FeverStory

毒殺された皇后は戴冠式の朝に戻り、毒杯を拒んで皇帝の隣を勝ち取る

第4話 白薔薇の沈黙

扉の外の鎧の音は、まだ返事ではなかった。エレオノーラは控えの間の机へ戻り、銀の布を燈火の下へ広げる。針の曇りを布へ写した跡は淡く、指でなぞるまでもなく白く煙っていた。彼女は扉を開け、壁際に控える私兵へ声を低く落とした。

「銀の布と、西回廊の杯の納め台。歌姫の控え楽屋。この三つを夜通し見張りなさい。誰が触れ、誰が近づくか。名と時刻を」

私兵は兜の奥から目だけで応じ、片膝をつく。

かすかに革の軋む音がして、兜の吐息孔から白い息が漏れる。エレオノーラはその従容とした沈黙に満足した。夜の冷えが床石から立ちのぼり、跪いた膝のあたりに薄く澱んでいる。彼女は片手で裾を払い、壁際の燭台へ目をやった。火が傾いで、兜の縁に橙色の筋を走らせる。

「それから、侍女監置室へ書状を」

エレオノーラは短く綴った紙を折り畳んだ。銀の布の縫い目、監置室の窓の向き、その二つだけを問うている。封蝋はしない。皇后宮から出る私兵の手は、衛視長の副本という肩書きによって、夜間の廊下でも止められない。

「マルガリータへ。返事を待つわ」

私兵は書状を受け取ると、足音も薄く廊下の闇へ消えていった。

侍女監置室の前には若い衛兵が一人、壁に背を預けて眠気と戦っている。私兵が文書をかざすと、衛兵は灯りへ目を近づけてから、素直に脇へ退いた。

マルガリータは寝台の上で膝を抱えていた。差し出された紙を開き、細い文字を追う。彼女は一度だけ息を呑み、裏面を確かめてから私兵へ顔を向けた。

寝台の敷布は冷たく、彼女の指が紙の縁を小さく折り曲げた。灯りを近づけると、インクの匂いが詰め所の黴びた空気を一瞬だけ押しのける。彼女は喉の奥を湿らせるように唾を飲み、監置室の隅へ寝かせてあった銀の盆へ目を走らせた。窓格子が落とす影が、寝台の足元を斜めに区切っている。

「銀の布の縫い目は、杯を左へ寝かせたまま縫い直した跡です。左の縁だけ、二針ほど間隔が詰まっております」

声は掠れていたが、明瞭だった。

彼女は証言しながら、両の手を膝の上で組み、指のしもやけを親指でさすっていた。声の終わりが監置室の壁に当たって、わずかに震えて返ってくる。それを打ち消すように、私兵の鎧の鎖が息のたびにちり、と鳴った。

「窓は、西回廊の給仕口へ向いています。あの窓からは杯の納め台の脚が見えるはずです」

私兵は無言で頷き、監置室を出た。廊下の冷気が、マルガリータの寝台まで届く。

王宮西回廊の杯の納め台は、夜になると人気が絶えた。私兵の報告を受け、エレオノーラは銀の布を袖へ忍ばせて廊下を進む。壁の燭台が三つおきに灯り、彼女の影を長く伸ばしていた。

台の前へ立つと、式典のときの白い敷布は外され、むき出しの金具と木肌が見えていた。彼女は銀の布を台縁へ押し当て、ゆっくりと滑らせる。布が手応えを変えた。白薔薇の香油。粘りはないが、布目に甘い匂いが移り、燈火の下で薄く虹色に光った。

エレオノーラは袖口をたくし上げ、布を二つ折りにして台の縁を拭う。金具の継ぎ目に布が引っかかるたび、糸がぴり、と鳴く。彼女は姿勢を低くして、目線を台の高さへ合わせた。木肌に残る磨き痕が、燈火を拾って鈍く波打っている。甘い匂いは奥へ進むほど濃くなり、鼻の奥へ粘りつくようだった。

「おやめください」

ギルベルトの声だった。西回廊の柱の陰から、彼は手袋を外した左手を上げて近づいてくる。その後ろに私兵はいない。宮内の近道を知り尽くした宰相には、あの程度の見張りは筒抜けだった。

「これを拭えば、杯の縁にあった毒の痕が公の証拠になる。あなたが洗い流したものを、もう一度ここへ現すだけよ」

ギルベルトは銀の布が写し取った虹色の筋を見下ろし、小さく息を吐いた。

「私は、洗うことしか選べなかった」

「旧家の連判ゆえに、かしら」

ギルベルトの指が止まった。柱の影と燈火が半々に彼の顔を分けている。

「それ以上は、私の口からは」

「沈黙で結構。その沈黙が、すでに答えだわ」

エレオノーラは銀の布を胸元へ戻す。ギルベルトは何かを言いかけたが、代わりに薄く頭を下げた。彼の白い手袋の指先から、同じ白薔薇の香りがほのかに漂った。

渡り廊下へ出ると、冷たい夜風がドレスの裾を払った。先ほど私兵に渡した無記名の問い状が、歌姫の控え楽屋から戻ってくるはずの経路だった。だが、待ち構えていたのは返書ではなかった。

「皇后陛下ともあろう方が、真夜中に歌姫と文のやり取りとは」

カタリナが渡り廊下の中央に立ち、私兵の手から封筒をひったくるところだった。私兵は衛視長代理の名を唱えて進路を塞ぐが、カタリナは封筒を胸に抱えて譲らない。

「私兵ごときが、オーベルシュタイン家の者を押しとどめるおつもり?」

「押しとどめよ」

エレオノーラの声は静かで、夜の石より硬かった。私兵が剣の柄へ手をかける。カタリナの私兵も一歩前へ出た。しばし睨み合い。渡り廊下の向こうから早足の足音がして、衛兵が一人、衛視長代理の委任状を掲げた。

「衛視長代理の名により、この文書は皇后宮へ移送されます。先方は陛下の御印を受けております」

カタリナの指が封筒から剥がれた。彼女は舌打ちに似た吐息を残し、宗務院の方角へ靴音も高く去っていく。エレオノーラは封筒を受け取ると、振り返らずに私兵だけを労った。

「ご苦労だったわ」

控えの間へ戻り、銀の布を灯りに透かす。白薔薇の痕。歌姫の返書には、一筆だけ。『杯が一瞬重く傾いだ』。エレオノーラはその紙を折り畳み、銀の布の上へ並べた。

「これを陛下へ。開式順は変えない。ただ、証言者の安全確保だけを」

私兵が文書を携えて下がる。しばらくして、一枚の紙が戻ってきた。朱色の印の下に、一文字だけ記されていた。

「許可」

明け方前の空気が窓から流れ込む。エレオノーラは三つの品を机の上で縦に並べ、指先で位置を整えた。息を一度、吐く。長くはかけられない。夜明けの鐘が鳴るまで、もう半時もない。

扉が勢いよく叩かれた。私兵が外で名乗る。

「宗務院より、審問官がお見えです。皇后陛下へ面会を求められております」

扉を開けさせると、黒いローブの審問官が二人、告発状を胸の高さに掲げて立っていた。年嵩の方が、抑えた声で条項を読み上げる。

「皇后エレオノーラ・フェルゼン。儀礼妨害の廉により、宗務院の審問に応じられよ」

エレオノーラは机の前から動かない。私兵が一歩、扉の外へ踏み出した。その背を、廊下の奥からゆっくりと近づく足音が追う。黒い外套に銀の刺繍。ライオネルが控えの間へ姿を現した。

「その告発状、開式前の手続きを欠いている」

ライオネルの声が、冷たい廊下に通った。私兵が告発状の不備を指摘し、一歩も引かずに審問官へ詰め寄る。審問官たちは目配せを一つ交わし、文面を二度検めた。

「手続きの確認が先決だ。よろしいか、陛下」

ライオネルは答えず、エレオノーラの机の前まで歩み寄る。彼女は銀の布の上の白薔薇の痕へ目を落としたまま、初めて口を開いた。

「壁が、動いたわ」

ライオネルが燈火を見た。審問官たちが辞去したあとの静けさが、明け方の空気に満ちていく。

毒殺された皇后は戴冠式の朝に戻り、毒杯を拒んで皇帝の隣を勝ち取る第4話 白薔薇の沈黙