最弱と嘲笑われたF級探索者が、誰も入れない第零層の扉を開ける。
第5話 鍵の代償
ペンダントの青黒い光が、霧を透かして床の文様をなぞっていた。
冷たさはもう、指先どころか腕の骨まで染みている。息を吐けば白い。鏡骸樹海の湿度が、この円形の前庭だけ凍りついたようだった。
「反応が、座標を固定したわ」
美琴の声が、すぐ後ろで低く響く。俺は掲げたペンダントを下ろさないまま、裂け目の浮遊物を見ていた。輪郭だけの黒い扉。それが、文様の明滅に合わせて息をしている。
「最初のゲートの残骸よ」美琴が言った。「学説では否定されてる。存在しない階の、観測不能の痕跡。でも、この構造文様はそれ以外に考えられない」
「なぜ、ここに」
「わからない。ただ、お前のそれと形が合いすぎる」
彼女の指先が、俺のペンダントを一度だけなぞった。削れ痕が、扉の凹みと重なる位置で止まる。低温が一瞬、痛みに変わった。
「篠宮。二年前、私が拒まれた夜、あの扉には鍵穴がなくて、それでも鍵が必要だった。今ならわかる」
「俺が、鍵だと?」
返事の代わりに、彼女は左首筋を押さえた。白いアザが青黒く脈打ち、彼女は小さく息を呑む。
そのときだった。
前庭の縁が、外側から割れた。
機械音が、迷路区画の静寂を食い破る。四本の金属脚。制御盤を背負った大型の深入用キャリアが、鏡面樹木を粉砕しながら突っ込んでくる。その上で、久瀬迅が端末を操っていた。
「入域管理区画から二十分か。遅れたな」
彼はキャリアを停め、制御盤のケーブルを前庭の石畳へ次々と打ち込んでいく。爆発ボルトが床を穿つ音が、四つ。
「全員、その場所から動くな。これは探索者協会監査官の権限による、零層臨時開門実験だ」
「久瀬、正気か。このゲートは非公開上層指定よ。お前の権限で実験など」
「監査官の権限では、ない」
久瀬が端末をこちらへ向けた。液体のような黒い記録番号が、画面に古いフォーマットで浮かぶ。
「これは十四年前の非公認実験記録だ。被験者番号の最後に、弟の名義がある。死因欄を『ゲート崩落事故』に改ざんしてね。そうしないと、駆け出しの監査官だった私まで巻き込まれたから」
「何を、言ってる」
「零層は、開かせられる。F級だろうと鍵の資格者なら、他の誰かが開ければいい。弟は鍵ではなかった。だから死んだ。お前は違う」
彼の声は落ち着いていた。だからこそ、背筋が泡立つ。
「玲人、下がって」
美琴が一歩前へ出る。白いジャケットの袖から、鎖のような軌跡がのぞいた。
「お前の弟の話と玲人を混ぜるな。あの子は関係ない」
「関係あるさ。改ざん記録の原本はここにある。お前たちの退き方次第で、南星羅の処分が消えるかどうかも、まだ揺れてるんだ」
「汚い」
「結構」
久瀬が制御盤の主電源を入れた。
前庭全体が、耳鳴りのように震えた。文様が一斉に明滅し、裂け目の黒い扉が高い音を立てる。地鳴りが足元から腹へ抜け、視界の端が歪んだ。
美琴が駆けた。
彼女の鎖が制御盤のケーブルを一つ、二つと断つ。久瀬は止めなかった。端末の数値を見ながら、三本目の接続が断たれるのを待ってから、最後のスイッチを押し込んだ。
「何のために」
「開くためだ。その鍵で」
扉が、膨張した。
黒い輪郭が輪郭を失い、裂け目からあふれる。前庭の石畳が内側から弾け、光の筋が美琴の左肩を打った。彼女が体勢を崩す。
「美琴!」
俺は踏み出して、彼女が倒れる前に肩を支えた。左肩の布が裂けて、青黒い痣が広がっている。
「かすっただけ。それより、あれを見なさい」
彼女の指が震えていた。前庭の円周に沿って、文様が次々と剥がれていく。剥がれた床の下から、同じ青黒い光が漏れ、壁のない闇を形づくっていた。
「欠落」久瀬が言った。
制御盤の火花が、彼の頬をかすめる。久瀬は笑みを消した。
「篠宮玲人。お前の探索者適性には、本来あるべきスキル欄が一つ空欄のままだ。初期等級F。過去に再覚醒の兆候もなく、それでも黒い扉だけは視た。欠落そのものが、鍵の証明だ。弟にない何かが、お前にはある」
「だから、俺に開けさせると?」
「そうだ。拒否権はない。開門はもう止まらない」
前庭の縁が、外側から砕けて落ちていく。鏡面樹木の残骸が、奈落へ吸い込まれた。
その時、砕けた境界の向こうで、人影が揺らいだ。
少年のようで、年齢がわからない。青黒い衣をまとった人影が、裂け目の縁に立ち、こちらを透かすように見ていた。
「ロア」
美琴が息を呑んだ。人影の口元が、わずかに動く。
「篠宮玲人」
声は、床を通して聞こえた。
「おまえは鍵であって扉ではない。開く者と開かせる者を混同するな。誰かに開かされて、おまえは扉の一部になる。それは資格ではなく、代償になる」
声が途切れ、人影は境界の青い靄へ半ば消えた。
「選ぶ時間はない。扉が膨らむ前に、鍵を握るか、逃げ切れ」
俺はペンダントを握った。
冷たさが、指の形に固まる。ここで逃げても、星羅は守れない。美琴を巻き込んだまま、久瀬の思い通り開かされるのは、もっと嫌だ。
「美琴」
「何を考えてる」
「開く。俺の手で、俺のまま。いいか」
「駄目、まだ出力が」
「拒否権はないって、あいつが証明した。それなら、俺が決める」
俺は裂け目へ向かって歩いた。石畳が崩れ、一歩ごとに地面が落ちていく。文様は道を作らず、ただ消えていった。
黒い扉が、目の高さまで迫る。
ペンダントが、勝手に浮いた。
双方向から、音が消えた。
俺は引き寄せられるまま扉へ手を伸ばした。触れた瞬間、体内の何かが空っぽだと、はっきりわかった。出力が、ない。F級のまま、鍵は扉に噛み合わない。
前庭が、崩落した。
「玲人!」
美琴の手が、俺の右腕を掴む。そのまま二人、黒い裂け目へ投げ出される。久瀬の制御盤が火花を散らして傾き、彼の姿が瓦礫の向こうへ消えた。
落ちていく。
ペンダントだけが、扉と同じ青黒い光を帯びて、闇の中央で静かに明滅していた。