別れた彼が新鋭作家として現れ、担当編集の私は恋を第二幕へ引き戻される
第2話 五年目の顔合わせ
付箋を貼った頁を比べて、これは偶然では済まない——栞はそう結論した。月曜の朝、始業前の文芸編集部にはまだ人影がまばらで、窓から差し込む光が机上の紙を白く浮かせている。栞は自宅から持ってきた雨宮透の原稿を鞄から出し、付箋の位置を順に押さえた。五つの癖。どれも本人にしか書けない。だとしたら。雨宮透は私の生活圏にいた人間だ。
七尾灯が隣に座るなり、栞の顔を覗き込んだ。
「なんか、寝てない感じ出てる」
「原稿を読み直してた」
「それ、返事になってる?」
七尾の軽い声に、栞は小さく首を振る。嘘ではない。眠れなかったのは事実だ。だがそれ以上を説明できる段階ではない。
「週末の間に、作家の正体を調べようかと思ったけど、調べられる材料がないの」
「編集部の誰かは知ってるんじゃない」
「柏木さんは知ってる。でも、あの人は言わない」
「なんで?」
「担当本人に会わせるつもりだと思う」
七尾が眉を上げた。栞は原稿を机に戻し、マグカップを手に取る。冷めたコーヒーが、喉を通る感覚だけを残した。
昼前、柏木修から声がかかったのは席で校了の確認をしている最中だった。電話越しの声は、いつもの落ち着いた調子を崩していない。
「水島さん、今日の午後一番、時間を空けられますか」
「空けていますが」
「雨宮透さんとの初回打ち合わせを入れました。小会議室に来てください」
「顔合わせ、でしたら資料を用意します」
「不要です。本人が来るだけですから」
受話器を置いた後、栞の指先が万年筆を探していた。原稿のヒロインと同じ動きだと気づき、手を膝の上に置く。七尾が何か言いたそうな顔でこちらを見ていたが、栞は会釈だけして席を立った。
小会議室へ向かう廊下で、印刷室から微かに紙の焼ける臭いが流れてくる。腹の奥が冷えるのは、打ち合わせのせいだけではない。雨宮透の正体を知る柏木が、わざわざ本人をこの社に呼ぶ。その意味を考えずに歩けない。
会議室の扉を開けると、柏木が先に立っていた。机の上に契約書類が一揃え広げてある。栞は柏木の斜め後ろに立とうとしたが、柏木は手で前方の席を指した。
「座って待ちましょう」
「私、担当の顔合わせ初めてじゃありません。大丈夫です」
「ええ。でも、今回は座っておいてください」
柏木の言葉に妙な実感がこもっていて、栞は素直に椅子を引いた。扉が閉まる。窓の外では、神保町の街並みが正午の光に白く霞んでいた。
廊下の足音が近づく。柏木が立ち上がり、扉を開けた。
「お待ちしておりました。雨宮透さん」
光の加減で、一瞬、入り口の男の顔が逆光に溶けた。背の高さと、肩の線。五年分の時間を圧縮して、栞の記憶が一気に表面へ戻る。男が室内へ一歩踏み入れる。落ち着いた灰色のジャケット、開きすぎない襟。視線がまっすぐ柏木を捉え、それから栞の方へ流れた。
綾瀬慧。
栞は膝に置いていた拳を、テーブルの下で握り直した。立ち上がりかけた身体を、太ももに手を添えて押し留める。声を出さなかったのは、出せなかったからだ。柏木が隣で「担当の水島です」と言った。栞はその言葉を追いかけるように名刺を取り出した。
「担当を務めます、水島と申します」
慧は一瞬だけ栞の目を見た。五年前と同じ、焦げ茶の瞳。けれど、その奥は初対面の他人を装うには鋭すぎる。
「雨宮透です。よろしくお願いします」
低い声が、会議室の静けさに沈んだ。栞は名刺を差し出した手を、引っ込めるのが一瞬遅れる。慧は礼儀正しくそれを受け取り、自分の名刺を返してきた。名刺には『雨宮透』の四文字だけ。本名はない。
柏木が仕切る打ち合わせは、淡々と進んだ。雨宮透としての経歴、五年の沈黙、その間も書き続けていた長篇が複数あること。今回の『こぼれる』が暁文社から出るまでのスケジュール。契約条件の大枠。栞はメモを取りながら、声が震えないよう口を引き締めた。
「広報解禁までは、作家の素性は完全に伏せて進行します。社内でも水島と私しか知りません」
「はい。それでお願いします」
慧が頷く。柏木は手元の書類を一枚めくり、蛍光ペンで印を引いた。
「契約書の署名は次回までにいただきます。本名ではなく、作家名での契約ですから、プレスリリースの都合もあります」
「了解しました」
「では、水島さん、著作権条項の確認だけ数分で構いません。私はこれから出版部と電話のため、少し退席します」
柏木はそう言うと、契約書類を順に整え、会議室を出ていった。閉まる扉の音が、やけに長く尾を引く。
沈黙が二人の間に積もる。蛍光灯の低い唸りと、隣の部屋で誰かが電話を取る声。栞は手元の資料を箱として眺め、開く必要のない頁を押さえた。慧が先に口を開く。
「久しぶり」
今度の声には、初対面用の壁がない。臆面もなく、やわらかく落ちてくる。栞は顔を上げた。
「……慧、なの」
「この名で出すことにした。五年、かかって」
「なんで」
「この原稿を、誰かに届けるには名前が要る。俺の本名じゃなくてよかった」
「そうじゃない。なぜ、私のところへ」
ペンの先が、ノートの上で止まる。指先が冷たくなって、うまく力が入らない。慧は椅子の背に身体を預け、窓の外へ視線を逃した。
「担当編集を頼めるのは、君だけだった」
「それ、答えになってない」
「今は。それでも俺には、これしか言えない」
慧が立ち上がる。栞の前で、長身がすっと遮光ガラスの前に立った。
「今日は顔合わせだから。検討してほしい。俺は君に、編集者としての水島栞に会いに来た」
「私を選んだ理由もわからないのに、引き受けろと」
「困らせるつもりはない。でも、困ってるのは俺のほうだ」
慧の声はそこで初めて、わずかに掠れた。栞の胸の内で、五年前の言葉が痺れた魚のように跳ねる。追いかけて問い詰めれば、すべて崩れてしまいそうな、薄い氷の上の間合い。
「……わかった。今日は帰って」
「返事は急がない」
「そういう問題じゃない。考えさせないで、今は」
「ああ」
慧は名刺入れを胸ポケットへ戻し、扉へ歩く。擦れ違いざま、空気がほんの少し揺れた。振り返らずに出ていく。残された栞は、開かれたままの議事録に、何一つ書き込めていなかった。
夜の自宅アパートに戻ると、栞は玄関の鍵を二度回した。部屋の明かりを点け、仕事鞄から新原稿を取り出す。書斎代わりの机の引き出しを開け、五年間手を触れなかった封筒を引き出した。宛名も書かれていない、厚手の封。中から出てくるのは、慧が大学を出る直前に「読んでくれ」と渡した、処女作の原稿だ。
それを机の上に置いた。右に五年前の原稿。左に雨宮透の新原稿。言葉の密度も、紙の質も違う。けれど、物語の最初の数行を追っただけで、同じ人間が書いたとわかる。誰よりも近くで彼の言葉を読んでいたのが自分だったと、嫌になるほど思い知る。
携帯が震えた。画面に『実家・母』。この時間の着信は、避けようと思えば避けられた。だがこの夜ばかりは、現実を一旦入れてしまおうと思った。通話ボタンを押す。
「栞? 香澄よ。今、大丈夫だった?」
「大丈夫。どうしたの」
「見合いの話。今週末、先方から正式に会いたいって。写真、見たでしょう」
「見たけど、週末は仕事が」
「仕事を言い訳にするのは、いい加減やめなさい。せっかく先方のご両親が動いてるの」
母の声が、受話器越しに少し高くなる。栞は机の二つの原稿に目を落としたまま、指先で新しい方の端を握る。五年前の処女作の表紙には、あの頃の慧がつけた題名がなかった。ただ、一枚目に『こぼれるまで』とだけ書いてあるのが、暗い部屋でも目に沁みる。
「返事は」
「今週末、受けられないなら、私がそちらへ行くから」
母が言い切る。怒りではなく、娘の生活を管理しようとする静かな断定。栞は受話器を耳に当てたまま、新原稿の中のヒロインを思った。電話を伏せて闇に逃げる女。五つの仕草。雨宮透が書いたその女は、いつもこうやって母の声に追われて、誰にも言わず飲み込んでいる。
「返事、できない」
「栞」
「今日は、本当に返事できないの。ごめん」
通話が切れた途端、部屋は元の静けさに戻る。机の上では五年前の原稿と新しい原稿が、同じ女の輪郭を挟んで向き合っていた。瞼の奥で、午後の慧の顔がまたこちらを見る。担当編集を頼めるのは、君だけだった。
その言葉の続きを知らないまま、栞は二つの原稿のあいだに指を置いた。