別れた彼が新鋭作家として現れ、担当編集の私は恋を第二幕へ引き戻される
第4話 伏せられた画面
「……出ないと、また明日も同じよ」
母の名前を光らせた画面は、伏せたまま音を立てなくなった。居間の畳に薄い灯りが落ちる。栞は書斎の机へ戻り、雨宮透の既刊を二冊、五年前の処女作原稿の横に並べた。付箋の端が丸まって、ページのあちこちから淡い黄がのぞいている。
左利きの女。迷うと万年筆を指で回す癖。雨の夜に窓を開ける習慣。朝、砂糖を入れずに牛乳で割る珈琲。どれも自分だと叫んでいた。栞は既刊の文庫を開き、赤い付箋を貼った頁を指でなぞる。読み返せば読み返すほど、それは偶然という言葉で片付けられる量ではない。
「こんなの、モデルになってくださいと頼まれた覚えもないのに」
声に出すと、怒りより先に熱が目許へ届く。栞は唇を結び、処女作原稿の表紙『こぼれるまで』に視線を落とした。五年前、慧から借りたままの原稿。これを返せなかった時点で、自分は彼を過去にできていなかった。決意は軽くなるどころか、明日以降もこの感情と仕事を続けろと体を強張らせる。
朝まで眠れないまま、栞は原稿と既刊を机に残して支度を整えた。出社の準備というより、何か行動しなければ座っていられなかった。髪を低く一本に結び、オフホワイトのブラウスを着る。鏡の前で頬を二回叩き、家を出た。
暁文社は朝の清掃が終わったばかりだった。床のワックスが湿った匂いを廊下に漂わせ、文芸編集部の島々はまだ人影が少ない。栞は鞄を自席に置くと、柏木修の机へ向かう。彼は企画書を広げ、赤いペンで余白に数字を書き込んでいた。
「柏木さん、お時間をいただけますか」
「朝から改まってどうした」
「旧資料室で少し。人に聞かれたくない話です」
柏木はペンを置き、表情を変えずに立ち上がった。背広の袖を通った空気が、わずかに冷たく感じる。二人は廊下を曲がり、鍵の掛かっていない旧資料室へ入る。書棚の埃が、朝の光の中で細かく舞っていた。
「単刀直入に、お聞きします。雨宮透が綾瀬慧だということを、ご存じで私を担当にしたんですか」
栞の声は、思うより低く張りがあった。柏木は腕を組み、窓の外を一瞥する。
「知っていた。ここでなら、そう答えられる」
「なぜ、私に」
「売れる本を作れるから、としか言いようがないな。綾瀬慧の過去とお前が無関係なら、わざわざ指名はしない。お前はあいつの小説を、読者の誰より正確に読む。既刊を一晩で読み込んで来ただろう」
「それは、私情を仕事に持ち込むなという編集部の不文律に反しませんか」
柏木は小さく息を吐いた。笑みではなく、侮りでもない表情で、栞の目を見て言う。
「私情を持ち込むな。だが、私情を知らないふりをして担当を外すのは、お前自身が五年前から逃げてきた証拠でもある。お前はどうする」
「担当は続けます」
「いい顔だ。では、方針の主導権はお前にある。ただし、雨宮透の正体は社外秘だ。これまで通り、私とお前しか知らない」
「社内でも、柏木さんと私だけということですね」
「広報解禁まではな。営業も他編集者も、必要になったときに初めて動かす」
柏木はそれだけ言うと、旧資料室の扉を開けた。廊下の明かりが入り込み、埃の粒が一層激しく舞う。
「戻れ。お前は今日から、あの原稿の担当として顔を作れ」
「……はい」
栞は背筋を伸ばした。認めてもらった安心とは違う。むしろ、自分が二度と逃げられない場所に置かれた感覚が、呼吸を少し浅くさせる。
編集部に戻ると、柏木は自席で企画書をめくっていた。栞はデスクの椅子を引き、パソコンを立ち上げる。そのとき、鞄の中で携帯が震えた。画面には『実家・母』。三度目の着信ではない。もう五度を超えている。栞は受話口に耳を当て、小さく息を吸った。
「もしもし、母さん」
「やっと出た。何度も掛けたのよ。週末、空けてあるんでしょうね」
声は明るいのに、逃がさないという圧がある。栞はキーボードの上で指を止めた。
「週末って、急に」
「長谷部さんのお宅が、ぜひ一度会いたいって。お父様が地元の信用金庫で役員をなさっていて、お相手の篤さんは東京で社労士をしているの。落ち着いた、しっかりした方よ」
「見合いの返事、まだするって言ってない」
「五年前も今も、あなたの将来を思っての助言よ。この話、悪いようにはしないから」
五年前、という言葉に、電話を握る手が強張る。栞は声を詰まらせずに聞いた。
「五年前、慧さんと別れる直前に電話をくれたでしょう。あれ、いつだった。私、あの電話の日付をどうしても思い出せなくて」
母の声がぷつりと途切れた。受話の向こうで、換気扇か湯を沸かす音だけが遠くに聞こえる。
「……昔話でしょ。それより週末よ。長谷部さんは土曜の午後に会いたいって」
「だから、日付だけ」
「関係ないの。今のあんたに必要なのは、ちゃんとした人と先へ進むこと」
香澄はそれ以上、五年前の電話を口にしなかった。栞の問いには答えないまま、土曜の午後二時に東京駅近くの料亭で、と一方的に告げる。返事をする代わりに、栞は「考えます」とだけ伝えて通話を終えた。
デスクに置いた携帯。画面が徐々に暗くなり、黒い鏡のように天井を映す。母は日付を避けた。内容も、何を言ったかも。それが意味することに、栞はまだ名前を付けられない。付けないことで今日の仕事を守った。
夜。神保町の明かりが眠り始める時間に、栞は「枇杷茶房」の奥の二人掛け席へ座っていた。古い木のテーブルに、担当資料のコピーを広げる。今日一日で、母に、柏木に、それぞれ問うた言葉が重く体に残っている。
カウンター側から、スプーンが皿に当たる軽い音。顔を上げると、七尾灯が四席ほど離れた場所で携帯を覗き込んでいた。茶色いマグカップの縁に手をやりながら、画面を両手で持ち、親指を滑らせる。短い文を打つと、彼は店の外へ出ていった。ガラス越しに、夜の歩道で画面を見つめる横顔が見える。
「遅くまで仕事?」
戻ってきた七尾が、注文の追加を済ませてから席の近くに来た。笑い方に普段の気安さがあるが、栞は脱ぎかけの靴の先を見た。
「そう。七尾こそ、仕事とは思えない時間よ」
「うん、まあ。大学の同級生と少し。昔の知り合いって、夜に連絡してくるのよ」
七尾灯は自分のスマートフォンを、持ち上げたまま画面を下にして木のテーブルに伏せた。話をこれ以上広げない、という仕草がはっきりと見えた。栞はそれ以上、何も聞かなかった。深夜に伏せられた画面が、熱を持つ前の薄い手のひらの形で残る。
店を出る時、夜風が首筋を撫でた。神保町の狭い路地を抜ければ、帰りの電車はもう空いている。
自宅へ帰り着くと、栞は玄関の鍵を閉めてから、すぐに服を着替えた。書斎の机の上、既刊と処女作原稿が朝と同じ場所にある。畳の隅で充電のランプが赤く点っていた。
携帯を手に取ると、未読メッセージが一件。差出人は『綾瀬慧』という、五年の間、一度も開かなかった名前だった。
「明日、五年前の話をしたい。君が逃げないなら、俺も本音を話す」
画面の明かりが、手の甲を青白く沁ませる。返事を打つ指が、文字盤の上で止まった。何と打てばいいのか、どの言葉が今の自分に許されるのか。五年前の分、仕事の分、今夜のすべてが喉の奥で熱くなり、胸に沈む。
栞は携帯を机の端へ置き、消えかける画面を最後まで見つめていた。