毒殺された皇后は戴冠式の朝に戻り、毒杯を拒んで皇帝の隣を勝ち取る
第3話 銀の布と静かな毒
衛視長の手袋が机の上に置かれた。白い革の指先だけが墨で汚れている。控えの間の燭台は短くなり、火の先がわずかに傾いでいた。部屋の隅には夜の冷えが沈み、墨と蝋の匂いがかすかに混じっている。
「宗務院ではございません。皇后宮の監置へ、でございます」
衛視長はそう言って、二枚の書類を差し出してきた。声は低く、しかし戸惑いを隠しきれていない。侍医補佐の校合印が押された健康監置受託書と、身柄の副本受理を示す控えだ。エレオノーラは一文字ずつ目で追い、最後の署名欄に筆を置いた。紙面に残る校合印の朱が、指先にじわりと染みるようだった。
「よろしいのですね」
「ええ。私の侍女は、私の宮で休ませます」
彼女は衿元の真珠に指を触れ、顔を上げた。真珠はわずかに汗ばんだ指先を冷やし、鼓動を落ち着かせてくれた。
「銀器の間の毒見役に、書状を。銀の磨き布を、杯の再検め用として借り受けたいと」
「ただちに」
衛視長が下がると、控えの間は静かになった。遠ざかる足音が石廊下へ吸われていった。エレオノーラは受託書の副本を袖へ入れ、オスヴァルト宛ての書状控えを灯りに透かす。まだ墨の艶が残っていた。火に透かした紙の繊維が、細い川のように光をたゆたわせる。彼女はそれを折りたたみ、胸元へしまった。
皇后宮の侍女監置室は、中庭から一本外れた小部屋だった。窓はなく、格子越しの灯りだけが薄く落ちている。石壁に沿って木の薬箱が置かれ、乾いた草の匂いが鼻先をかすめた。マルガリータは簡素な寝台の端に座り、エレオノーラが入ると顔を上げた。目の下の隈が濃く、唇のかさつきが灯りでもわかる。
「陛下……私は」
「休みなさい。安静指示は出してあるわ」
エレオノーラは傍らの侍女二人に、湯の取り替えと夜半の検温を短く言いつけた。医官補佐が置いていった包帯の巻き直しも、明朝まで控えるようにと添える。寝台脇の水差しに指先で触れると、陶器の冷たさが手の甲まで伝わった。
「申し訳ございません、ご迷惑を」
「迷惑ではないわ。あなたの目撃がなければ、今ごろ私は何も掴めなかった」
肩を包む薄布を掛け直して、エレオノーラは小声で言う。マルガリータの膝の上では、握りしめられた指が白く強張っていた。
「ここで待ちなさい。次は、私が動く番よ」
マルガリータは何か言いたげに唇を開いたが、こくりと一度だけ頷いた。
銀器の間は冷えていた。壁の燭台は磨き抜かれ、銀製品の列が息を呑むほど静かに並んでいる。磨かれた卓の上で、金杯が布に包まれたまま置かれている。オスヴァルトは暖炉から離れた場所に立ち、書状を二度読んでから顔を上げた。銀の匙を磨く布の音だけが、彼の足元で途切れていた。
「陛下、毒見は液体だけを確かめるものとご存じですか」
「ええ、知っているわ」
「では、杯縁はどなたが拭われるのです」
「私自身が。皇后が、公式の場で検めるの」
オスヴァルトの指が一度、台帳の背をなぞった。その所作には、彼なりの迷いが滲んでいた。彼は卓の下から銀の磨き布を取り出し、平らに広げる。白い光が布目を幾筋も走った。銀の繊維が蝋燭の火を細かく反射し、薄い霜が降りたように見えた。
「銀の布は、杯の再検め用として台帳に記します」
彼は太い文字で一行を書き足し、布を折って差し出した。
「液体と銀匙しか、毒見の記録には残せませぬ。……おわかりの上でお借りください」
エレオノーラが布を受け取ると、布はひやりと手のひらに重かった。折り目の内側には、台帳用の粉がわずかに残っている。オスヴァルトは一礼して台帳を小机へ置く。その背が扉の脇へ遠ざかった。退室の間際、彼は振り返らなかった。
「毒見役には、守らねばならない沈黙もあるのでしょう」
「記録の上では、何も」
オスヴァルトの声は低く、それ以上は続かなかった。沈黙が落ち、蝋の灯りがぱちりと鳴った。エレオノーラは布を胸に寄せ、彼の残した台帳へ視線を落とした。彼が退室したあと、別の足音が二組、扉の向こうで止まる。外套の金具が鳴り、ライオネルが入ってきた。後に私兵が一人、片膝を突く。
「下がれ」
私兵は返事もなく下がり、扉がきっちりと閉まる。彼の声で、銀器の間はより静まった。ライオネルはエレオノーラの手元だけを見て、歩みを止める。
「借りたな」
「杯縁の毒を、公の場で拭って見せます。銀は、毒に触れれば曇る」
「証拠としては、その曇りも弱いと言ったはずだ」
「弱くても、杯の縁に銀を当てる公式の機会はこれまでありませんでした。次は違う」
ライオネルは短く息を吐き、指の先を袖口に押し込んだ。袖口の金具が、小さく音を立てる。
「公には支持できぬ。それでも、皇后宮の外に私兵を一人置く」
彼は上着の内から折り畳んだ文書を出し、卓の端へ置いた。
「表向きは衛視長の副本と合わせ、夜間の警備に紛れさせる。これが護衛の許しだ。毒見役とは別に、第二の杯点検を命じる政令も発した」
「なぜ」
エレオノーラの声は静かだった。
「死なれでもしたら、こちらの政権が危うい。それだけだ」
目が合った。笑みはない。灯りの影が、二人の間を一筋だけ隔てていた。エレオノーラは文書を取らず、一歩だけ近づいた。
「冷たい理由をお付けになるのね」
「互いに、都合のいい事実だ」
彼は政令の控えを手元に残し、文書をエレオノーラの方へ押した。彼女が手に取ると、紙はライオネルの体温で生ぬるかった。彼女は文書を袖に滑り込ませ、彼の指先が残した温みを手のひらに留めた。
皇后宮の控えの間へ戻ると、先客がいた。暖炉の火が弱まり、部屋は薄闇に沈みかけている。カタリナが窓辺の椅子に腰かけ、燈火を見もせずに髪飾りへ指を回している。彼女の輪郭だけが、月明かりで青白く縁取られていた。
「遅かったのね。悪い知らせほど、足が速いものかと思っていたけれど」
「お待ちいただくお客ではなかったわ。何の御用かしら」
カタリナは立ち上がり、長い影を壁へ落として口を開いた。スカートの裾が音もなく床を掃いた。
「皇后辞退の噂が、議会の廊下にまで届いているわ。次の共杯の礼でまた退出なされば、今度こそ体調不良では済まない」
エレオノーラは返事の代わりに、袖から銀の布を出した。柔らかな布目が燈火を吸い、淡く浮き上がる。布を持つ手を掲げると、光が指の輪郭を薄く浮かべた。
「次の共杯の礼では、杯縁を拭うわ。公の毒検めをするわ。見たいなら、星の間へいらして」
カタリナの瞳が細くなった。指が髪飾りから外れ、スカートを小さく握る。彼女は何かを探るように、エレオノーラの顔を眺めた。
「そんな布一枚で、何が変わるとお思いなの」
「変わらなければ、ますます逃げられぬのでしょう。私はもう、毒杯へは唇をつけぬもの」
「それは皇后の責務放棄ではなくて?」
「体調不良にお付き合い願うよりは、進歩かと」
カタリナは唇を引き結び、足早に扉の外へ出ていく。整った顔立ちが、怒りで硬質な仮面のようだった。廊下の冷気が控えの間へ入り込んだ。エレオノーラは動かず、閉じかけた扉の向こうへ声を届ける。
「次の共杯の礼では、杯縁を拭うわ」
扉の外で、私兵の鎧が一度、硬く鳴った。