FeverStory

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、毒杯を拒んで生き延びる

第2話 二つ目の銀杯

毒は消えていない。ただ、杯の場所が移っただけのこと。

リゼリアは神前の間の奥へ続く渡り廊下を、二人の近衛に挟まれて歩いた。朝の光が石畳を斜めに切り、足音だけが規則正しく響く。心臓はまだ胸の奥で太く打っていたが、指先の痺れは引いていた。生きている。それが今は、ただ一つの確かなことだった。

皇后宮へ続く回廊の入り口で、一人の侍女が膝をついた。マグダ・ルーヴェルだった。マグダはリゼリアを見上げ、涙を拭いた跡を残した顔で囁いた。

「お支度を、整えさせてくださいませ」

「……よろしいわ」

リゼリアは短く答えた。毒杯の回収を遮られた相手を、よくもまあ近くに置くものだと思いながら、あえて頷いた。拒めば、この女はもっと別の手で近づいてくる。それなら、視界に入れておくほうがましだった。

月白の私室は、名前の通り月の色をした石の壁に包まれた一角にあった。窓の外では礼拝の鐘が三度鳴り、式場の騒ぎが時を追ってこの部屋へ近づいてくる気配がある。

「お着替えを」

マグダが衣装台へ平織りの薄衣を広げる。リゼリアは手を伸ばさず、窓辺へ立った。庭の向こう、大神殿の尖塔の影が朝陽を受けて長く伸びている。あの影の中で、杯は今ごろ宮廷医局へ向かっているはずだ。

「皇后様、お疲れのところ申し訳ございません。杯を」

振り向いた。マグダが小卓の上の銀杯を盆に戻そうとしている。給仕用の、背の低い杯だった。リゼリアは三歩で近づいた。

「おいてちょうだい。銀杯を下げるには早いのではなくて?」

マグダの手が止まる。杯の縁を摘んだ指先が、わずかに震えていた。

「ですが、長く置かれたお水は」

「私が飲んでいないのに、なぜ下げるのか、と訊いたの」

リゼリアの声は静かだった。前の人生のこの時刻、自分は式場の石床の上で息絶えていた。だから、生きている今の自分を守れるのは自分だけだということがよくわかっていた。

マグダが杯をそっと持ち上げた。盆の上に置かれた杯は、給仕の杯とは作りが違う。縁の彫りが深く、持ち手の根元に小さな花の刻印があった。いつも私室で使うには、いやに細工が凝りすぎている。

「いつもの給仕杯はどうしたの」

「先日、割ってしまいましたので」

「では、替わりはどなたが」

「わたくしが、支度の間に」

リゼリアは杯の傍らへ歩み寄った。残り香がした。水の匂いばかりではない。甘い花の腐りかけのような、重い匂いが杯の口から立ちのぼる。

「下げずともよいわ。陛下が来られるのでしょう。給仕のものを勝手に持ち歩かれると、あとで困るのはあなたではなくて」

「どうかお許しを」

マグダが杯の持ち手を握ったまま床へ膝をつく。動きは早いのに、杯を危うく傾けはしなかった。その手の確かさが、逆に不自然だった。

「その杯、台ごとそこへ置きなさい。誰も触れさせないように。触れば、どうなるかは言わなくてもわかって」

リゼリアは自分の声を、神前で毒を見つけたときよりも低く保った。マグダが顔を上げる。青ざめた唇が、何かを言いかけて閉じた。

「承知いたしました」

マグダは杯を小卓へ戻し、摩擦のない動きで退がる。リゼリアはその背中を追わず、小卓の上の杯だけを見下ろした。皇太后宮で焚かれている香油に似た、甘い残り香がこの部屋の空気と混じる。確信には遠い。けれど、あの杯が正規の給仕杯とすり替わる前でよかった。

扉の外で、複数の足音が止まった。近衛の一人が名乗る暇もなく、低い声が届く。

「開ける」

リゼリアは小卓と杯の位置を一瞥してから、扉へ向き直った。

「入られてくださいまし」

カイルクス・ヴェルンハルトが入ってきた。長衣の肩に、式場の埃がうっすらとかぶっている。二歩あとからアレクシス・ヴァルツが続いた。帯刀したまま、すぐ傍らの柱へ背を預けるように立つ。

「給仕の女が下がったな。何かあったのか」

「給仕杯を、別の杯に替えようとしていました。止めて、こちらに置かせました」

リゼリアは小卓を示す。カイルクスの濃灰色の瞳が、杯の縁の彫りと花の刻印をなぞった。

「アレクシス」

「はっ」

「この杯を、神前で封印したものとは別の容器で留め置け。何人たりとも触れるな。皇后宮の給仕は、明日まで一括で別室へ移せ」

アレクシスが一礼して杯へ歩み寄る。リゼリアは彼の手元に、杯の持ち手が揺れるのを見た。もしかすると、今夜は誰にも寝る時間はないのかもしれない。

「マグダは、どうなさるおつもりで」

「きさま、あの給仕を庇うか」

「庇うのではなく、記憶を繋げておきたいのです。毒の入っていない杯と断じたのではありません。あの女が何を知っていて、何を知らないのかが、まだわからない」

カイルクスは頷いた。深くではなく、二度、小刻みに。

「皇后宮の侍女控室へ移す。取り調べは明日だ。今、無理に責めれば、皇太后宮から風を送られる」

皇太后宮。リゼリアはその言葉を胸の中で何度か転がしたが、大きな声にはしなかった。カイルクスが続けた。

「杯の残液は、明日ケイウスに調べさせる。お前が言った夜蜜かどうかは、月虹石の再検証と照らして出る」

「では、それまで私の口からは、毒とは申しません」

リゼリアは持ち歩いていた月虹石の飾りを手のひらに置いた。石は変わらず澄んだ色で、先ほどの紫色の痕ひとつ残していない。あの時だけ、あの石だけが真実を喰って色を変えた。

「その石を、今夜近衛へ預けろとは言わん。だが、肌身から離すな」

「言われずとも。これは私の目ですから」

カイルクスの視線が、リゼリアの右手の薬指の火傷の跡へ落ちた。彼は何度か、そこへ目をやる。リゼリアは指を引かずに受けた。この人も、前の人生では自分へ死を差し出した形になった人。しかし今、神前の間の人払いのあとで「朕は、お前を死なせぬ」と言ったのは、この人だ。

「陛下」

リゼリアは声を少しだけ和らげた。

「私をここへ置いたのは、私を証人にするためですか。それとも」

「お前を失策の中心に据えたくない。朕が表へ出るあいだ、お前が生き延びる場所が必要だった。それだけのことだ」

カイルクスは帽子を取らず、窓辺へ歩いた。礼拝の鐘がもう一度鳴る。日が昇りきって、庭の砂利道が白く光る。アレクシスが杯を運び出し、扉を閉めた。

「明日、ケイウスが動けば、杯の残液が何であるかは明らかになる。お前はここで、その結果を待て」

カイルクスが振り返る。その顔に、皇帝の仮面と一人の男の疲れが同時にあるのを、リゼリアは見た。

「もしも、結果が夜蜜ではなかったら」

「そのときは、お前の告発に新たな根拠を求める。そして朕は、お前がこの宮にいるかぎり、母上の手から一度は引き剥がしてみせる」

リゼリアの胸の奥が、小さく波立った。信じてもいい、とは思えなかった。けれど、この人へ背を向けた瞬間に何かが終わるのも、確かだった。

「では、陛下。明日のそのときまで、私は生きてこの部屋にいますわ」

「生きて、いろ。それ以上も、以下も、朕は望まん」

カイルクスの声が、部屋の空気を低く震わせた。彼は扉の取っ手に手を当て、背のまま一つだけ言い置いた。

「明日、ケイウスに杯の残液を調べさせる」

リゼリアは返事をしなかった。開いた扉の向こうへ、近衛の鎧の音と遠い鐘の余韻が流れ込む。小卓からは、あの甘い残り香が消えずに、静かにこの夜の襞へ沈んでいった。

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、毒杯を拒んで生き延びる第2話 二つ目の銀杯