FeverStory

最弱と嘲笑われたF級探索者が、誰も入れない第零層の扉を開ける。

第4話 鏡骸の先へ

消毒液の匂いが薄れ、代わりに雨の近い湿った空気が肌を撫でた。公用車の後部座席で、俺は背もたれに頭を預ける。浮遊庭園の管理通路を抜け、今は非公開上層ゲート『鏡骸樹海』へ向かう車内だ。

美琴が隣で端末を操作している。画面には、あの黒い扉の残像が波のように揺れていた。

「星羅はどうなる」

俺の声は、思ったより低く出た。美琴は端末から目を離さない。

「残響を断たない限り、久瀬は原本を盾に彼女を追い詰める。あの男、本気よ」

「わかってる。だから、行くんだ」

美琴が初めてこちらを見た。青い目が、暗い車内で照明を拾う。

「お前、腕の傷、開いてるわ。着いたら一度処置する」

「かまわない。それより、鏡骸樹海の入域は通るのか」

「私の臨時調査権で通す。非公開上層ゲートはS級の単独判断で同行者一人まで登録できる。ただし、入域記録は残る。久瀬も管理権で追ってくるわ」

彼女の口元が、薄く笑った。恐れではなく、予測が当たった時のそれだ。

車が速度を落とし、外に白い柵と照明が見えてきた。ゲート管理区画の入口だ。雨がフロントガラスを叩き始める。

「美琴、一つ聞く」

「何を」

「お前はあの残影を、どこまで信用する」

美琴は端末を閉じ、窓の外の照明を一瞥した。

「お前が見える、それを私が記録できる。その一致だけで、当面は十分よ。根拠のある一致を外れて信頼はしない」

車が止まる。運転手が振り返り、短く告げた。

「お二方、到着です」

管理区画の建物は、雨に濡れた白い箱だった。入口の照明だけが強く、周囲の木々を黒く浮かび上がらせている。

俺たちは車を出る。左腕のガーゼに雨が染みる。美琴が先に歩き、ゲート管理室の窓口へ向かった。

窓口の若い職員が、美琴のS級身分証を端末に通す。画面に、鏡骸樹海の非公開管理番号と入域条件が並んだ。

「皇美琴様、ご本人確認が取れました。臨時調査権の行使として、同行者一名の登録を完了しますが、よろしいですか」

「ええ。篠宮玲人を同行者で」

職員の視線が、俺のF級標章に一瞬止まる。

「S級探索者の派遣事由であれば、同行者の等級について特段の制限はありません。ただし、非公開ゲートの入域記録は協会監査部門へ自動送信されます。よろしいですね」

「それで構わない」

美琴が即答し、俺は端末に掌をかざした。冷たい走査光が指先を抜ける。

「篠宮玲人様、登録完了です。入域ゲートは西通路から、迷路区画へ抜ける第一関門まで自動案内があります」

職員が青い光のカードを差し出した。

その時、入口の自動ドアが開き、雨の匂いと一緒に黒い靴音が響いた。

久瀬迅だ。後ろに保安班が二人。

「ご足労でしたね。皇さん、入域の十五分前に管理権限者として私の承認が必要なはずですが」

「非公開上層ゲートの臨時調査に、管理権限者の事前承認は不要よ。事後報告で足りる」

美琴は振り返らずに言った。受付職員が端末を盾のように抱えて固まっている。

久瀬は笑みを浮かべたまま、内ポケットから折りたたんだ用紙を出した。

「結構。では、これは二人で見る時間がありませんでしたから。篠宮さん、あなたのためにお持ちしました。南星羅の改ざん記録の、原本の写しです」

「見る必要はない。俺の記録だ」

「いいえ、彼女の不正の記録です。これが私の手を離れるかどうかは、あなた方の選択で決まる。鏡骸樹海から手を引くなら、この写しは破棄する。引かないなら、南星羅を通報する。単純な話でしょう」

美琴が、ようやく振り返った。

「久瀬、お前が通報するなら原本で来い。写しで揺さぶる余裕があるうちは、まだ取引の段階だ。だから言っておく。こいつは退かないし、私も手を引かない。代償が必要なら、私の調査権を使って手続きで来い」

久瀬の細い指が、用紙の端をなぞった。

「代償、ですか。では、明日までに南星羅の身柄をお借りします。彼女が素直に話すなら、記録は公開しませんよ。ご安心を」

「星羅に手を出すな」

俺の声が、管理室の静けさを割った。職員が息を呑み、保安班が半歩踏み出す。

「脅すなら俺にしろ。彼女は関係ない」

久瀬の眼鏡が、照明を反射した。

「関係あるから言っているんですよ、篠宮さん。あなたはもう、南星羅という重りを外して零層へは行けない。それだけです」

彼は用紙を内ポケットへ戻し、職員へ会釈した。

「お邪魔しました。入域記録は、監査部門が監視しています。くれぐれもお早めに」

黒い集団が、雨の中へ出ていく。自動ドアが閉まるまで、久瀬はこちらへ背を向けなかった。

「……玲人」

美琴が俺の右腕に軽く触れる。

「入るわよ。あの男の条件を受けたわけじゃない。でも、時間は夜までよ。夜を越えたら、朝の連絡網が先に動く」

「わかった」

西通路へ進む。足音が硬い。左腕の痛みより、星羅の青い顔がよぎった。

記録管理室の照明は、消えるのを拒むように点っていた。

星羅は一人で端末の前へいた。浮遊庭園から戻り、上着を脱いだまま、画面の改ざん記録を見つめている。もう消せない。自分の認証で動かした痕跡が、久瀬の手にある。

着信音が鳴った。番号は表示されない。それでも、彼女は迷わず出た。

「南さん、お疲れのところすみません」

久瀬の声。受話器の向こうでは、雨音が続いていた。星羅は左手の指輪を、指先で押さえた。

「あの、久瀬監査官。原本は」

「私が持っています。ご安心を、まだ誰にも出していませんよ。今日は、あなたに一つだけ聞きたくて」

「……何ですか」

「なぜ、篠宮玲人の記録を改ざんしましたか。彼に頼まれたわけでも、皇さんに命令されたわけでもない。あなた一人の判断だった」

星羅は画面を消した。暗いモニタに、自分の顔が映る。

「私が、あの子をゲートへ戻したかったんです。あのまま死なせたくなかった。彼は、私が果たせなかったものを持ってる。それだけです」

声は震えていた。指輪が冷たい。

「なるほど。あなたの夢を託した、と」

「夢だなんて、綺麗なものじゃないです。私は探索者を、続けられなかった。ただ、自分が諦めた場所に、まだ行ける人間がいる。それを消したくなかった。私のせいで」

「結構です。この音声も、あなたの意図として保管されます。何かあれば、また連絡します」

電話が切れた。星羅は受話器を置き、両手で顔を覆った。記録管理室に、雨音だけが残る。

指輪の冷たさが、利き手の骨まで伝わるようだった。

鏡骸樹海の迷路区画は、言葉通り鏡だった。

霧が立ちこめ、無数の鏡面樹木が立っている。黒い幹は光を反射し、自分の像を四方向へ割った。一歩ごとに、どの道が実体か惑う。美琴の白いジャケットだけが、確かな目印だ。

「距離は短い。迷路を九回折れる。端末の残響反応が、最奥の一点を示しているわ」

「空気が、浮遊庭園と違う」

「そう。この鏡、戦闘向きの幻惑じゃない。入域者を分散させ、時間を失わせるためのものよ。だから、絶対に反射像を追わないで」

俺は足元の地面を見た。霧の下、細かい石畳が続いている。雨はない。ここは、夜を閉じ込めたような別の湿度だ。

九回目の角を曲がった時、霧が開けた。

石畳が広い円形へ変わり、真ん中に、何かが沈んでいた。いや、浮かんでいた。空間が空いている。周囲の鏡面樹木はここだけ後退し、黒い石の床が円を描いている。構造文様と呼ぶほかない、曲線と直線が混ざり合う模様。

胸元のペンダントが、急に冷えた。青黒い鍵の形。削れ痕が、文様の線と重なるように際立つ。

「美琴。ここ、夢で見た」

「……私もよ。一度だけ、拒まれた夜の光景に似てる。ここが零層の前庭。間違いないわ」

振り返ると、美琴が左首筋を押さえていた。白いアザが、青黒く色を変えている。彼女は俺の視線に気づき、手を離した。

「痛むの。黒い扉を見た、あの夜と同じ熱よ」 「扉に拒まれた、あの夜か」

「ええ。二年前。協会には、痕跡反応だけ報告した。扉そのもののことは、誰にも話していない。お前と来たのは、ここに、私が拒まれた理由があると思ったから」

彼女の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。痛みが、彼女の殻を薄くしているのかもしれない。

俺は文様へ近づく。ペンダントを、形が重なるところへ掲げた。

前庭全体が、低く鳴った。

地面の塊が、悲鳴のように振動する。文様が青く明滅し、熱さと冷たさが同時に足を駆け抜けた。

美琴が、俺の右肩を掴んで後方へ引いた。

「下がりなさい!」

足元の石畳が裂ける。円の中央から、ゲート境界が縦に割れた。深い裂け目の向こうに、黒い塊が浮かぶ。

扉の断片だった。輪郭だけの、燃えない黒。それが、裂け目の中からこちらを映していた。

最弱と嘲笑われたF級探索者が、誰も入れない第零層の扉を開ける。第4話 鏡骸の先へ