FeverStory

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、冷徹皇帝と再び毒杯の席につく話

第1話 毒を報せる白百合

白百合の涙は、毒を報せている。リゼリアは祭壇前の冷たい石床に立ち、自分の胸元へ視線を落とした。戴冠式の朝、聖堂にはまだほの暗い空気が満ちている。香の煙が柱にからみ、鐘は七つ鳴る前だ。

首飾りの花弁が一枚、内側に折り畳まれている。

指先でそっと撫でると、絹のような花弁は固く閉じたまま戻らない。王族へ向かう致死毒が三歩以内にある証だった。喉の奥が乾く。前回の死の記憶が、背中を這い上がってきた。

「聖油の壺は、どこに」

控えていた侍女が首をかしげる。

「祭壇の左、銀の皿の上でございます」

リゼリアは歩き出した。裾が石畳を擦る音だけがやけに近い。祭壇脇には戴冠式の塗油に使う聖油が、小さな銀壺に納められていた。彼女は近くの銀器を一本取り、壺の口を開ける。とろりとした油が銀の匙の上で揺れた。

息を詰めて、待つ。

油の表面が、ゆっくりと青黒い膜に変わった。まるで水面に墨が滲むように、毒の色が広がっていく。リゼリアは一瞬目を閉じた。やはり、だ。聖油に宵染みが混じっている。無味無臭。銀に触れれば青黒く浮く、あの毒。

「お下がりなさい」

侍女に命じ、彼女は青黒い匙を布で受けて掲げた。そのまま振り返る。聖堂の長椅子には、すでに参列者が揃い始めていた。

「皆さま、こちらをご覧ください」

声は思ったより通った。最前列にいた神官長が立ち上がる。

「皇后陛下、儀式前でございます。なにを──」

「聖油が、毒されています」

リゼリアは銀器を高く掲げた。祭壇の蝋燭の灯りを受けて、青黒い膜が鈍く光る。静寂が落ちる。

「この青黒い変色は、毒物が銀に触れたときに現れるものです。無味無臭、されど銀を汚す毒。どうか、この聖油で塗油をなさいます前に」

彼女は息を継いだ。視線をまっすぐ、聖堂の中央に据える。カイゼルが参列者の最前列から立ち上がり、こちらを見ている。銀の髪が灯りに透け、青い瞳が細められていた。

静寂が破れたのは、その直後だった。

ざわめきが波のように広がる。誰かが悲鳴を上げ、侍従が走り出し、警護の兵が祭壇へ駆け寄ってくる。人々が押し合う中、リゼリアはふと視線を巡らせた。

聖油の壺のそばに、レオンハルトが立っていた。皇太后派の若い貴族。白い手袋をはめた指先が、わずかに青黒く染まっている。彼女が見たのは一瞬だった。彼はすぐにその手を背に回し、袖で隠した。

リゼリアは口を開かなかった。まだ、名指しでは追えない。あの染みの持ち主を、この場で暴くだけの物証が揃っていない。

「皇后」

低い声が間近で響く。振り返るより早く、腕を掴まれていた。カイゼルの手だ。指が細く、氷のように冷たい。

「こちらへ」

有無を言わせぬ口調だった。彼は彼女の腕を引いた。銀器はまだリゼリアの手の中で青黒く濡れている。その事実だけが、今の彼女を支えていた。

皇后の控えの間へ移されるまで、さほど時間はかからなかった。扉が閉められると、外の喧騒が急に遠くなる。カイゼルは彼女の腕を離し、一歩退いて壁の前に立った。彼の青い瞳は感情の読めない色をしていた。

「聖油の毒を、どう知った」

「我が身を守るための知識です」

リゼリアは銀器を近くの卓へ置いた。指先が震えている。気づかれぬよう、祈りの形に組む。前回の記憶など、この男に話して信じさせることなどできない。できても、はいそうですかと受け入れられる類の話ではない。

カイゼルは腕を組んだ。長身を壁に預けたまま、しばらく黙っている。やがて、彼は口元に薄い笑みを浮かべた。

「面白い女だ」

「恐れ入ります」

「皮肉ではない。今度の戴冠式で毒が使われる可能性は、俺も承知していた」

リゼリアは顔を上げた。カイゼルの表情からは、いまだ何も読めない。彼は襟元を直すように指を動かし、窓の外へ目を遣った。朝の光が差し込み始めている。

「聖堂は騒然としている。参列者は当分、東翼に留め置かれる。その間に、お前はどう動くつもりだ」

「毒の出所を調べます。聖油はどこから持ち込まれ、誰の手を経て祭壇に並んだか」

「それで、犯人が捕まると思うか」

「思ってはいません。ですが、いずれは」

カイゼルが小さく笑った。音のない笑いだった。

「皇后。お前が今日したことは、お前自身を次の毒の的にする。聖堂であれを見せれば、聖油に毒を混ぜた者が出処を封じるのは目に見えている」

リゼリアは黙った。指先の震えはもう止まっていた。彼の言う通りだ。前回の死の記憶が、それを教えてくれている。彼女は次の毒杯の席を知っている。公開礼拝の場で、第二の毒が盛られることを。

「罠にしましょう」

リゼリアは言った。カイゼルの青い瞳が、ゆっくりと彼女へ向けられる。

「毒杯の席を、罠として開くのです。私が毒見役を選び、聖油の出所と輸入元を調べた上で、誰が動くかを見る。それなら、陛下の疑いも晴れる経路を使えます」

カイゼルはしばし彼女を観察した。視線が頬から首、祈るように組んだ指先へと下りる。彼は壁から背を離し、一歩、彼女に近づいた。

「いいだろう」

声が、予想よりずっと近い。リゼリアは息を詰めた。

「毒杯の席を罠として再開する。次に毒を飲むのは、私だ」

リゼリアはまばたきもせずに彼を見た。彼はまた薄く笑う。

「お前が毒見役を選ぶのなら、その前に俺が飲む。そうでなければ、この取引は成り立たない」

「……なぜ」

「皇帝が口をつけるとなれば、毒を仕込んだ者は動かざるを得ない。お前は、その動きを見つければいい」

カイゼルの言葉には迷いがない。リゼリアは彼の顔から目を離せなかった。

「私は死なない」

自分の声だとは、一瞬思えなかった。カイゼルが微かに眉を上げる。

「私も、あなたも。この罠で死なせるつもりはありません」

ようやく、彼と視線が真正面で噛み合った。しばらくの沈黙。外から、聖堂の扉が開く重い音がかすかに聞こえる。

「よかろう、皇后」

カイゼルはそう言って、扉へ向かった。彼が合図を送ると、外に控えていた侍従が近づいてくる。

「聖堂の聖油壺と銀器を、皇帝近衛の管理下で封印保管させろ。参列者は東翼に留め置いたままに。皇后の名で、公開の席では何も裁かせない」

命令は速かった。リゼリアも彼のあとに続いて控えの間を出る。皇帝執務室へ向かう道中、彼女は背筋を伸ばし続けた。心臓は静かに鼓動を刻んでいる。

皇帝執務室に着くと、カイゼルは即座に、聖油の輸入に関する名簿を棚から取り出した。分厚い皮表紙の台帳で、問答無用に机の上へ置かれる。

「聖油の輸入元を調べたいと言ったな。公の記録はここにしかない」

リゼリアは頁を繰りながら、目を走らせる。輸入元として記されていたのは、王宮にも商いを収める商会の名。彼女の記憶と重なる。皇太后派の息のかかった商会だった。前回の記憶の果てで、彼女が掴むべき手掛かりが、名簿の上にたしかに存在する。

「伺いたいことが二つ」

「言え」

「戴冠式の毒見役を、私が選ぶ権限をいただきたい。公開礼拝の場では、私の選んだ者に毒見をさせます」

カイゼルは卓の縁に手を置き、彼女を制した。

「それと、聖油の輸入元に付された検品担当の名を、ここで確認したい」

「ならばまず、印を借りるがいい」

彼は腰帯から皇帝の印を外すと、無造作に彼女へ差し出した。リゼリアは掌で受け取り、冷たい印の重みに背筋を伸ばす。傍らでは、名簿がまだ開かれたまま、皇太后派の商会の名を静かに浮かび上がらせていた。

カイゼルが机越しに身を乗り出し、低く言った。

「毒杯の席を罠として再開する。次に毒を飲むのは、私だ」

リゼリアは印を握りしめたまま、彼を見据えた。鼓動が一つ、深く沈む。

「忘れるな。私も、死なない」

言葉は返さなかった。答えの代わりに、彼女は背筋を伸ばし、ひとの呼吸の分だけ彼を見つめた。

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、冷徹皇帝と再び毒杯の席につく話第1話 毒を報せる白百合