FeverStory

毒殺された皇后は戴冠式の朝に戻り、毒杯を拒んで皇帝の隣を勝ち取る

第2話 銀の曇りを拭う夜

夕方の光が控えの間の窓辺から消え、灯りが一つだけ机の上で揺れている。エレオノーラはマルガリータの報告を聞き終えると、すでに立ち上がっていた。

「銀器の間へ行くわ」

「今からでございますか。カタリナ様が先ほどまでこちらに」

「あの方が帰ったのなら、ちょうどいい。歌姫はまだ杯の片づけをしているはずよ」

マルガリータは一瞬口を開きかけて、こくりと頷いた。二人は揃って廊下へ出る。人の気配は少なく、夕食前の静けさが宮殿を包んでいた。エレオノーラの靴音だけが、冷たい石の上を小気味よく弾む。

マルガリータが半歩後ろで灯りを掲げ、影は二人の足元で前後に入れ替わる。壁際の燭台が吐く蜜蝋の匂いに古い石の冷えが混じり、鼻の奥を刺した。

銀器の間の扉は半開きで、中から布が金具を擦る音が漏れていた。踏み込むと、セレスティーヌが一人で金杯を磨いている。彼女は皇后の姿を見るなり手を止め、杯を台に戻すように置いた。

「お取り込み中、失礼するわ」

「も、もったいないお言葉でございます、皇后陛下」

「昼の式典でのこと。杯を運ぶ際、杯の前で手を止めたのはなぜ」

セレスティーヌの指が、磨き布の端をきつく握った。

彼女の喉がかすかに上下し、杯の傍らに置かれた手は白いうえに指先だけ赤く透けている。磨き布へ滲んだ油の匂いが、二人の間の空気に薄く立ちこめた。

「わたくしはただ、緊張しておりました。それだけにございます」

「緊張で止まるには、位置がはっきりしすぎていたと侍女が証言しているわ」

マルガリータが半歩、前に出る。セレスティーヌは顔を伏せたきり、何も答えない。その時、扉の向こうから軽やかな足音が近づき、カタリナが滑り込むように現れた。

「まあ、皇后陛下がこんな所に。片づけは歌姫と典礼官に任せればよろしいのに」

「杯の扱いを確かめるのは皇后の務めよ」

「ご立派ですこと。ですが典礼の混乱を防ぐため、杯の準備経路はすべて典礼官が記録し、本日中に封じる手配が済んでおります。今さら何かをご覧になっても、正式な記録にはなりませんわ」

カタリナは笑みを崩さない。その手には薄い封緘紙が握られていた。記録を封じるのが異様に速い。エレオノーラの背筋に冷たいものが走るが、視線は逸らさない。

「封じる前に、杯そのものを検めたいと申しているの」

「それはご随意に。セレスティーヌ、あなたは歌の稽古に戻りなさい。ここはわたくしが皇后陛下の相手をするから」

セレスティーヌは深々と頭を下げ、逃げるように扉へ向かう。エレオノーラが呼び止めるより早く、カタリナが扇子で行く手を制した。歌姫の足音が遠ざかる。

「ギルベルト宰相」

エレオノーラは部屋の奥、台帳を手に黙っていた男へ声を向けた。

「杯の縁は、式典後に検めましたか」

ギルベルトは顔を上げない。台帳の頁を一枚、ゆっくりと指でなぞる。

「毒見は液体のみが定め。縁の検めは慣例にありません」

「ないのは承知よ。あるべきかどうかを聞いているの」

「確証のないことを申す立場ではございません」

彼の指が、杯の縁の曇りが残るかもしれない位置で一瞬止まる。けれどギルベルトはそれを最後まで直視せず、傍らに控えた下男へ静かに命じた。

「金杯を清めなさい。戴冠の器に残り香があってはならない」

「お待ちなさい」

エレオノーラが一歩踏み出すのと、下男が杯へ湯を注ぐのが同時だった。白い蒸気が立ち、金の縁を伝った水が、わずかに残っていた曇りを洗い流していく。

「これでは証拠が」

マルガリータが声を張り上げた途端、カタリナが扇子を閉じて壁際の衛兵へ顔を向けた。

「皇后陛下の前で騒ぐとは、侍女の躾もなっていないわ。この場から連れて行きなさい。静かになさい」

二人の衛兵がマルガリータの両腕を取った。彼女は抵抗せず、けれどエレオノーラを振り返って口を動かした。手首に食い込む指の力で、白い肌が擦れて赤くなる。

「離しなさい」

「皇后陛下。侍女の不敬は皇后陛下の不敬。ここは陛下の御手をお汚しにならないよう、わたくしどもが預かりますわ」

カタリナの声は甘く、その目は楽しげに光っている。エレオノーラは袖の銀の針へ指先を伸ばしかけてやめた。ここで曇りを見せても、杯はもう洗われている。マルガリータは衛兵に支えられるように銀器の間を出て行き、足音が二つ、三つ、遠ざかる。カタリナは満足そうに扇子を開き、エレオノーラへこうべを垂らした。

その扇からの風がエレオノーラの頬へかすかに届く。白檀を焚きしめた香りが強すぎて、銀器の間の埃っぽい空気をねじ伏せるようだった。エレオノーラは無言で背筋を伸ばし、開いた両の掌をスカートの上に据える。

「どうぞ御自室でお休みくださいませ。式典の疲れがおありでしょうから」

皇帝の執務室には、夕暮れの暗さが先に忍び込んでいた。ライオネルは報告書へ手もつけず、窓辺に立っている。側近が一歩後ろに控え、抑えた声で告げた。

「銀器の間で小競り合いがございました。金杯は清められ、皇后付きの侍女マルガリータは衛兵が身柄を預かったと」

「皇后は」

「自室へ戻されたもようです。カタリナ様の配慮と伺っております」

ライオネルは窓枠に置いた手を離さない。指の先だけが、白く冷えていた。

「何か言っていたか」

「皇后陛下は式典の杯の縁を検めるべきだったと。宰相はあくまで礼法を理由に、杯を清めたとのことです」

証拠はまた遠のいた。それでも、彼女がこのまま黙って退くとは思えない。ライオネルは目を伏せる。

「皇后が次に何をするか、見届ける」

短い言葉のあと、彼は窓から離れた。執務室に残された沈黙が、夜の色に溶けていく。

皇后宮の控えの間で、エレオノーラは一人だった。監視の侍女も下がらせ、指先で机の端をなぞる。袖の針は、相変わらず白く曇ったままだ。

セレスティーヌが止まった杯の前。液体ではなく、唇が触れる縁。針は縁に触れて曇った。

銀は毒に反応する。銀の匙で掬って先に飲む毒見でも、液体だけでは届かない。だが、銀の布で杯の縁を拭ったなら。拭った布が公の場で曇れば、それは杯の縁に毒があった証拠になる。次の共杯の礼まで、杯に触れる機会が来る前に、銀の布を手に入れなければ。エレオノーラは立ち上がり、扉へ向かった。閉じた板の向こうに、衛兵の気配が薄くある。彼女は足音を立てぬまま扉の前で立ち、目だけを伏せて息を整える。

板の木目に染みた古い油の匂いが顔の近くに降りてきて、呼吸が生温く跳ね返る。外の灯りは控えの間へ淡い輪をにじませるばかりで、扉を隔てた向こうの盾が壁へ触れる衣擦れさえ、耳を澄ませば数えられるほど静かだった。

布は銀器の間にある。オスヴァルトなら磨き布を幾枚も管理しているはずだ。行けるのは夜明け前、衛兵の交代が緩む時刻。二人の侍女の足音が廊下から近づき、扉のすぐ外で止まった。エレオノーラは手を下ろさなかった。胸の内で、次の毒検めの段取りだけが、針のように光っている。

毒殺された皇后は戴冠式の朝に戻り、毒杯を拒んで皇帝の隣を勝ち取る第2話 銀の曇りを拭う夜