最弱と嘲笑われたF級探索者が、誰も入れない第零層の扉を開ける。
第1話 黒い扉と青黒い鍵
崩れた天井の下で、防水端末が折れ曲がっていた。画面は暗い。水中に沈んだ左手で探ると、指先に硬い岩の破片が当たる。非正規ゲート『水没地下道』B3。臨時班の最後尾にいたのは俺一人だけだった。
「篠宮、悪いな。お前のせいで全滅は御免だ」
班長の声がまだ耳に残っている。崩落が始まった瞬間、前方へ走った背中を数秒見ていた。止める言葉は出なかった。出したくなかった。俺がF級で、スキル欠落者で、いてもいなくても同じだというのは分かっていたから。
水は腰まで届いている。左足に鈍い痛みがあった。崩れた壁の破片が脛を打ったらしい。動けないほどではない。動いても出口が近いわけでもない。
ぽたぽたと水が天井から落ちる。それ以外の音が消えた坑道で、俺は壁に手をついて立ち上がった。防水端末を拾う。電源は入るが、通信インジケーターは点滅しかしない。この深度だと電波は通らない。緊急転送信号も送れないだろう。
進むしかなかった。奥へ。崩落の先。水音が自分を呼んでいるように思えたのは、酸欠のせいだろうか。
「……違う」
声に出して否定した。頭を冷やす。あのとき見捨てられたのは、自分の判断が遅かったからだ。班の足を引っ張った。それだけの話だ。
無理に頷いて、壁伝いに足を進めた。曲がった通路が二つ。水の流れが穏やかな方を選ぶ。照明は半壊していて、十歩ごとに一つだけ青白い非常灯が点滅している。膝から下は最初から感覚が麻痺していた。
三つ目の曲がり角を抜けたとき、息が詰まるのを感じた。
崩落で塞がれたはずの壁に、黒い扉があった。見間違いではない。岩盤の割れ目を囲むように鉄枠が埋まっていて、表面には何の装飾もない。取っ手も、札も、鍵穴も。
「何だ、これ……」
声が震えた。ダンジョンの扉ではありえない場所だ。壁は完全に閉じている。扉の向こうは空洞ではなく、ただの岩のはずだ。
胸元が熱い。
青黒い鍵型ペンダント。父が死ぬ前に残した、正体の分からない合金の欠片。それが今、肌の上で脈打っていた。心臓の拍動に重なるように、ゆっくりと。熱さは増すのに、不快ではなかった。むしろ体の震えが収まっていく。
一歩、扉へ近づいた。
その瞬間、耳の奥で音が弾けた。警鐘に似ている。鈍くて、深くて、頭蓋骨の内側を這うような。
「開…けに…くるな」
言葉だった。男か女かも分からない。坑道全体が声になったようで、水が一瞬静止した気がした。
俺はペンダントを握った。鍵の形が、この扉と対になっていることだけは分かった。開けるなと警告された。それはつまり、この先に何かある。そういうことだ。
「呼んだのか」
返事はなかった。非常灯が一つ、ぱちんと弾けて消えた。
歩き出す。言われたからではなく、この場所にいる意味を確かめるために。
足元がぐらついた。壁が揺れている。天井から砂礫が降り、立っていられず膝をついた。二度目の崩落。音が遠く、十日分の雨が一気に地表を打つようだ。進みかけた退路に岩盤が崩れ、粉塵が視界を白く埋めた。
咳き込んで、水をかぶった。口に入った泥を吐き出す。防水端末を確認しようとして、手が滑った。端末が水面に落ち、非常灯の青い明かりだけが浮かんでいる。
拾える位置だが、水中に沈んだ端末はもう画面を明滅していた。フェイルセーフが起動したのか、それとも故障か。どちらにせよ、ここから信号は出せない。
崩落の地鳴りが遠くで続いていた。奥へ。進むしかない。
よろけながら進んだ。腰まで浸かる水が、太腿を冷たい掌で撫でる。左足の痛みが鋭さを増して、一歩ごとに顔をしかめる。それでも、黒い扉が俺を立たせた。
「……ああ、くそ」
壁に肘を打った。血が混じった水が流れる。こんな場所で一人になった自分を、笑えばよかった。笑えなかったのは、喉の奥に鉄の味がしていたからだ。
×
夕方の記録管理室には、冷房の風以外に動くものがなかった。南星羅は監視モニタの前から動かなかった。椅子の背を握る指が白い。
非正規ゲート『水没地下道』の異常警報。落盤。その下の行に、篠宮玲人の名前がある。臨時班に参加したF級探索者。位置信号、一時途絶。最終確認地点B3。
「どうして、あんたまで……」
呟いて、システム端末を引き寄せる。まだ監査記録は回ってきていない。この警報が上がれば、非正規潜水の履歴が問題になる。玲人の名前が、俺の判断で、公に残ってしまう。
星羅は担当者認証を通した。記録管理室の操作権限。正規の手続きならば、三つの確認工程と承認待ちがある。だが彼女は非常用バックアップ用の直接編集権限を開いた。
画面に玲人の潜入履歴が並ぶ。非正規ゲートへの単独合流という記述を消し、正規の低階層F級訓練記録に置き換えた。埋めるべき穴は他にもある。臨時班への追加入りを示す班長連絡、装備貸与の記録、当日の集合ログ。
一つずつ、書き換えていく。
指輪が冷えていくのを感じた。星の形をした青銅のリング。左手の薬指。星羅は画面を閉じる直前、その輪に軽く触れて、目を伏せた。
「これも、送った代償」
声は乾いていた。モニタの明かりが、彼女の輪郭を青く照らしている。
記録は書き換わった。監査ログには正規の担当者認証だけが残る。非常用編集権限の痕跡は、彼女の認証記録に吸い込まれた。これで、玲人の非正規潜入はなかったことになる。
なのに指先はまだ冷たかった。玲人がもし戻らなければ、改ざんすら意味がなくなる。
星羅は端末を閉じ、記録管理室の床を見た。外では、緊急応答の連絡待ちを示す黄色いランプが、廊下の壁で点滅している。
×
水が太腿まで戻っていた。いや、腰を割っているから低く感じるだけで、水位はさっきより上がっている。
黒い扉までは十歩ほどのはずだった。だが、近づけたかどうか分からない。頭が沈むようで、視界の縁がちかちかと明滅する。非常に近いところで、水が溢れる音がし始めた。
壁の亀裂から濁流が噴き出している。崩落で地下水脈にでも当たったか。足元の小石が流され、腿で受け流した水が横に逸れた。立っているのが精一杯になる。
「……まだだ」
何をまだかもしれないと、続けようとしてやめた。
黒い扉が、青黒く発光していた。表面の奥から光が滲むように揺れている。非常に小さく、水面と呼吸が合うみたいに、扉の中心だけが脈打つ。
胸のペンダントがそれに呼応する。熱が全身に回る。扉が近い。視認できる。それだけで、自分の知らない何かが体に引っかかるようで、苦しいのに足を止められない。
背後で、水が唸った。
大量のがれきを巻き込みながら、坑道の向こうから高さを増した濁流が押し寄せる。もう走れる状態ではない。左足の痛みも消えている。感覚が薄いのは、きっと冷水のせいだけじゃない。
膝が折れかける。泥水が爪先を蹴った。俺は黒い扉から目を離さなかった。扉の中心が、青黒く。青黒く、逸脱していく。
目の奥で光が弾けた。