毒殺された皇后は戴冠式の朝に戻り、毒杯を拒んで皇帝の隣を勝ち取る
第1話 銀の針は曇る
夜明けの鐘が二度鳴る前に、この一日をやり直すしかない。エレオノーラは寝台の上で身を起こし、冷えた手のひらを胸の前に握った。皇后宮の控えの間はまだ薄暗く、窓の外では星が白み始めた空に溶けている。毒が回る感覚はもうない。唇の縁に残っていた苦みも、喉を焼いた痛みも、すべて消えていた。けれど記憶だけははっきりしている。金杯から一口含んだ途端に崩れた膝、星の間のざわめき、自分の血の混じった息。
「お目覚めですか、皇后陛下」
マルガリータが扉の影から声をかけてきた。エレオノーラは短く肯き、寝台を下りる。
「銀の針を一本、支度して」
「銀の、針でございますか」
「ええ。刺繍用の細いものでいいの」
マルガリータは一瞬だけ目を丸くしたが、それ以上は問わずに小箱を持ってきた。エレオノーラは針を袖の内側、縫い目の間に滑り込ませる。前世ではこの針はなかった。だから杯の縁に毒があると気づけず、そのまま口をつけた。
「どちらへ」
「銀器の間。誰にも知らせなくていいわ」
廊下は静かで、朝の空気が冷たく足元を包む。銀器の間の前には当番の下男が一人、居眠りをしていた。鍵は外されている。式典前の準備が始まる時刻にはまだ早い。エレオノーラは重い扉を押し開け、中の燭台に手早く火を移した。
金杯は台の中央、黒い布の上に据えられている。帝冠と並んで置かれ、燭の光を吸い込むように鈍く光っていた。エレオノーラは袖から銀の針を抜くと、杯に近づく。
杯の縁。外側へわずかに反った金の曲線へ、針の先をそっと当てた。
銀が曇る。触れた先から、まるで息を吹きかけられた鏡のように白く濁っていく。彼女は針を杯の内側、液体のない底の方へも差し入れてみた。曇りはない。毒は酒の中ではなく、唇が触れる縁にだけ仕込まれていた。
手のひらが震える。怒りではない。前世で死んだ瞬間の無力さが、そのまま指先に戻ってきただけだった。エレオノーラは針を拭わずに袖へ収める。これが証拠になるかはわからない。けれど杯を割るわけにはいかない。割れば宗務院行きだ。彼女に与えられた選択は、飲まないことだけだった。
星の間には、すでに貴族たちが並んでいた。白と金に飾られた広間の奥で、ライオネルが玉座の前に立っている。黒い上着に銀の刺繍。横顔には笑みがなく、戴冠式の重圧だけが背筋を張らせていた。エレオノーラは妃の定位置へ進み、視線を前に固定する。
歌姫セレスティーヌが金杯を捧げ持って入場してくる。彼女の白い指が杯の脚を握りしめていた。宰相ギルベルトが一歩前に出て、短く命じた。
「毒見役、前へ」
オスヴァルトが銀の匙を差し出す。セレスティーヌが杯の中の酒を掬わせ、彼は匙の液体をためらいなく含んだ。一拍。二拍。変化はない。
「異常なし。陛下、皇后陛下、共杯の礼を」
ライオネルが杯を受け取り、先に口をつけた。それから彼は杯をエレオノーラの前に差し出してくる。同じ杯。前世で彼女を殺した器。
エレオノーラは杯へ手を伸ばさなかった。そのまま半歩、後ろへ下がる。
「陛下、私は退出いたします」
ざわり、と広間が揺れた。ライオネルの手が止まり、ギルベルトがこちらを振り向く。オスヴァルトの平然とした顔にも、初めてわずかな動きが走った。
「体調が優れません。共杯の礼を全うすることが敵いませんことを、お詫び申し上げます」
彼女はそれだけ言って背を向けた。後ろで誰かが「不敬だ」と囁く声がする。足を止めなかった。星の間の重い扉の向こうへ出た瞬間、張り詰めていたものが一気に緩んで、彼女は壁に手をついた。生きている。それだけで十分だった。
「エレオノーラ」
外套もつけずに追ってきた声が、廊下に響く。振り返ると、ライオネルが数歩の距離に立っていた。目には怒りよりも混乱が浮かんでいる。
「今の退出が何を意味するか、わかっているのか」
「ええ。不敬の咎は受ける覚悟でございます」
「覚悟では済まん。皇后が自ら戴冠の礼を破ったとあれば、貴族たちは宗務院への審問を求めるぞ」
「それでも、あの杯に口をつけるよりはましでした」
ライオネルが眉を寄せた。一歩踏み出す気配に、エレオノーラは袖から銀の針を抜いて差し出す。曇った銀は、廊下の明かりの下で白くくすんで見えた。
「これが何か、おわかりになりますか」
「銀の針か」
「杯の縁に触れただけで、この通り曇りました。酒の中ではありません。杯の縁に毒が仕込まれていたのです」
ライオネルは針を受け取ると、しばらく黙って曇りを見つめた。彼の指先が、ほんの一瞬だけ止まった。エレオノーラはその沈黙に、自分でも説明できない何かを感じた。記憶の底で、誰かが同じ銀の曇りを調べていたような光景がかすかに浮かぶ。
「……酒はオスヴァルトが毒見している。異常はなかった」
「毒見は液体だけです。杯縁に触れてはいません」
「それでも確証にはならん。銀が曇る理由は毒だけではない。空気や手汗で曇ることもある」
「これは──」
「公の場で言えることか」
ライオネルの声が低くなった。彼は針を握ったまま、エレオノーラを見下ろしてくる。
「おまえの退出は不敬として記録に残る。証拠がこの針一本だけなら、私が守れるものは何もない」
「私を守る必要はありません。もう死ぬ気はないだけです」
彼女の言葉に、ライオネルは何か言いかけて口を閉じた。針を返す気配はない。それきり背を向けて、星の間へ戻っていく。扉が閉まる音だけが、長い廊下に残った。
夕方、皇后宮の控えの間の戸が叩かれた。
「カタリナ様がお見えです」
マルガリータの声は固い。エレオノーラが許可を出すより早く、カタリナは裾を翻して入ってきた。薄紫の式服をまとい、耳元で真珠が揺れている。
「突然お邪魔いたしますわ。今日のご体調、いかがかと心配で」
「心配は不要よ。もう良いの」
「そう仰いますけれど。式典の途中で退出なさるなんて、余程のことだったのでしょうね。皆、皇后陛下は戴冠式を辞したいのではないかと噂していますわ」
カタリナは口元に笑みを浮かべたまま、扇子を開いた。扇の下から、こちらを値踏みする目だけが光っている。
「噂を静めるのは、陛下の一存でしょう。ここで何を言っても同じことよ」
「まあ。ずいぶん投げやりですのね」
「投げやりなのではなく、あなたと時間を無駄にしたくないだけ」
カタリナの笑みが一瞬固まった。扇を持つ手の白さが、そのまま冷たい空気をまとって見える。彼女は何かを探るように口元を歪めたが、それ以上は踏み込まず、形式的な見舞いの言葉を残して辞去した。足音が遠ざかると、マルガリータが扉を閉めて走り寄ってくる。
「陛下、お聞きいただきたいことがございます」
「何かあったの」
「星の間でのことです。セレスティーヌが杯を運ぶ際、陛下の杯の前で一瞬だけ手を止めました。わたくしは楽の音で声が届かず、その場ではお伝えできませんでしたが……」
エレオノーラは背筋を伸ばした。歌姫が、杯の前で止まった。液体の毒見は素通りしたのに、杯縁にだけ反応するように。
「その話は、誰かに?」
「いいえ。まずは陛下にだけ。ですが記録には残っておりません。典礼記録にも、彼女が手を止めた事実は書かれておりませんでした」
記録から消える。マルガリータの警告も、楽の音に消えた。エレオノーラは窓の外へ目をやった。夕闇が皇后宮の庭を覆い、そこかしこで灯りが瞬き始めている。
「次の共杯の礼まで、時間はあるわ」
「陛下」
マルガリータが不安そうに手元を見つめている。エレオノーラは袖の中を探り、銀の針がないことに気づいた。ライオネルが持ったままだ。指先が冷えるのを感じながら、彼女はゆっくりと言った。
「次は杯の縁の毒を、公の場で暴く」
風が窓を叩き、灯りが一瞬揺らいだ。