FeverStory

別れた彼が新鋭作家として現れ、担当編集の私は恋を第二幕へ引き戻される

第3話 五年目の左利き

机の上で、付箋が一枚だけ剥がれかけている。黄色い四角が空調の風に震えて、五年前の原稿の端を指さしたままめくれようとしていた。部屋の空気は昼の熱をまだ含んでいて、紙の匂いだけがかすかに乾いている。夜の自宅アパート。栞は立ち上がり、窓を閉める。閉めた窓の向こうで、大通りの車音が急に小さくなった。

電話は切れたあとだった。画面はもう暗い。『実家・母』の文字が消えるまで、栞は通話終了の表示を指でなぞった。指先にまだ端末の熱が残っていて、それが母の声の名残のように感じられる。通話履歴には、母の番号が三日に一度の間隔で並んでいる。

「今度こそ、返事をしなくちゃ」

声に出して、自分で返答のないこととを受け取る。部屋の静けさが、その言葉を思ったより深く飲み込んだ。今日は無理だ。こんな夜に話し合っても、母の求めに折れるだけだ。けれど母はまた、そう遠くないうちに架けてくる。そのときの自分を想像して、栞は小さく息を吐いた。

机に戻ると、付箋を貼り直す。椅子が後ろへ引かれたままで、座面の温さが戻ってくる。剥がれかけていたのは、雨宮透の既刊『灯す』の一節だった。ヒロインが電話を伏せ、万年筆を指で回してから原稿へ向かう場面。傍らに書き込んだ自分の文字が、些細な震えを残している。付箋の角は折れて、糊の跡には埃がうっすらとまとわりついていた。

「左利き、万年筆を回す、電話を伏せる。それだけなら、まだ偶然で通せた」

違う。こうして既刊を三冊、読み返して確信している。ページをめくるたび、別の物語のはずの女たちが、同じ癖で呼吸を始める。登場する女性たちは全員、利き腕の使い方も、迷ったときの指先の癖も、同じだ。水島栞という一人の女を、角度を変えて写したものだ。背筋のあたりがざらつくような、奇妙な肯定だった。

「何がしたいの」

新潮文庫サイズの白い表紙に、その問いが吸われる。答えはない。照明に照らされた紙面は、どこまでも平坦で、こちらの不安を跳ね返してくる。栞は携帯を見た。今度は自分から、番号を探す。名刺には『雨宮透』としか書かれていない。打ち合わせのときの、あの低い声を思い出す。耳の奥で、それは今も小さく震える。五年という時間を挟んでも、声の輪郭だけは捨てられない。

『担当編集を頼めるのは、君だけだった』

だったら、聞きに行くだけだ。部屋着のままではいられない心地になり、栞はクローゼットへ歩く。吊された服の裾が、開けた扉の風に揺れた。明日、会社に顔を出してから時間を作ろう。面会を求める。喫茶店がいい。彼の仕事部屋へ行くのは、まだ怖い。あの部屋の匂いや光まで思い出してしまいそうで、足がすくむ。

携帯を手に、通話ボタンを押しかけて止めた。今夜は、寝よう。声を聞いたら眠れなくなる。それは自分が、五年たっても彼の声を知っているからだ。

翌日の昼、神保町の喫茶店「猫柳」はランチの客が引き始めるころだった。店内にはコーヒーの焦げる匂いと、古い木の椅子の油の匂いがゆるく混ざっている。栞は奥の二人掛けに先へ着き、水のグラスを左側へ置いた。右の席は空けてある。編集者として相談があると短く電話し、慧は「わかった」とだけ答えた。その短すぎる返事を、来る途中まで何度も頭の中で反芻した。

店の扉が開く。軽いベルの音のあと、長い影が床を渡ってくる。黒のシャツに、薄い上着。外の暑さを背負ったまま、彼は静かにこちらへ近づいてきた。顔を合わせるなり、慧はわずかに眉を下げた。

「来たよ」

「座って。注文は済ませましょう」

栞は手を上げて店員を呼び、慧はアイスコーヒーをひとつだけ頼む。氷の落ちる音が、二人の間を通り抜けた。

慧は水を一口含み、栞の前に置かれた既刊の束を見た。三冊。付箋がいくつも飛び出している。目元だけで、彼は何かを察したようだった。

「読んだんだ」

「ええ、全部。雨宮透の書く女は、みんな同じ左利きで、迷うと万年筆を回す」

慧の指が、グラスの結露をなぞる。その指の先から、水滴がひとすじ机へ降りた。

「それで?」

「ヒロインは全部、私か」

店の奥で、誰かがカップを戻す音がした。そのあとの沈黙が、白いテーブルの上に積もっていく。慧はしばらく黙り、それから真正面から栞を見た。五年前、同じ距離で見た目。けれど今日のそれは、笑っていなかった。

「そうだ」

慧の声は低いまま、店の喧騒に染まらなかった。栞は手元の付箋を一枚だけ押さえる。指先が紙の上に落ちる。心臓の音は、耳のすぐ裏まで届いていた。

「モデルになってる女に、担当編集をやれと?」

「編集者としては、そのほうが頼めると思った。君以上に、あの小説の質に厳しくなれる人間はいない」

「私を選んだのは、小説のため?」

「仕事として、だ」

慧の答えに、栞はしばらく自分の手元を見た。水のグラスには触れない。指を組む。呼吸がひとつ深くなる。あの五年の沈黙に、今ここで踏み込むのは違う。まだ無理だ。けれど引き返すのも、もうできない。この三冊を読み返した夜が、背中を押している。

「担当は降りない」

慧の視線が、ほんの少し動く。その動きに、五年前よりずっと正直な迷いが見えた。

「仕事として、小説と向き合う。それでいいなら、私はやる」

「……本気か」

その言葉には、確認する以上の温度があった。

「今度は私が、逃げないだけ」

言い切った声は、思ったより静かだった。けれど喉の奥は熱く、水を取る手がまだ動かなかった。栞は鞄から手帳を取り出し、来週の打ち合わせ日を指定する。

「この日ならどう。午後、会社の会議室を取るわ」

「ああ。空けておく」

「決まりね」

二人は勘定を分けた。レジ前で会計を済ませる間、慧の横顔を盗み見たが、彼はずっと黙ったままだった。店を出た慧は、西日の中を少し迷ったあと「仕事部屋へ戻る」と短く言い、靖国通りを歩いていく。栞は角のガードレールに手を置き、その背が小さくなるまで見送る。照り返しが、腕と首筋を刺すように熱い。決意を口にしたあとの体は、思ったより軽い。けれど胸の奥には、砂粒のような痛みがまだ残っている。

自宅に着いたのは、夜の八時に近かった。玄関を入ると、昼間に閉めた窓のせいで空気がこもっている。靴を脱いだところで、携帯が震える。画面に『実家・母』。栞は居間へ入り、電話をサイドテーブルへ置いたまま着信を見つめる。出られるときに出よう。母の声を聞くには、まずやることがある。バイブレーションが木の天板を小刻みに叩き、そのたびに胸がすくんだ。

書斎の机。五年前の処女作原稿が、昨日のまま封筒から出ている。栞はそれを両手で持ち、表紙の『こぼれるまで』に触れた。紙は黄ばんで、以前より少しだけ軽く感じる。彼が二十代の終わりに書いた、未発表の物語。今の雨宮透の原点。これを預けたときの慧は、何も言わなかった。あの沈黙こそ、彼の切実さの証明だった。

着信がまた画面を明るくする。母は二度、三度と架けてくる。栞は画面を伏せた。見合いの返事は、まだ出せない。出せないと伝える勇気さえ、今は仕事の方へ使いたかった。この机の上で、過去と決着するまでは。

「今度こそ、逃げない」

原稿の表紙に手を置いたまま、栞は声に出した。

携帯の明かりは、伏せた画面のふちから零れて畳を薄く染める。五年前の文字と、今夜の着信とを机の上に置いたまま、栞は動かない。

別れた彼が新鋭作家として現れ、担当編集の私は恋を第二幕へ引き戻される第3話 五年目の左利き