FeverStory

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、毒杯を拒んで生き延びる

第4話 紫に染まる杯拭き

煙がまだ髪に残っている。リゼリアは皇后宮へ戻る足を緩めなかった。

皇太后宮の廊下を抜け、中庭の砂利、渡り廊下。アレクシスが半歩後ろを歩く。篝火の匂いと、焼けた紙の苦い匂い。どちらも、まとわりついて離れない。

「侍女控室へ」

リゼリアは振り返らず言った。

「マグダに、聞かなくてはならないことがありますの」

夜の皇后宮は静かだった。どこからか、見張りの近衛のまとう革の音が微かにする。侍女控室の前で、リゼリアは一度だけ立ち止まった。

「貴女はここで」

「中に入ります」

アレクシスが無表情で断る。リゼリアはそれ以上押さなかった。扉を押すと、蝋燭が一本、壁際で燃えている。マグダは小椅子に座り、両手を膝の上で握りしめていた。顔を上げる。

「へ、陛下は……どこに」

声が、かすれている。

「陛下は月白の私室にお残りですわ」

リゼリアは彼女の前に立ち、見下ろした。

「マグダ。あの夜、割れた給仕杯を拭いた青い布。どこへ」

マグダの喉が、大きく動いた。

「わ、わたしは……あの杯が、毒だなんて、知らなくて」

「そう。毒と知らず拭いたのなら、なぜ昨日、あの場で言わなかったの」

「し、知らされていなかったんです。皇后様が、お運びになった杯だって。だから、拭き方を、いつもより丁寧にしろと言われて」

「誰に」

「……白い袖の、女官です。名前は存じません。私、ただ、言われたとおりに」

マグダは震える指で、胸元から銀の鍵束を外した。小さな引出しを指す。リゼリアはそちらを見た。

「布は……あの、引出しの中の、一番下です。使ったあと、捨てるなと言われて、しまっておくようにと」

リゼリアは引出しを開けた。青い杯拭きが、丁寧に畳んで寝かせてある。指先で触れると、僅かにしっとりとしていた。

「アレクシス。これのことを、記録に」

「承知」

アレクシスが短く頷く。リゼリアはマグダの顔をもう一度見た。唇が白い。恐怖で、というより、自分の意思がどこからどこまでなのか、もうわかっていない目だった。

「もう、どこへも行かないと約束しなさい」

「……はい」

「夜が明けたら、話を詳しく聞かせて。いいわね」

マグダは何度も頷いた。リゼリアは杯拭きを胸元に抱くように持ち、控室を出る。

月白の私室には、カイルクスとケイウスが待っていた。卓上に、蝋の痕が幾つも重なっている。リゼリアは杯拭きを小卓の中央へ置いた。

「青い杯拭きよ。ケイウス、これを」

「いただきます」

ケイウスが、布を銀の盆に受け取る。カイルクスが立ち上がり、封蝋のしてある書面を彼へ差し出した。

「皇帝の承認書だ。医局の封印物保管庫、それから検体の持ち出しと照合に」

「拝命します」

ケイウスの指が、青い布を広げる。蝋燭の火が、卓の上で小さく傾いだ。彼は内ポケットから月虹石を取り出し、まず杯拭きの端、次にしみのある中央へ、ゆっくりと触れさせた。

色が、灯りの中で変わった。

紫。薄く、けれど間違いなく、あの朝の酒と同じ色。黙り込む三人の気配の中で、ケイウスだけが手を止めなかった。布を裏返し、別の箇所にも石を落とす。また、紫。

「夜蜜だ」

ケイウスが低く言った。

「それに、皇太后宮で焚く香油と同種の、月下琥珀の痕が混じっている。こびりついた香りが、布の繊維に残ってる」

「間違いないのね」

「ええ。この変色を見誤る医官がいるとは思えません」

カイルクスが、小卓の縁を握った。

「記録を。布も、お前が預かれ」

「封印をします。検体Bと同じ、私の箱に」

ケイウスが銀筒へ石を戻し、布を畳んで封蝋を垂らした。

夜明けが、窓の外で白んできていた。

蛇の間は、朝の薄明かりでも冷えなかった。火鉢に、昨夜の灰がそのまま残っている。セレスティーヌは長椅子で茶を飲み、オルセンが、震える侍女を連れて入るのを見た。

「マグダ・ルーヴェル、でよかったかしら」

マグダは、床に膝をついた。顔が、戦慄く。

「お前が皇后宮で、ずいぶん妙なことを口にしたそうね。杯を拭いた、出どころを知っている、と」

「わ、わたしは、ただ、言われたまま……」

「ええ、いいの。それで結構」

セレスティーヌは、一枚の紙を小卓に滑らせた。

「ここに、署名をなさい。皇后様が杯を運ばせ、お前はそれを毒とは知らず、宝石箱と引き換えに口止めされた。この通りに書けば、髪も指も、どうか落ちぶれずにすむでしょう」

マグダの呼吸が、乱れる。目の端に、みるみる涙が溜まった。

「こ、こんな……私は、皇后様を、罪になさるおつもりですか」

「罪? いいえ、事実を直すのです」

セレスティーヌは微笑んだ。燃え尽きた灰の上を、朝の空気が静かに動く。

「ミラベルも、お前の家族も、役人の尋問は長いわ。署名がなければ、明日の朝まで、保証はできない」

マグダは、震える手で細筆を取った。墨が、紙ににじむ。誰かのために、誰かが吐く。けれど、震えに勝てず、線が歪んだ。

「……どうか、私の母だけは」

「もちろんよ。素直で助かったわ」

セレスティーヌは署名を検め、丁寧に封をした。

昼前、ケイウスは宮廷医局の前で、皇帝の承認書を医官長に見せた。老人が書面を日にかざし、彼の顔を見る。

「陛下の印だな。開けるか」

「最初の毒杯の残液だけ、照合に必要です」

「わかった。わしが立ち会う」

封印物保管庫は、窓のない部屋。医官長が棚の一番奥から、遮光した函を下ろした。箱の留め金を外す。最初の杯は、白絹で包まれ、横たわっていた。口元に、乾ききった滴の筋が残っている。

ケイウスは細い銀の匙で、筋の一部を削り取った。それを検液へ溶く。検体Bの銀筒からも、一滴を落とす。月虹石を、それぞれに触れさせる。

二つの液が、同時に紫へ変わった。

「同じだ。希釈の仕方まで、ほぼ同じ濃度筋だ」

彼は記録を取った。医官長が、長い息を吐く。

「皇太后宮の香油か」

「それ以上は、陛下の御前で」

両検体は、夜の帳が下りる前、皇后宮へ運ばれた。月白の私室の奥に、封印箱が置かれる。小窓の外では、風が薔薇の枝を鳴らしていた。

夕方になり、外廊下の空気が急に硬くなった。

アレクシスは剣を抜かなかった。私兵が、黒い頭巾を目深に被り、物陰から出てくる。二人。廊下へ上がってくる時点で、侵入の意思は明らかだった。

「皇后宮の外廊下だ。それ以上は」

相手は答えず、鋭く踏み込む。アレクシスが半身で躱し、鞘のまま、私兵の手首を打った。苦鳴はなかった。二の太刀が、左の眉へ入ってくる。彼は顔を背けず、その剣筋を、少しの怒りと共に見た。

左眉を切ったあの夜。宿の外。降りしきる雨。覚えがある。

肘が、二の構えごと私兵の腹へめり込み、私兵が折れた。鞘を、鳩尾へ。もう一人の足を払い、背中を膝で押さえる。

自分の眉を裂いた刃筋が、あの時の入り方と、角度まで同じだった。

アレクシスは、私兵を縄で固く縛り上げ、近衛の拘束房へ引き渡した。報告が、これからだ。月白の私室へ向かう。左眉の古傷が、夕風に冷えた。

月白の私室では、ケイウスが皆の前で、青い杯拭きにもう一度、月虹石を落とした。残液と同じ紫が、畳んだ布の端から滲む。

「やはり。これが、最初の杯と同じ夜蜜の痕です」

リゼリアが顔を寄せる。カイルクスは黙って、彼女の肩の横から、その紫色を見つめる。ケイウスの痩せた指が、石を布から離した。色が、灯りの中でまだ残っている。

その足音が扉の外で止まる。アレクシスが、血の付いていない指を眉に当て、一度だけ、言葉を探すように呼吸した。

「外廊下で、私兵を二人。そのうちの一人の剣筋が、俺の左眉の古傷と同じだった。あの夜、雨の中でやられた際の、入り方と……」

彼の声が、途中で、外へ向き直った。皇后宮の外周、薔薇の散歩道の向こうで、第二の足音が、小石を踏んで止まった。

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、毒杯を拒んで生き延びる第4話 紫に染まる杯拭き