まるで祭壇そのものが呼吸し始めたみたいだ」

「ええ」

その先で、壁際からアルノルトが現れた。手に大きな指輪を鎖ごと垂らし、祭壇脇へ進む。跪くでもなく、祝詞を唱えるでもなく、彼は指輪を祭壇の空へ静かにかかげた。

指輪は一瞬、彼の指から浮かぶように白く光る。次の瞬間、祭壇に置かれた銀の燭台が、内側から悲鳴を上げた。氷が足元から吹きつけ、燭台の火を青く包み込む。銀の脚が小刻みに震え、床の石が鳴いた。

エゼルバルトの足下を、氷の脈が走った。青黒い霜が、慌てた蛇みたいに石の目地を食い進む。彼の周囲だけ、空気が密度を増していた。手袋の甲まで霜に覆われて、黒い革が白く脈打つ。

「旦那様、今の指輪、離れて。あの燭台、まさか祭壇に据えてるわけが」

リリアンヌの声は、祭壇の唸りに食われた。凍気が吹き上がり、エゼルバルトの銀の髪が逆立つ。彼は奥歯を噛みしめ、足を踏みとどめる。床から氷の粒が跳ねて、リリアンヌの頬へ付いた。

父の書簡が示したものは、今、目の前で起きている。旧い祭壇と、燭台と、悪意の指。リリアンヌは一歩、凍気の中へ踏み出した。

「お下がりください」

違う。心が叫んでいる。退くんじゃない。

「私が、行く」

リリアンヌは呟く。唸る風の向こうで、エゼルバルトがはじめて彼女を見た。

銀の瞳が、燃えていた。

没落子爵令嬢が冷酷辺境伯と一年限定の契約結婚をしたら、氷の仮面が熱で溶け落ちる第5話 旧い祭壇の氷