FeverStory

最弱と嘲笑われたF級探索者が、誰も入れない第零層の扉を開ける。

第2話 零層の鍵

視界が戻ったとき、水は胸まで迫っていた。いや、正確には俺の体が膝をついていて、水面がすぐ目の前に揺れている。非正規ゲート『水没地下道』の崩落部は、さっきよりずっと暗い。

黒い扉はもう見えなかった。

「おい」

声がした。濁流の唸りとは違う、平坦で鋭い声。返事をするより早く、襟首を強く引かれた。体が後ろへ傾き、視界が泥水から離れる。背中に柔らかい衝撃。誰かの腕が腹を回し、ずるずると引き摺るように後退した。

「足、動くか」

「……たぶん」

「立て。退避路がもう塞がる」

水音を裂くように、周囲の壁が低く鳴った。小石が天井から落ちて、水面を叩く。俺は右足に力を入れて立った。左足は感覚が鈍いが、歩けないほどではない。相手は返事を待たず、俺の腕を肩に回させた。

坑道の脇に、人が一人通れるほどの穴が開いている。退避路だろう。赤い誘導灯が、そこだけ異様に明るく見えた。入る寸前、後方で大きな水音がして、壁ごと沈む音が追いかけてきた。

穴を抜けると、冷たい夜気が顔を打った。ゲート外だ。非常用の階段を上りきった先に、探索者協会の公用車が停まっていた。黒の大型車。後部ドアが開いたまま、非常灯を回していた。

俺を支えていた相手が、そこで初めて手を離した。青白い街灯の下で、長い黒髪が揺れる。皇美琴。S級探索者。俺が何か言うより先に、彼女は車の座席を指した。

「乗れ。外で話す内容じゃない」

俺は素直に乗り込んだ。疲労で足が震えていたし、彼女の言い方には有無を言わせない温度があった。シートに沈むと、急に体の重さを実感する。指先は泥水でふやけ、防水端末は折れたままポケットにない。落としたらしい。最悪だ。

美琴が反対側のドアから乗り込み、内側から施錠した。車内に外の音が消える。冷房の風が、濡れた肌に刺さった。

彼女は前を向いたまま、短く言った。

「外傷は軽そうだな。擦過傷と打撲程度か」

「……たぶん。左足がちょっと鈍い」

「医療班は後で回す。まず確認がある」

美琴がこちらを向いた。襟の詰まった黒い上着の合わせ目が、その動きで少し開く。俺は彼女の首筋を見た。鎖骨の上あたり。青黒い痕が、皮膚の内側から滲むように浮かんでいる。

その瞬間、胸のペンダントが脈打った。

一度だけ。心臓が二度目の鼓動を打つより早く、熱が鎖骨の間を走った。美琴の瞳が小さく動く。彼女は襟元を直す素振りも見せず、薄い笑みを浮かべた。

「反応したか」

「何が」

「今ので十分だ。やっぱりお前だな」

車内のモニタが、彼女の操作で淡く光る。浮かんだのは署名欄付きの書面。零層共同探索仮契約。細かい文字が流れ、末尾に俺の名前が仮入力されていた。

美琴は俺の目を見た。

「黒い扉を視認したな。お前が零層の鍵だ」

断言だった。俺は濡れた袖で頬を拭いながら、彼女の顔をもう一度見た。

「F級の俺が、なぜ」

「扉が見えた時点で等級は関係ない。見えない奴はどれだけ強くても見えない」

「お前は見えるのか」

「一度だけな」

美琴は首筋に指を触れなかった。触れたいのを隠すように、モニタへ視線を落とす。

「私も一度だけ、扉を見た。拒まれて、これが残った」

彼女が襟を指で開く。青黒い痕が完全に露わになった。火傷でも打ち身でもない。光の染みのような、輪郭の曖昧な変色。目を離せなかった。

ペンダントがまた熱を持つ。今度は止まらない。弱い波が繰り返し胸を打つようで、息が浅くなった。美琴はその変化を見て、ゆっくりとシートを倒した。

「落ち着け。念のため聞く。星羅を守る気はあるか」

「……何の話だ」

「南星羅だ。お前の記録を消した女」

俺の喉が締まった。星羅。記録管理室にいたはずの彼女が、何をしたというのか。美琴の口元が、わずかに意地悪く曲がる。

「非正規ゲートへの単独合流を、F級訓練記録に書き換えている。本人の認証で、非常用編集権限を使ってな。監査が入れば最低でも資格停止だ」

「でたらめ言うな。彼女がそんな」

「見せる。ただしその前に一つだけ返事をしろ」

彼女は端末から視線を外さなかった。指先が、星型の指輪を嵌めた自分の左手をなぞる。俺はじっと待った。質問はシンプルだった。

「星羅を巻き込むなって言うなら、その根拠を出せ」

「だから証拠を見せる」

美琴は首筋の痕へ手を伸ばし、俺の胸元へ指をかけた。ペンダントを握らせるのではなく、そのまま俺の手首を掴んで、自分の首へ近づけさせた。鍵型の先端が、痕の上で止まる。

息を詰めた。

眩暈に似た熱が指先から腕へ抜け、首筋の痕が青黒く明滅した。尾を引くように、ペンダントの鍵の形が皮膚の上へ一瞬浮かび、消える。美琴の肩が小さく震えた。

「これでわかったか。私には扉が開けない。お前のそれだけが、門と対で共鳴する」

「……だから何だ。星羅を脅す材料にしろとは」

「脅すんじゃない。取引だ。お前が契約に署名すれば、この証拠は私の記録端末の奥に留まる。星羅の改ざんは握ったままだが、協会へは出さない」

俺は手を引いた。ペンダントの熱が急速に冷えていく。車内が妙に静かだ。外のサイレンも、ゲートの残響も、全部が遠い。

「条件は」

「零層調査への同行だ。明日、浮遊庭園の非公開ゲートへ行く。お前を同伴者として登録して、黒い扉の残留物を探す。それだけだ」

「俺はF級で、探索者資格もどうなるか分からない。なのに同行できるのか」

「私の遠征権限で登録する。お前の資格は、署名と同時に一時保全する。それが契約の対価だ」

美琴が端末をこちらへ向ける。仮契約書の署名欄が、青い光で点滅している。俺は画面の文字を、上から順に追った。怪しい条項はない。少なくとも、この短時間で読める範囲には。

「星羅の処分を止めろ。向こうから何もするな。それが俺の条件だ」

「いいだろう。彼女には気づかせない」

「それと、零層の調査は俺の判断でも降りられるようにしろ。お前の命令で命は張らない」

「上出来だ。交渉ごとができるなら、無駄死にも減る」

美琴が笑った。今度は少しだけ、人間の顔に見えた。俺は画面の署名欄へ指で触れ、表示に従って声紋を吹き込んだ。仮登録の電子音が短く鳴る。

「これで一時保全だ。明日の集合は朝だ。迎えは出さない。自分で来い」

美琴が端末を閉じ、署名済み控えを手元のディスプレイへ保存した。その横で、俺の探索者資格が一時保全の表示に切り替わる。ほっと力を抜くと、体が急に冷えた。濡れた服の温度が、シートに滲みて黒く広がっている。

「……星羅は知らなくていい。お前が黙っていれば、何も変わらない」

「分かってる」

「ならいい。降りるか、このまま送らせるか。どちらでも構わない」

俺は外を見た。非正規ゲートの入口は協会の封鎖車両に囲まれ、作業員が黄色いテープを張っている。青いランプが夜の舗道を規則正しく舐めていた。

「このまま、最寄りの駅まで頼む」

「ああ」

美琴が施錠を解く。外の音が戻る。彼女は運転席に移らず、モニタに浮かぶ明日の予定を指先で一つ、丸で囲んだ。

「浮遊庭園、零層の痕跡反応が二年前に一度だけ出た。お前と私で、それが黒い扉の断片か確かめる」

車がゆっくり動き出す。俺は背もたれに頭を預け、ペンダントの名残の熱を指先で確かめた。まだ消えていない。美琴の首筋の痕が、視界の裏で青黒く明滅していた。

最弱と嘲笑われたF級探索者が、誰も入れない第零層の扉を開ける。第2話 零層の鍵