FeverStory

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、毒杯を拒んで生き延びる

第3話 蛇の間、灰の証言

宮廷医局の奥、封印物保管庫には窓がなかった。ただ石壁に沿って灯りが三つ並び、朝の光の代わりに白い炎が揺れていた。

ケイウス・モランは白絹の手袋を外し、素手で封蝋を割る。カイルクスの承認書が、杯の隣に置かれていた。皇帝の印が押された羊皮紙を一瞥してから、彼は蓋を開けた。

「お前の正体を、教えてくれ」

ケイウスの声は、残液へ向けられてはおらず、自分の指先へ落ちた。

杯は傾けず、硝子の長柄で一滴を掬う。澄んだ琥珀色が、揺れている。あのまま皇后が口をつけていれば、今ごろ皇后宮は白い布に覆われていた。

月虹石を、滴の横へ添えた。

紫。

「……夜蜜だ」

ケイウスは短く息を吐いた。それから二本目の小瓶を、胸の内袋から取り出す。皇后宮の香油見本。調香官の間では「月下琥珀」の名で扱われる皇太后宮だけの調合だ。

一滴を、検液に落とす。香りが立ち、月虹石の紫が深くなった。反応しない香油もあるなかで、これは増色した。

「同じだ。夜蜜の溶媒に、月下琥珀が使われている」

彼は報告書の末尾に、この結果を二行で記した。署名を終え、残液を分けた。検体Aを表の保管函へ。検体Bを、内ポケットの銀筒へ。

検体Bのことは、報告書に書かなかった。

皇后宮・月白の私室に、夜の冷えが静かに降りていた。カイルクスは窓を閉めてから、小卓の前へ戻る。

リゼリアは、あの甘い花の腐りかけの匂いが染みついたままの部屋着に、肩へ薄い織物を掛けていた。背筋は、夕刻より伸びている。

「来ましたわ」

扉の外で、衛兵が短く告げる。ケイウスが入り、リゼリアとカイルクスへ一礼した。手には報告書と、表の保管函だけを抱えている。

「夜蜜で、相違ございません。それから、溶媒に皇太后宮の専用調合油、月下琥珀が使われております」

カイルクスの指が、肘掛けで止まった。

「確かか」

「月虹石の呈色は夜蜜で紫。検液に月下琥珀を加えると、この色が強まりました。無関係の香油では、この反応は出ません」

リゼリアは目を閉じた。目の裏で、朝の杯が紫色に変わる瞬間が、もう何度も灼けついている。

「……証人を」

カイルクスは低く命じた。

「調香官ミラベルを呼べ。この結果を、彼女の前でもう一度だけ確かめさせる」

「近衛を」

「私が行きます」

壁際から、アレクシスが進み出た。杯を預かった夜から、彼の顔には笑みがなかった。

「ミラベルは、私の顔を見れば大人しくついてくる。騒ぎは避けたほうがいい」

カイルクスは頷いた。アレクシスが、剣帯の位置を直して出て行く。

それから、どれほど経ったのか。ロウソクが指の幅ほど縮むあいだ、三人は黙っていた。沈黙の中で、小卓からまだ、あの甘い腐臭がする。

リゼリアは、それを今はもう、耐えていた。

やがて扉が開き、アレクシスの後ろから、小柄な女が入ってきた。調香官の証である、青い房飾りを胸に垂らしている。

「陛下。ミラベル・アレンデルでございます」

ミラベルは声を詰まらせ、膝をつくのが遅れた。青白い顔。指先がかじかんだように震えている。アレクシスが一歩下がり、よろめく彼女を支えず、ただ見下ろした。

「検体を」

カイルクスの声に、ケイウスが保管函を開けた。封印を解いたガラス板に、一滴の残液が光る。月虹石は、まだ何の色も灯していない。

「近う」

ミラベルは二歩、滑るように寄った。ロウソクの炎が、彼女の額の汗を浮き上がらせる。

ケイウスが、月虹石を検体Aへ近づけた。

紫が走る。

ミラベルの口が、半ば開いた。

「……月下琥珀……」

「確かか、調香官」

カイルクスの声に、ミラベルは肩から崩れそうになった。

「この溶媒の、花の芯のあとに残る重さは、月下琥珀でしか出ません。皇太后宮の、専用調合……」

そのとき、扉が内側から開かれた。

ノックはなかった。

入ってきたのは、皇太后宮侍従長オルセンだった。黒い儀礼服の胸に、皇太后の蛇紋が銀糸で光っている。後ろに、帯剣した私兵が四人。

「失礼」

オルセンは一礼を、深くしなかった。声だけが、不自然に静かだった。

「皇太后の名において、調香官ミラベル・アレンデルの身柄を預からせていただきます。専用調合の名を、許しなく口にした疑いがありますゆえ」

「待て」

カイルクスが立ち上がる気配を、リゼリアは目の端で追った。しかし皇帝の声が、オルセンの足を止めたわけではなかった。

「こちらは皇帝の私室。取調べ権限の形を借りても、朕の許しなく人は連れ出せん」

「皇后が杯を拒んだ場を、皇太后が取り仕切る御名代として」

オルセンは言い、小卓へ一歩寄った。

「押収させていただきます」

彼の手が、保管函を引き寄せる。報告書も、同じ動作で。

リゼリアは無言で動いた。小卓の横から、封じられた函へ手を伸ばす。衛兵のうち一人が、剣の柄を軽く鳴らした。

「動きますな、皇后」

その声に、アレクシスが二歩進んだ。オルセンが片手を上げ、私兵がミラベルの腕を取る。

「いいえ、いけません。私は……」

ミラベルの声が、引きちぎれた。

「連れて、行くぞ」

オルセンが背を向ける。私兵に囲まれ、彼女の青い房飾りが揺れて、廊下の闇へ消える。リゼリアは、声にならない。唇を噛み、指先を、強く、強く、握った。小卓の上から、検体と報告書が跡形もなく消えている。

「……よくも」

リゼリアの喉から、絞り出すように。

「ええ、よくも、ございますわね。こちらが標的にされるのは、これが初めてではありませんこと」

カイルクスは、まだ床を見ていた。それから、一度だけ窓の外へ、真っ暗になった庭へ目をやる。

「行く」

リゼリアは立ち上がった。

「どこへ」

カイルクスの問いに、彼女は振り返らなかった。

「皇太后宮へ。ミラベルを返していただきに。それと、焼かれる前に証拠を」

「今は、夜だ。私兵が、あの廊下に厚く」

「わかっておりますわ。だから、近衛を一人、借り受けます」

「朕が行く」

カイルクスの声が、低く追った。

「皇帝が行けば、あの場は、母と朕の戦いになります。皇后の告発へ、母は今日中に口を封じられますわ。陛下は、ここへ残って」

リゼリアは、アレクシスを見上げた。

「アレクシス。あなたの足で、蛇の間まで」

アレクシスは黙って、剣の柄から手を放した。

「仰せのままに」

皇太后宮・蛇の間は、香油で空気がねっとり熱かった。壁一面の蛇紋が、入り口の灯りを受けてうっすらと汗のように光る。

セレスティーヌが、長椅子の背にもたれ、くつろいだ姿勢で待っていた。小卓の上で、取り上げられた報告書が開かれている。検体Aの函は、すでに火鉢の傍らに置かれている。

「おや、遅い時間ね」

セレスティーヌの左手が、蛇紋の指輪を撫でる。リゼリアは、正面からそちらを見た。

「ミラベル・アレンデルを、お返しくださいませ」

「調香官が、何か?」

「あなたの専用調合、月下琥珀について証言した者ですわ。それを、取調べと称して連れ去られました」

「言葉に気をつけなさい」

皇太后が、声を笑ませた。

「ここは私の私寝殿。皇后といえど、夜に押し入って咎め立てする場ではありませんよ」

小卓の報告書へ、火鉢の火が影を這わせる。リゼリアは呼吸を浅くし、指先の痺れるような怒りを、声へ乗せなかった。

「ええ。ご無礼は重々存じております。けれど、あの方を奪われたままでは、朝までは参りませんの」

「わたしは少々、疲れていましてね」

セレスティーヌは立ち上がった。袖が、篝火の煙を切って翻る。

「証拠のひとつも、褒められた形では残りませんよ。これで、夜蜜だの香りだの、すべて灰です」

彼女は、報告書を火鉢へ落とした。紙が一瞬で、燃え上がる。検体Aも、函ごと火の中へ。

「あなたの言葉と、宮廷医の署名だけが残る。それで、神前の間の誰が従うでしょうね」

煙が、蛇の間へ苦く広がる。

「次の杯は、別の者に運ばせましょう」

セレスティーヌは、焼けていく紙から目を離し、リゼリアを見た。瞳孔の底に、火と、笑みの色が揺れる。

「今夜はよく来たわ。失敗を、目に焼きつけなさい」

彼女は背を向け、奥の間へ。蛇の間の出入口で、裾が一瞬、煙を持ち上げてから、消えた。

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、毒杯を拒んで生き延びる第3話 蛇の間、灰の証言