別れた彼が新鋭作家として現れ、担当編集の私は恋を第二幕へ引き戻される
第5話 原稿を挟んだ本心
夜。自宅の書斎で、栞は消えかけた携帯の画面を伏せた。返信は打たず、着替えてからもう一度だけ画面を確かめる。未読のままの名前が白く浮いていた。明日、五年前の話をしたい。その一文が、胸の奥で小さく繰り返す。
だが、その前に確かめることがある。
七尾灯が画面を伏せた仕草。大学の同級生と言いながら、相手を「昔の知り合い」と言い直した夜。あれが慧なら、今日のメッセージの前から連絡は続いていたことになる。
栞は薄手のカーディガンを羽織り、携帯だけを持って玄関の鍵を開けた。深夜の住宅街は湿った空気が肌にまとわりつく。駅へ向かう道すがら、七尾に短く打つ。
「今から少し会えない。人に聞きたいことがあるの」
返信はすぐに来た。
「枇杷茶房の近くの公園にいる。五分で着く」
夜の公園は街灯が二本、鉄棒とベンチを照らしている。七尾灯はベンチに座り、缶コーヒーを両手で包んでいた。栞の足音に顔を上げ、微かに笑うが、目は笑っていない。
「遅くにごめん」
「いいよ。どうせ眠れそうになかったし」
七尾は隣を軽く叩く。栞は座らず、街灯を背に立ったまま口を開いた。
「今夜、慧から連絡があった。五年前の話がしたいって」
七尾の指が缶の縁をなぞる。その沈黙が、答えの半分だった。
「七尾、あの夜に見たメッセージ。相手は慧でしょう」
「……そうだよ」
七尾は缶をベンチに置き、太ももの上で両手を組んだ。指を一度、強く絡めてから解く。
「慧とはずっと連絡を取ってた。あいつが雨宮透として書いてることも知ってた。黙っててごめん」
「いつから」
「大学の時。お前たちが別れた後も、たまに。ここ数年は頻繁になってた」
「私の何を話してたの」
七尾は顔を上げない。ベンチの下に伸びる自分の影を見つめたまま、低い声で続ける。
「仕事の調子とか、ちゃんと飯食ってるかとか。そういうの。お前の近況を聞かれて、知ってる範囲で答えていた。あいつ、お前に何かしてほしいわけじゃなくて、ただ気にしてた。それだけは信じてくれ」
「それだけって、どれだけの回数」
「……数えてない。でも、あいつが自分の近況を話すことはなかった。いつもお前の話だった」
七尾の声が少し擦れる。隠していた後ろめたさではなく、別の何かが込み上げているように聞こえた。
「なんで私に言ってくれなかったの」
「言えるわけないだろ。お前は慧の担当になってなかった。それに、あいつも止めた。知られたら迷惑だって」
「私が知らなかったことが、一番迷惑だった」
七尾が初めて顔を上げる。暗がりの中の目が、街灯を反射して光った。
「今さらだよな。でも、今夜お前がここに来たってことは、もう逃げないんだろ」
「逃げない。話をしに、行く」
「そうか」
七尾は立ち上がり、ベンチに置いた缶を持つ。空だった。指先で軽く揺らすと、残りが鳴る。
「慧はさ、五年前も今も、お前に会うのが怖いんだと思う。でも、会いたいんだよ。だから俺なんかに連絡してくる」
「ありがとう、七尾」
「礼を言われることじゃない。むしろ黙ってて悪かった」
七尾は小さく頭を下げ、背を向けて歩き出した。帰宅途中のコンビニの袋が、無人の横断歩道を渡る影に揺れる。栞はその後ろ姿を見送ってから、反対方向へ歩いた。母に電話をかけるなら、今しかない。駅前の公衆電話の前で、迷ったのはほんの一瞬だった。
朝五時半。世田谷の実家は雨戸が半分開いていた。呼び鈴を二度押す。しばらくして香澄が、寝室着の上に薄いガウンを羽織って顔を出した。
「どうしたの、こんな朝に。事故か何か」
「事故じゃない。話があるの。母さんと二人で」
居間に通され、冷たいお茶を出される。香澄は向かいに座ると、膝の上で手を重ねた。化粧をしていない顔は、記憶にあるよりもずっと小さく見える。
「五年前、私が慧と別れた理由に、母さんの電話が関係してる」
「何を急に。昔の話でしょ」
「私は四話前からずっと、その昔の話に追われてる。あの日、母さんは私に何を言ったの」
香澄は湯飲みに口をつけた。薄い唇が縁に触れ、茶を少しだけ含む。その間に、部屋の空気が止まる。
「今言ったでしょう。あなたの将来を思っての助言よ。あの子と一緒にいて、あなたの人生がよくなるとは思えなかった。それだけ」
「日付を教えて。私が慧と別れたのは何日だったか」
「そんなの覚えてないわ」
「母さんは電話をかけた日を避ける。昨日も、今日も。内容は繰り返すのに、日付だけは話せないのね」
香澄の手が、ガウンの襟元をぎゅっと握った。
「だから何だっていうの。昔の電話の日付が、今のあなたに必要なの」
「必要。私はあのとき、何に揺れたのか知りたい。慧がどうして何も言わずに身を引いたのかも、たぶんその電話の周りにあることよ」
「水島家の娘が、売れない人の担当だの昔の男のことだので振り回されて。お見合いを断る理由になるというなら、その話こそ聞かなかったことにしなさい」
香澄は立ち上がり、台所へ歩く。湯飲みを流しに置く音が、割れるように響いた。
「お見合いの返事はまだ保留する。でも、今日はそれより、あの電話のことをはっきり言ってほしい」
「言ってるわ。助言よ。それ以外に何があるの」
「日付」
香澄の背が止まった。蛇口から水が一滴、流しに落ちる。次の言葉が来る前に、栞は立ち上がった。
「話す気がないならいい。私の勘が正しいか、慧に聞くから」
「勝手になさい」
香澄は振り返らずに言った。栞は玄関へ回り、靴を履く。扉を閉める直前、母親の口元が何かを言いかけて、やめた気配があった。
自宅に戻った栞は、書斎へ直行した。畳の隅の赤いランプはもう消えている。机の上に並べたままだった既刊三冊と、五年前の処女作原稿。『こぼれるまで』。表紙のない裸の原稿を、そっと鞄へ入れる。角が折れないよう、クリアファイルに挟んでから。
携帯を取り出し、慧に返信する。文字盤に指を置いて、迷わず打った。
「今から会える。場所は枇杷茶房。原稿を持っていく」
送信する。既読がつくまで、三秒。返信は短かった。
「待ってる」
閉店間際の枇杷茶房は、客が慧と栞の二人だけだった。カウンターの店主が、奥の座席を見ないふりでカップを拭いている。入り口の鍵はまだ開いていた。
慧は奥の二人掛けに座っていた。手元には水のグラス。栞の足音で顔を上げ、目だけで「座れ」と促した。
向かいに座る。鞄から原稿を取り出し、テーブルの真ん中に置いた。五年間、家の机で眠っていた原稿。慧の眼差しが、その題名をなぞる。
「これ、ずっと持ってたのか」
「返せずにいた。あなたが消えたから」
慧の手が、原稿の端に触れる。感覚を確かめるように、紙の重みを持ち上げた。
「これを書いた時、まだお前がいた」
「今もいる。あなたの小説の中に、私を書くくらいには」
慧が小さく笑う。口元だけの、苦い形だった。
「それ、気持ち悪いと思った?」
「思わない。嬉しかった。でも、その前に聞きたい。どうして五年前、私の話を聞かずに身を引いたの」
慧は長い指を組む。かすかに、左手首で細い革のブレスレットが動いた。黒のシャツの袖口から覗いたそれを、栞は見た。見たが、今はまだ問わない。
「お前の母親から聞いた。お前が、俺と一緒にいる将来を不安がって泣いてるって」
「泣いてた?」
「そう聞いた。俺はあの時、何も持ってない学生で。これから食っていける保証もなかった。お前が夜に泣くの、知ってた。隣で寝てる時に、目が覚めて気づいてた」
「私は泣いてない。不安だったことは認める。でも、泣くほどじゃない」
「電話の後のお前は、ずっと静かだった。何聞いても曖昧に笑うから、そういうことかと思って」
「私はあなたに聞いてほしかった。『別れたいなら別れよう』じゃなくて、『別れたくない』って言ってほしかった」
慧の指が止まる。二人の間に置かれた原稿の上で、互いの手が近かった。
「言えなかった。ちょうど賞に落ちた後で、未来の話をされるのが一番怖かった」
「それで、書いたの。私をモデルにした小説を」
「そうだ。書いてる間だけ、力を取り戻せる気がした。お前がモデルだって言ったら、出版社は止めるって言った。それでも書いた。謝る気はない」
「謝らなくていい。私も、あの電話の後から何も言わなかった」
「お互い、話さなかったよな」
慧が手を伸ばし、机の上の原稿を二人の真正面に置き直す。紙の端が揃っていない。五年前、彼が書いたままの姿をしていた。
「この原稿、二人で最後まで読み直すのを付き合って」
栞の声が、少し震えた。自分の本心を口にしたのは、五年で初めてだった。
「仕事としてか」
「編集者として。それから、私が読みたいから」
慧は黙って、左手を原稿の上に置いた。その手に、自分の手を重ねることまではしなかった。代わりに、栞も右手を紙の端に置く。二人の体温が、古い紙を挟んで向き合う。
「ここからだな」
慧の声は低く、静かだった。カウンターの奥で、店主が最後の食器を片づける音だけが、閉店間際の店内に響いていた。