毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、毒杯を拒んで生き延びる
第1話 紫の誓い
「こちらへは、参られませんよう」
リゼリアの声が、神前の間に凜と通った。
夜明けの光が格子窓から斜めに差す戴冠式場で、二人の巫官が差し出した金の盆の上に誓いの杯が据えられている。無色の液体が、揺れもしなかった。列席者の衣擦れが止まり、誰かが息を呑む。白絹のローブの袖からリゼリアは左手を差し出した。指先に握っているのは、胸元に留めていた月虹石の飾り。銀の留め具が解かれて、淡く虹を宿す石が杯の縁へゆっくりと触れる。
その瞬間、杯の中が紫に染まった。
薄い藤色が、底から立ちのぼるように液体へ広がっていく。
「毒ですわ」
リゼリアは杯から手を引く。声に震えはなかった。指先だけが、白く冷えていた。心臓が耳の裏で脈を打つ。ここで死んだ。あの朝、あの杯に口をつけて。けれど今、唇はまだ乾いている。
「この杯、どなたにも触れさせないでくださいまし」
リゼリアは半歩下がり、杯と列席者の間に背を向けるように立った。カイルクスが御座から立ち上がる。黒の礼服に銀の肩章が朝陽を受けて光った。
「杯と婚姻を混同するではない。まず、その変色を確かめねばならん」
カイルクスの声が低く広間へ落ちる。リゼリアを見た。菫色の瞳と視線が合う。何かを問うような目だった。リゼリアはその視線を正面から受ける。前の人生では、まぶしくて伏せた。
「月虹石が触れて紫に変わるもの。ご存じかどうか、典礼官ならばお答えになって」
リゼリアが言うと、祭壇わきの老いた典礼官が一歩出た。
「はっ。月虹石は『夜蜜』にのみ触れると紫変すると伝わりますが、現物をこの目で見た者は」
「では、正式な検めを。ここで」
リゼリアは言い切った。しんとした。式場の空気が張り詰める。そのとき、列席者の最前列から足音が飛び出した。
「下がりなさい、皇后様! その杯はわたくしが」
マグダ・ルーヴェルが裾を乱して祭壇へ駆け寄る。杯へ両手を伸ばした。リゼリアは床を蹴る。体ごと杯とマグダの間へ割り込む。マグダの指先がローブの銀糸に触れて止まった。
「お触れになっては。証拠が汚れますわ」
リゼリアの背筋が伸びる。マグダの顔が三十センチの距離で強張った。唇が紫に染まった杯を見つめ、それからリゼリアの瞳を見る。指が、空気を探るように震えている。
「触れるな」
カイルクスの声が頭上から降った。重く、許さぬ響きで。マグダがびくりと肩を揺らし、後退る。カイルクスが片手を上げる。
「近衛総監」
その一言で、祭壇脇から短剣を帯びた痩身の男が進み出た。アレクシス・ヴァルツ。面立ちは鋭く、口元を一文字に結び、列席者へ向けて横に立つ。
「式場内の全員、境界の三歩から先へ下げよ。杯に近づく者は名前を問わず拘束せよ」
アレクシスが一礼し、衛士たちへ短い指示を飛ばす。ざわめきが波のように広がる。立ち上がりかけた貴族たちが、押し戻された。マグダは青ざめて、自らの両手を握りしめたまま祭壇の外へ下がっていく。
「宮廷医ケイウスを呼べ。封印容器と未洗浄のまま保存する。朕が開封するまで、何人にも触れさせぬ」
カイルクスが命じると、小姓が走った。リゼリアは動かない。杯の横に立ち、月虹石の飾りをもう一度ローブの胸元へ戻した。留め具を押し込む指が微かに跳ねる。それでも手は止めなかった。
「毒と、お断じして?」
最前列から、女の声が上がった。リゼリアは振り返らない。もう覚えている声だった。
「誰が見ても石が変わっただけ。毒と決めるには、早くありませんこと」
皇太后セレスティーヌ。紫の喪服にも似た重い衣を着て、玉座の斜め後ろから進み出る。微笑んでいる。けれど目の下の肉が強張っていた。
「ゼリウス神の御前で、その石を杯へ勝手に触れさせることこそ無礼。狂言でないと、誰が……な」
「おっしゃる通り、この石の変色を毒と断じるには、私一人では足りません」
リゼリアはセレスティーヌへ向いて、ゆっくりと首を振る。声は澄んでいた。
「ですから、公開の再検証を願いますわ。この神前で。同じ杯を宮廷医局が調べるまで、一切封を移さず、誰にも触れさせず」
リゼリアはカイルクスへ視線を戻した。前の人生では、セレスティーヌの言葉に遮られて、うつむいた。あの朝、杯に口をつけたのは、この瞬間をやり過ごすためだった。けれど今は。
「狂言ではない証拠が、この紫にございます」
静かな声が広間を満たす。カイルクスが一歩、祭壇へ近づいた。リゼリアの隣ではなく、杯を挟んだ正面へ立つ。
「宮廷医局で分析させる。杯はケイウスに預け、封印容器ごと保管庫へ運ぶ。セレスティーヌ、これが証拠であるかは神ではなく、朕が裁定する」
「己の、婚姻の杯を……」
セレスティーヌが口を開きかけた。
「分析の結果、無害と出たならば戴冠を続行する。しかし毒と出たならば、この戴冠は最初から仕切り直しだ」
カイルクスの断じる声に、セレスティーヌは唇を引き結んだ。それ以上は言わず、脇へ退がる。リゼリアは小さく息を吐いた。胸の内側が冷える。うまく、呼吸ができている。
ケイウス・モランが白い手袋をはめて祭壇へ進み出たのは、ほどなくだった。若い宮廷医は無言で杯を見下ろし、それから蓋つきの封印容器を差し出す。銀色の内張りが鈍く光った。
「誓いの杯、未洗浄のまま封印いたします」
「残液も一滴残らず保存しろ」
「承知」
ケイウスは盆ごと杯を持ち上げる。リゼリアの横を過ぎるとき、一瞬だけ目を見た。口の端が、何かを言いかけてやめた。そのまま神前の間を下がっていく。杯が遠ざかる足音が、やけに長く響いた。
「アレクシス。貴族たちを通すな。式場を閉じよ」
カイルクスが命じ、アレクシスが動く。式場の扉が左右から閉ざされる。外のざわめきまで押し込められて、神前の間は急に静かになった。残ったのは、わずかな女官と近衛の数名。マグダは祭壇から離れた柱のそばで、顔を伏せて立っている。
「リゼリア皇后」
カイルクスが振り向く。人払いのあとの声は、いくぶん低く、近かった。
「なぜ毒と断じた」
リゼリアはカイルクスを見上げた。前の人生で、まともに見られなかった顔だった。濃灰色の瞳。黒に落ちる短い前髪。顎から首へ走る線が、朝の光の中で硬質に見える。
「月虹石が、答えですわ」
「月虹石の変色を知っていた、と言うのだな」
「ええ。知っておりました」
それ以上は何も言わない。回帰を語るつもりはない。語って、何が変わるとも。ただ。
「私を狂言者として、牢へ送られますか」
リゼリアの声は平坦で、それでも自分でも驚くほどはっきりしていた。カイルクスの眉が、わずかに動く。
「牢だと」
「毒を騒ぎ立てた皇后など、戴冠を妨げた咎で。皇太后さまはそう仰るでしょう」
リゼリアはセレスティーヌが退がったあたりを見ない。見る必要はない。もうわかっている。
「朕は、お前を死なせぬ」
カイルクスの声が落ちた。それは命令のようで、誓いのようでもあった。リゼリアの指先から、床へ小さな雫が落ちる。汗だった。冷たい。
「あの杯に何が入っていたか、朕が自ら確かめる。だから、お前はこれ以上、一人で前へ出るな」
「陛下こそ、二つの婚姻儀礼の前でお独りには」
リゼリアは言うと、口を閉じた。言い過ぎた。それでも心臓は、先ほどよりも静かに打っていた。カイルクスが、リゼリアの右手を見る。薬指の古い火傷の跡。その視線に、リゼリアは僅かに指を引いた。
「皇后宮の私室へ移れ」
カイルクスが、声を戻した。人払いの前の、皇帝の声で。
「近衛の護衛をつける。朕が帰るまで、扉を開けるな」
リゼリアは、少しの間カイルクスを見つめた。この人も、前の人生では杯を渡した人。けれど、あの朝も今も、この人は目を逸らさない。
「承知しましたわ」
リゼリアは胸元の月虹石の飾りを握った。石の角が手のひらに食い込む。冷たい石が、じわじわと体温を吸っていく。生きている証拠のようだった。
「では、お戻りをお待ちしております」
リゼリアは一礼し、背を向けて神前の間の奥へ一歩踏み出す。閉じた扉の向こうで、式場を追われた貴族たちの声が低くうねっていた。