最弱と嘲笑われたF級探索者が、誰も入れない第零層の扉を開ける。
第3話 資格者の血
このまま朝まで起きている選択肢は、とっくに消えていた。体が冷えて、少しでも頭を下げれば眠り込む。それなら、美琴の車を降りてから始末をつければいい。駅まで送らせたあと、俺は自宅の最寄りで降りた。夜明け前のアスファルトは白く湿っていた。
部屋へ戻って濡れた装備を脱ぎ、シャワーを浴びる。擦過傷が湯にしみて、脇腹が赤く線を引いた。F級の俺にできる準備など、眠ることと、できるだけ落ち着いて朝を待つことだけだ。
目が覚めたのは、端末の着信音だった。美琴から、集合場所と時刻が一行だけ送られている。迎えは出さないという言葉の通り、文面には非公開ゲートの管理用座標が添えてあった。
浮遊庭園という名のゲートは、協会指定の転送施設の奥にあった。俺は係員に一時保全の仮登録証を見せて、沈黙のままゲート前へ通る。銀色の隔壁が左右へ開くと、むっとした草の匂いが肌へ張りついた。
「遅刻はしていない」
美琴は転送台の向こうで、白い外套の襟を立てて待っていた。手には記録端末。俺が近づくと、彼女は軽く顎で先を示した。
「零層の痕跡反応が出たのは、庭園中層の旧展望区画だ。二年間、動きはない」
「それでも入れるのか」
「私の権限で入る。今日のお前は同伴者として記録に残る。迷子にはなるな」
ゲートが起動する。足元の床が浮き上がるような加速のあと、視界が振り切れる。転送先で最初に見えたのは、石灯籠が並んで消えていく霧だった。庭園は傾いており、屋根のない橋がいくつも宙へ切れている。
中層へは、蔓に埋もれた階段を下りた。足場の端が崩れている箇所が多く、美琴の外套が風もないのに揺れるたび、空気の層が薄いことを知る。彼女の端末が、短い電子音を断続的に鳴らした。
「旧展望区画はこの先だ。反応は弱い。お前には、何か見えるか」
俺は首を伸ばした。霧の向こうに、崩れた東屋と、半ば宙へ浮いた石畳がある。その中央、何もないはずの空間に、黒い線が立っていた。扉というには薄い。木目だけが、空気へ焼きついたように浮かび上がっている。
「……見える。黒い扉の断片だ」
「どこだ」
「東屋の奥。石畳の上。お前には見えないのか」
「残響は記録できる。形は視認できない。二年間、反応だけが残っていた理由だ」
美琴は端末を構え、レンズを断片へ向けた。画面が靄の向こうの黒い線を捉え、解析ゲージが回る。俺は一歩、石畳の端へ踏み出した。ペンダントが鎖の下で急に温度を上げた。
「触れるな、とは言わない。代わりに教えろ。何を感じる」
「熱い。見るだけで、ここが痛い」
胸のあたりを握る。断片は、待っている。そう確信した。俺はゆっくりと階段状に崩れた石を越え、黒い線へ近づく。後ろで美琴が何か言う前に、指先が断片の表面へ触れた。
瞬間、ペンダントが唸るように熱くなった。指の先から黒い染みが広がり、断片が三つに分かれて宙へ散る。地鳴りが足下を伝わった。
「動いた。零層の残響が庭園の構造を食っている」
振り返ると、来た道の橋が音を立てて崩れた。石灯籠の列が倒れ、霧が渦を巻く。旧展望区画全体が、沈む船のように傾いていく。
「下がれ、玲人!」
美琴が配下の風を起こす。白い斬撃が崩れかかる石の梁を払った。
俺の足場が砕けた。崖のようになった石畳に、左腕をしたたかに打ちつけ、皮が裂けた。その痛みの中でも、黒い線はまだ消えず、宙へ細い網を広げている。
「断片が、あの石畳ごと持っていく……」
「止められるか」
断言はできない。だが、ペンダントの熱には向きがある。俺は血の滲む腕を上げて、散らばった三つの線の中央へ手を突き込んだ。断片が鎖の鍵型へ吸い寄せられ、耳の奥でガラスが割れるような鋭い音がした。網が一瞬で消え、傾いていた地面が止まる。
「止まった……いや、跳ねた」
足下が小さく揺れて、壁際に亀裂が走った。
美琴が後方から一気に距離を詰め、俺の襟を掴んで引き寄せる。
「無茶をするな。お前の血で反応を抑えたが、根本は消えていない」
彼女の指が、裂けた腕を圧迫テープで縛りながら、端末を開いて記録を走らせる。画面に黒い波長が保存されていく。俺は膝をついたまま、断片の消えた空間を見ていた。石畳の中央だけ、色が抜けたように灰になっている。
「記録した。協会の異常事由にも、私の権限で上げておく」
「これが、零層の残響か」
「断片だ。本体ではない。ようやく入口が見えた、それだけだ」
美琴は俺の腕を引き起こした。呼吸が荒い。二人とも無事だが、俺の左腕からは血が止まらず、応急ガーゼの外まで滲んでいた。
管理通路へ出ると、外の空気が冷たく入れ替わった。美琴が退出記録を端末へ読み込ませる。俺は止血された腕を押さえて、白い通路の壁にもたれた。
通路の奥から、等間隔の足音が近づいてくる。一人ではない。黒い服の集団が左右へ割れ、中央から壮年の男が歩いてくる。細い金縁の眼鏡。笑みは薄いが、目の奥だけ熱を帯びていた。
「久瀬迅だ。協会記録管理室の上席監査官で、零層史編纂委員の……まあ、掃除役だ」
美琴が、俺だけに聞こえるよう短く言った。
「皇さん、ご無沙汰ですね。非公開ゲートの入域、ご苦労さまです」
久瀬は柔らかい声で二人を見回し、手元の端末を掲げた。画面には、古い記録の一覧が表示されている。
「単刀直入に。当管理機構の原本保管庫から、ある非正規ゲートの潜入履歴に関する改ざん記録を回収しました。対象は、篠宮玲人さん。あなたの記録です」
俺の背が壁から離れる。星羅が操作した、あの日の記録だ。
「今日は、この処理を正式な照会へ移す前に、皇さんの判断を伺いたい。身柄と零層権益。どちらを先に片づけますか」
美琴は表情を変えなかった。だが、指先が端末の縁を押す。
「改ざんの原本を持ち出せたこと自体、記録管理室の承認なしにはありえない。お前は最初から、星羅の操作を見逃して記録を押さえていたな」
「ご推察です。南さんには、あとでゆっくり聞きますよ。彼女の担当端末から、非常用の直接編集権限が使われていました」
久瀬の後ろで、保安班が壁へ並ぶ。通路の照明が、彼らの黒い装備を青白く浮かべた。
星羅はどこにいるのか。俺は歯を食いしばる。ここで口を開けば、余計な材料を渡す。分かっている。
美琴が、半歩前に出た。
「南星羅は、私の管理下にある。手を出すな」
「皇さん。彼女の介入がなければ、この篠宮さんは回収ルートを失っていました。ですから、単純な不利益だけとは言えません。ただし、記録の書き換えは協会への背信だ。身柄か権益か」
「お前との取引には乗らない。照会なら正式手続きで来い」
久瀬が、初めて目を細めた。隣の端末から、別の表示が起きる。南星羅の記録管理室ログだ。
「では、南星羅には正式に聞きます。彼女が言い出したことなら、私の手を離れた話になりますが」
通路の端から、もう一人、小さな靴音がした。振り返ると星羅が、保安班の一人に肩を支えられるようにして立っていた。青い顔のまま、両手を前で握っている。
「……玲人」
かすれた声で、俺の名を呼んだ。
「来なくてよかったのに」
そう言おうとして、喉が詰まった。星羅は一歩、こちらへ近づく。久瀬の端末が、彼女の接近を記録するように光った。
「私が、あんたをゲートへ戻したかったの。死んでいい場所じゃ、なかったから」
彼女の目が、俺の腕の応急ガーゼを捉える。悲痛というより、怒りに近い表情だった。
「南さん。あなたご自身の言葉、記録させていただきました。では、篠宮さんの非正規潜入履歴は、あなたが改ざんしたのですね」
「そうです。私が、一人で」
星羅は、迷いなく言った。久瀬がうなずく。
「結構です。しかし皇さん、これで星羅の関与は本人の自認を得ました。ここから先は、篠宮さんの身柄と、零層の優先調査権をどうするか。お二人の返答次第です」
俺は腕の痛みを抱えたまま、星羅と並んだ。彼女が俺の背中へ、そっと手を触れる。震えていない。むしろ、熱かった。
俺は歩き出した。美琴の横を抜け、久瀬の前で立ち止まる。
「取引はしない。俺の記録をどう扱ってもいい。だが、零層の調査を他人に渡す気はない。開ける資格があるなら、開けるのは俺だ」
久瀬が、眼鏡の奥で俺を見下ろす。唇の端を歪めた。
「弟も、かつて黒い扉を見ていました」
通路の空気が止まった。美琴の指が、端末から離れる。
「久瀬、お前……」
「弟は、私に何も遺さず死にました。零層の扉に魅せられてね。だから申し上げている。篠宮さんのような資格者を、二度と一人では死なせたくない。零層は、私が開けさせる」
久瀬は端末を折りたたみ、保安班へ短く手で指示した。
「本日のところは、記録の一部を持って退きます。皇さん、賢明な再考を」
黒い集団が、通路の奥へ引いていく。久瀬が最後にふり返って、星羅へ笑いかけた。
「南さんの処分は、また明日にでも」
星羅は答えなかった。ただ、俺の腕を守るように前に出た。
三人きりになった通路で、美琴が壁を拳で叩いた。音が硬く響く。
「お前たちを守るには、今日の異常記録を私が持っている方がいい。これだけは言っておく。俺は最弱だ。それでも、零層からは逃げない」
俺の声は震えなかった。星羅が顔を伏せ、美琴が壁から手を離す。
「逃がさないわよ。私がお前を、開かせる」
美琴の口調が、初めて砕けた。彼女の端末で、零層の残響が黒い波のまま表示されている。俺は応急ガーゼの腕を押さえ、白い通路へ息を吐いた。
そのとき、浮遊庭園のゲート側壁から、黒い扉が浮かび上がった。一瞬だけ。輪郭だけの残像が、通路の壁を洗い、三人の影を横切って消えた。美琴の端末は、それを捉えて明るく点った。