別れた彼が新鋭作家として現れ、担当編集の私は恋を第二幕へ引き戻される
第1話 雨宮透の筆先
印刷室から漂ってきたインクのにおいが、まだ廊下に薄く残っている。午後の小会議室はそのにおいを硝子戸の向こうに閉じ込めたように沈んでいて、水島栞は柏木修が机に広げた資料の端を指先で揃えた。空調の風が天井から静かに吹き下ろし、紙の角をほんの少し持ち上げる。栞は無意識に、人差し指の腹でそれを押さえ直した。
「大型企画の担当が、今の文芸編集部に空きはないんです。でもこの話は断れない」
柏木の声は低く、紙の上をなぞるように続いた。文芸編集部の売上がここ数年右肩下がりなのは栞も数字で知っている。新書の返品率、重版のかからない単行本、書店のフェアから外れていく自社タイトル。営業会議のたびにモニターへ映し出されるグラフが、頭の隅で小さく点滅するようになっていた。それでも、なぜ自分がこの部屋に呼ばれたのか、栞はまだうまく像を結べない。
「雨宮透、というペンネームでデビューされます。某文学新人賞の最終候補に二度残ったあと、五年沈黙。その作家がうちから長篇を出す」
柏木が封筒から原稿を取り出す。厚みのあるA4の束だった。封筒の口はきれいに閉じられていて、取り出すとき、柏木は爪先で軽く折り目をなぞってから紙束を引き抜いた。向かいの壁の時計が、秒を刻む音を小会議室の空気に落としている。
「担当は栞さんに」
栞は顔を上げた。柏木は眼鏡の縁を押し上げるだけで、感情を読ませない。
「理由を伺っても」
「適性だ」
それだけだった。機密保持誓約書が差し出され、栞は万年筆を手に取った。左の手で、指先で軽く回してから、署名欄に名前を書く。インクの黒が薄く光って紙にしみる。そのまま、指先に力を込めすぎないように、姓と名を三文字ずつ、ゆっくり書いた。
柏木が原稿の束と、専用端末に保存されたデータの入ったタブレットを栞の前に押しやった。小会議室の換気扇が低く唸っていて、空気がこもらないように循環しているのがわかる。
「著者とは来週、初回打ち合わせを組む。それまでに読んでおいて」
「編集長は」
「雨宮正体を知っている。社外秘だ。デビューの発表までは、編集部内でも他言するな」
栞は原稿の一番上の白い表紙に目を落とした。『こぼれる』。題名だけが中央に小さく組まれている。白い表紙は蛍光灯の光を均一に受け止めて、題名の二文字だけが浮き上がって見えた。
「雨宮透は、まだ誰も知らない。頼むぞ」
柏木が電話のために退室し、栞は一人で原稿を抱えて廊下に出た。腕の中の束が、重い。厚みのある紙の束は、持つ位置を微かにずらすたびに、表紙の下で原稿の終わりが重みを増しているように感じられた。
夕方の文芸編集部には日が斜めに差し込んでいた。窓ガラス越しの光が、デスクと床の上に細長い影を置いている。栞は自席で原稿をめくる。隣の席では七尾灯が営業部から回ってきた返品リストに赤を入れていて、時々ため息をつく。部内のあちこちで電話の呼び出し音が重なり、誰かが応答する声の断片が流れてくる。プリンタの稼働音が低く続き、紙の焼けるようなかすかなにおいが混ざる。
原稿の書き出しは、東京の下町にある小さな出版社に勤める女性編集者の日常から始まっていた。古い木造アパート、神保町の古書店街、すずらん通りの喫茶店。主人公は仕事に追われ、恋人との埋まらない時間を持て余している。文章は飾りすぎず、しかし細部が妙に現実的で、読み手の肌に手を触れてくるようなところがあった。栞は最初の三十ページを読む間、一度も姿勢を変えられずにいた。
栞はページをめくる手を止めた。
ヒロインが企画書を書く場面で、左手に持った万年筆を指でくるりと回す描写があった。『考えがまとまらないときの癖で、ペン先が親指の腹をかすめる。右から左へ回すのが彼女の流儀だった』。
栞は自分の左手を見る。目が覚めたら指先が動いていて、気づけば掌の上で万年筆が半回転している。右から左へ。親指の腹をかすめる。心臓が、五文字を追ううちにひとつ大きく跳ねた。
その段落を、二度読んだ。
さらに先の頁では、ヒロインが窓際で肩をすくめて電話に出ない描写があった。髪を一束だけ耳にかけ、左手で携帯を伏せる。相手の名前を見て、通話ボタンを押さない。その動作の順序まで、栞が夜の部屋で何度も繰り返してきたものと同じだった。
栞は原稿を閉じ、机の端に置いた指先をまっすぐに伸ばした。七尾灯が隣から顔を出す。
「栞、大丈夫? 顔、真っ白だけど」
七尾は原稿を覗き込んで、机の上の頁に目を走らせた。ちょうど開かれたままの、ペン回しの場面。
「それ、栞の左利きとペン回しだよね。まんまじゃん」
「……そうかな」
「今もやってたよ。考えてたとき、ペン回してた」
七尾の声が心配そうに跳ねる。栞は万年筆を机のペン立てに戻した。置いた指がほんの少しだけ震えていて、手のひらをスカートで押さえる。七尾の視線が、そこに落ちる。栞は小さく息を吐いて、口元だけで笑ってみせた。
「雨宮透って、栞のこと知ってる人なんじゃない?」
「知らないはず。デビュー前の作家の……素性までは」
「担当になる前に、なんかした? 作家の応募原稿とか、選考で関わったとか」
「五年間、文芸部門にはずっといたけど。それでも……」
栞は言葉を切った。胸の奥で小さな警報が鳴っている。考えようとすればするほど、五年の間に触れた原稿の山や名刺の束が頭の中でぼやけて重なった。新人賞の下読みを手伝ったことが、一度や二度ならある。応募作に目を通した記憶も、埃のように積み上がっている。でも、それらはすべて匿名の原稿で、書いた者の顔と結びつくはずがなかった。
「まあ、偶然かもね。左利きの女性なんて、出版社には割といるし」
七尾が自分を納得させるように言って、席へ戻る。栞は閉じた原稿の表紙を親指の腹でなぞった。『こぼれる』という二文字が、印刷のわずかな凹凸で指に触れる。
夜の自宅アパートへ戻ると、栞は原稿を机に置いた。部屋の隅に置いた観葉植物の葉が、点けた照明の下で濃い影を落としている。部屋着に着替えて、髪を一本に結び直す。冷蔵庫の麦茶を一杯だけ飲み、出力原稿の付箋を貼った頁を順に開いていく。
書き出す。ヒロインの癖と、自分の癖。
一、左利き。二、万年筆の回し方。三、電話に出ずに伏せる仕草。四、古書店街を歩く速度。五、疲れた夜に味噌汁を作る時間。
五つだった。どれも、自分を傍で見ていた人間にしか書けない。ないしは、徹底して観察されたか。三番目と五番目に至っては、実生活では柏木にも七尾にも見せたことがない。見合いの電話を無視することは、会社では誰にも話していない。味噌汁の椀から立ち上がる湯気が、狭い台所の換気扇に流れていくのを、少しだけぼんやり眺める夜の習慣も。
……誰か。雨宮透。五年沈黙して出てきた作家が、なぜ私の仕草を。心当たりを一つずつ指差しては消す。会社の元同僚、編集学校の同期、小説の応募者、大学時代のゼミの顔ぶれ。どの名前も、雨宮透という文字列にはつながらない。
携帯が震えた。机の端で画面が光り、着信の明滅が部屋の隅まで届く。昼間のあの描写が、完了するように。画面に表示された名前を見て、栞は手を伸ばしたまま止まった。『実家・母』。
着信は切れない。もう一度、同じ名前が光る。今度は短い着信音も鳴って、部屋の沈黙を細かく割った。
見合いの催促だ。ここ数週間、母は週に二度は電話をかけてきていた。相手の写真もプロフィールも、勝手に送られてきていて、机の下の引き出しに入れたままになっている。焦れているのが手に取るようにわかる。夜のこの時間に電話をかける母は、こちらが疲れて家にいて、否応なく手に取ることを知っているのだ。
栞は通話ボタンを押さなかった。左手で携帯を伏せ、原稿の表紙を閉じる。書き出した五つの項目が、白い紙の上に順番に並んでいた。その下に万年筆を置いて、部屋の灯りを消す。暗闇に変わった瞬間、窓の外の街路樹が風に揺れる音がした。
伏せた携帯が、暗がりの机の上でもう一度だけ白く光った。