毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、冷徹皇帝と再び毒杯の席につく話
第2話 黒百合の封蝋
「殿下、こちらです」
ティナの声が隣室からかかった。ひそやかな、だが芯のある声だった。午後の光が窓から斜めに差し込み、浮かぶ埃を金に染めている。皇帝執務室の卓には、厚い封印台帳が置かれている。真鍮の留め金が蝋で固められ、まだ開くことを許されていない。窓の外では、中庭の木々が午後の風にざわついている。
リゼリアは卓の前に立った。床の石に靴音がひとつだけ吸われる。皇帝の印は、カイゼルの指先から彼女の掌へ渡されたあと、封蝋の上でわずかに迷っている。
「私が開けてよいのですか」
「そのために印を渡した」
カイゼルは机の向こうに座り、片肘をついて彼女を見ていた。青い視線は静かで、しかしどこか試すような光を帯びている。蝋は固い。印を押し当てると、留め金が外れる音が部屋に小さく響いた。錠が息を吐くような、かすかな金切り音だった。
息を整えるように、彼女は一度まぶたを閉じた。リゼリアは一頁めから繰る。古い紙の縁が指先にざらつく。指が止まったのは、検品記録の欄だった。聖油の輸入元として記された商会の名は、確かに皇太后派の息のかかった相手だ。けれど検品担当の名だけが、墨を流したように欠けている。そこだけがぽっかりと墓穴のように沈んでいる。
「この台帳、貸し出しを禁じたほうがよろしいかと」
そう言って、欠落を指で押さえた。白い指先が、痕跡の輪郭をそっとなぞる。
「写しを作る前に、誰が見ても同じ結論になる証拠を揃えましょう」
カイゼルは卓の縁に置いた手を動かさない。彼女の顔を見たまま、低く言った。
「いいだろう。だが、この台帳を皇后宮へ持ち出すことは許さない。検品担当の名を欠かせた者は、お前の動きを待っている」
「では今夜はここで。私も、もう一度だけこの頁を許していただきます」
カイゼルの指が卓を叩く。硬い木をはじく短い音が、認めたしるしだった。
侍従が呼びに来るまで、さほど時間はなかった。ヴィルヘルミナが入室してきたのは、午後の鐘が中庭に満ちて少し経った頃だ。黒い礼装の袖が、乾いた空気を切って卓の前で止まる。かすかに沈香の匂いがした。
「お呼びと伺いました」
ヴィルヘルミナは真珠の手を胸の前で重ねた。背が高く、首すじが薄暗い部屋の中で白く浮いていた。視線はカイゼルに向けられている。リゼリアの存在は、まるで卓上の燭台と同じもののように眺めている。いや、彼女は最初からリゼリアのいる空間ごと無視していた。
「この台帳に、検品担当の記しがない」
「写本の際の誤記でしょう」
即答だった。けれど、ヴィルヘルミナが袖口を直す指に迷いはない。白い指が黒い布をなぞり、また胸元へ戻る。
「なぜ、保管庫の鍵の本数をお訊きになるのですか」
皇帝の問いには答えず、ヴィルヘルミナはわずかに笑んだ。歳月のえも言えぬ気品が、口元を鋭く飾っている。
「いえ。そなたが書類を管理する側だから尋ねる」
カイゼルの声は穏やかだったが、氷のようでもあった。
「聖油を納めた商会は、いずれも宮廷と長い付き合いがある。誤記は、この台帳の写本にはひとつもない」
「……三本です」
ヴィルヘルミナがややあって言った。目を伏せると、まつげの影が頬に落ちる。
「保管庫の鍵は、常に三本。皇太后陛下が一本、私が一本、あとは礼拝司祭のもとにある」
「下がってよい」
カイゼルが言った。ヴィルヘルミナは胸元でドレスを軽く摘み、指先だけを下げて退出した。裾が床を擦る音が、消え入るように遠ざかる。扉が閉まるまで、リゼリアとカイゼルの二人は言葉を交わさない。
「三本、とおっしゃいました」
リゼリアが口を開いた。声が狭い部屋に染みる。
「保管庫の鍵の本数を、なぜあれほど速く」
カイゼルは答えず、護衛に台帳の貸し出し禁止を命じた。侍従が脇で畏まって名を連ねる。羽ペンの先が紙を走る音だけが続いた。ややあって、リゼリアは声を潜めた。
「鍵は、本当に三本でございますか」
「以前は四本だった」
「では──」
扉の外で足音が聞こえ、二人は同時に入口を振り向いた。革靴が石畳を踏む、規則的な音だった。レオンハルトが扉の向こうから執務室を覗き込み、白い礼服の襟元を正す。銀髪の間から、白い手袋の先が覗いた。襟元からは、かすかに香油の匂いが流れてくる。
「公開礼拝の備品と警備について、ご相談したく参りました」
レオンハルトがカイゼルに頭を下げたあと、リゼリアへ目を向ける。三歩ぶんの距離から、彼は音もなく彼女へ近づいた。空気が薄くなるような気配があった。
胸元で冷たい動きが走る。首飾りの白百合の花弁が、一枚内側に折れていくのが分かった。
(──また)
リゼリアは息を浅くした。心臓の奥が早鐘を打つ。だが、その時にはもう、カイゼルの青い瞳が彼女の首元をにらんでいた。何かに目を据えている。次の瞬間、皇帝は卓を指で二度叩いた。
「式典前の相談は余裕をもって来い。入れ」
「恐れ入ります。実は──」
「よい。そこまで」
ほとんど退けるように言って、カイゼルは身を乗り出す。
「警備の配置は明日の昼までに、礼拝司祭と詰めろ。お前には任せる」
レオンハルトは深く、長く頭を下げて退出した。銀の髪が腰のあたりまで揺れている。リゼリアは、背中に走った冷たいなにかを静かに逃がす。彼の香油の残り香が、空気の下に沈殿している。カイゼルが執務室の扉を閉めたとき、部屋に残ったのは二人だけだった。鍵がかかる音がやけに大きく響く。
「お前、今の距離に何を」
「彼が、近づいたのを」
彼女は首飾りに触れずに外した。折れた花弁が、内側からほんの少し白い線を見せていた。込み上げるものは恐怖ではなかった。むしろ、問い詰めたい相手がやっと姿を見せた高揚に似ている。指先は冷たい。
「前回も聖油だけではなかった」
静かに区切って言うと、カイゼルの視線が部屋から他の音を消した。闇が一瞬だけ深くなる。
「杯に毒がありました。塗油の聖油、そして祝杯」
「聖油の壺は大小、二つ押収している」
カイゼルが近衛兵に守らせた証拠棚を見やる。封印を解かずに持ち込まれた二つの壺が、格子の奥で鈍い光を帯びていた。祭式の油が、静かに沈黙している。
「ならば小壺の封蝋から開けさせてはいただけませんか」
リゼリアはカイゼルを見据えて言った。
「封が、聖油が通った道を残しているはずです」
「……小壺だけだ」
皇帝が侍従に命じて、小壺だけを卓上に運ばせる。銀器の懐炉がようやく冷えた室内で、封蝋は蝋の香りをかすかに漂わせた。
リゼリアが灯りに、深い藍色の封蝋を翳す。指先に封蝋の凹凸が伝わってくる。そこに押されていたのは、黒百合の紋章。王宮のどの家門のものでもない。この国では、と慣例として知らないはずの紋章だった。
彼女は背筋を伸ばし、低く告げた。
「これは、王家の印ではない」
カイゼルは答えない。彼の青い瞳が細くなり、乾いた笑みに近い息が唇の前で止まる。
遠くで、扉の下を隙間風が鳴っていく。部屋の空気が、夜の色を帯びる。