FeverStory

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、冷徹皇帝と再び毒杯の席につく話

第3話 逆さまの黒百合

黒百合の紋は、この国の聖具には決して使われない。燭台の火が揺れるたび、封蝋の凹凸が生き物のように浮き上がる。リゼリアは深く息を吸い、小壺を銀盆の上へ戻した。

「外の商会のものでもありません。帝室御用達の羽根百合か、王家の双剣。どちらかでなければ聖油の封印は切れません」

声が低く通る。カイゼルは卓の縁に指先を置き、封蝋から彼女へ視線を移した。

「お前はこの紋を見たことがあるな」

「記憶には、ありません」

「ならばなぜ『王家の印ではない』と断言する」

リゼリアは一瞬、唇を引き結ぶ。胸の奥で、死の朝の記憶が薄く痛んだ。あの日、祭壇の酒杯に浮かんだ青黒い膜と同じ色が、封蝋の奥に沈んで見える。

「この紋は聖油の壺に押されるべき場所が、逆さまです」

彼女は封蝋の上に指をかざす。花弁の先が下を向いている。

この一文が効いた。カイゼルの瞳から、わずかに表情が消える。彼は侍従へ顎で合図し、小壺を証拠棚へ戻させた。鍵のかかる音が静かに落ちる。

「聖堂法務官に写しを取らせろ。ただし、この紋については俺と皇后以外に語るな」

「それは、なぜ」

「紋を語る者は、次にその花を抱えて眠る」

カイゼルの声は抑揚がない。窓の外、夕暮れが大聖堂の尖塔を赤く染めていた。リゼリアは背筋を伸ばす。心臓は、まだ速い。

公開礼拝は日没後、回廊の燭台へ火が入る時刻から始まる。それまでに、祭儀用の酒杯は儀礼卓へ並ぶ手はずだった。リゼリアは侍女に命じ、月光草の煎じ薬を細い銀瓶へ詰めさせると、礼装の内側に隠し持つ。

「礼拝の間、あなたの首飾りの花弁が動いたら、この場で咎めず私へ目を寄越すように」

近衛兵が聖油の壺の前から動く。カイゼルが彼女の耳許で短く言い、先に歩き出した。

公開礼拝場の空気は、聖油の香りで甘く満ちていた。集った貴族たちは整然と頭を垂れ、帝都の夏の夕闇が窓の高い位置から差し込む。リゼリアは祭壇へ進みながら、手袋の下で指を組む。背中をすべる衣擦れの音さえ、やけに大きく響く。

礼拝司祭が祝詞を唱え、二人の捧酒の盃が祭壇へ捧げられる。次いで毒見役の小さな席が設えられ、ティナが白い衣裳で進み出た。彼女はリゼリアの顔を見て、かすかに微笑む。リゼリアも、微笑みで返す。そのとき。

胸元で、白百合の花弁が一枚、内側へ折れた。

リゼリアは息を止める。視線だけを動かす。レオンハルトが、貴族席の脇から儀礼卓の傍らへ身を移していた。白い手袋が、杯の影に触れるほど近い。汗がこめかみを伝う。

「お下がりなさい、ティナ」

声が裏返るのを抑えて、リゼリアは一歩を踏み出す。だが、遅かった。

ティナが杯を両手で受ける。口許へ運んだ瞬間、指先から力が抜けるように、その身体が床へ崩れた。

「ティナ!」

リゼリアは駆け寄り、倒れた身体を抱え起こす。青白い唇。息は、もう殆どない。

「月光草を」

彼女は銀瓶の蓋を歯で開け、煎じ薬をティナの唇へ流し込んだ。全員の視線が突き刺さる。静まり返った礼拝場に、リゼリアの衣擦れとティナの不規則な息だけが聞こえる。

ややあって、ティナの喉が震えた。

「は、……ひゃ、くご……」

か細い声。リゼリアは耳を寄せる。

「百日草では、ありません……」

「ティナ」

「私が、代わったから……」

彼女の手が、リゼリアの指を掴む。それきり、また目を閉じた。息は戻っている。

リゼリアは抱えた肩を静かに床へ下ろすと、銀瓶を握り直した。染みてくる涙を自覚しないまま顔を上げる。皇太后派の列から、杖の音が響いた。

「皇后陛下」

ヴィルヘルミナが人垣を割って進み出る。紫の長衣が石畳を引き、後ろの貴族が一歩引いた。

「記録にもない毒消しを、しかも儀式の最中に妃殿下が備えていた。これはどういう了見か。聖堂で毒を暴いた翌日、おまえは魔女の根回しそのものをしている」

「記録がない? それはわたくしの記録が、おばあさまの台帳より少し精密だからです」

声の震えを、リゼリアは膝に力を込めて押し留める。

「月光草の煎じ薬は、王立薬草園が古くから献上する品。宵の祭礼の折、皇太后宮へも毎年納められています。私物ではなく、帝室の茶箱にあった救急薬を使いました」

ヴィルヘルミナが唇を歪めた。一歩、踏み出しかけたそのとき。

「下がれ、ヴィルヘルミナ」

カイゼルの声が、場に冷たい楔を打った。

「この杯は俺が飲む」

周囲がさざめく。リゼリアは愕然としてカイゼルを見た。彼は祭壇の前に歩み出る。杯が、まだそこにある。

「皇帝陛下、毒が入っているやも知れぬ盃を」

礼拝司祭が青ざめて進み出る。カイゼルは答えず、杯を掲げた。

「毒見役が倒れた盃を封蝋し、聖堂法務官へ渡す。だが、もう一つ、祭儀の杯が同じ毒ならば」

彼はリゼリアを振り返る。青い瞳が、真っ直ぐに彼女を捕える。

「俺が受けてみよう。それがいちばん早い」

「なりません」

リゼリアの声が初めて乱れた。侍女が後ろで息を呑む。カイゼルは杯を下ろさない。

「近衛兵、この杯を皇帝の印で押収させよ。皇后が用いた煎じ薬は俺が備えた救急手順だ。以後、異を唱える者は次から公開の場ではなく尋問室で答弁する」

彼の宣言に、空気が裂ける。貴族たちの顔色が一斉に変わり、ヴィルヘルミナが黙ったまま一歩下がる。

「三名家へ家宅捜索の令を回す。皇太后派も例外ではない」

カイゼルは言い切って、リゼリアにだけ声を落とす。

「今度は家名を残し、家を解体する」

リゼリアは彼を見上げた。心の奥で、なにかが弾ける。礼拝が中止され、貴族たちが分離されるまで、二人の距離は三歩もなかった。

西控室へ続く廊下は、夕明かりが床の黒石を青く光らせていた。リゼリアはカイゼルの半歩後ろを歩く。足音の間隔が互いを探っている。

「レオンハルトを、西控室へ護送する手配を」

カイゼルが近衛兵へ命じる。リゼリアは息を整え、首飾りを外した。花弁が、また閉じている。折れた一枚の白が、最初から知っていたように萎れる。

「彼の手袋、見えましたか」

「左の甲か」

カイゼルは足を止めない。リゼリアは首飾りを握り直す。廊下の冷えた空気が、汗ばんだ首筋に沁みた。

「黒く、染んでいました。こんなものを手にしていて、杯に触れた後も平然と袖を直す」

「あの男は西控室で隔離される。黒い百合の指輪も、手袋の染みも、すべて令状の記録に書かれる」

リゼリアは聖堂西控室の前で立ち止まる。扉の内で、人の気配が淡く動く。カイゼルが近衛兵へ令状草案を渡し、控室の扉に背を向けた。

「あの朝、私が最初に疑ったのはあなたでした」

リゼリアの声が、暗い廊下に落ちる。

カイゼルは答えなかった。彼の横顔だけが、わずかに傾く。

「戴冠式の朝、聖堂の鐘が七つ鳴るまで、私は毒杯を二度、夢に見た。一度目はあなたが差し出し、二度目は私が笑って受けた」

「夢の話か」

「毒の道筋だけが、朝の帳の向こうに手を引かれているように見えて。それだけは、あなたにしか話せません」

リゼリアは指先で、ロウソクの熱を確かめるように目を伏せる。カイゼルが半歩、彼女へ近づいた。

「ならばその道を逆に辿れ。夢が示した物証と、いま床に転がっている毒杯を突き合わせる。理屈は捨てるな。手がかりだけ掴め」

彼の声は低く、けれど押しつけがましくはない。リゼリアはうなずいた。

「黒百合の紋と、レオンハルトの手袋。それから……今度は」

「白百合が閉じた道筋を記録する。お前の首飾りは、毒の吐息を拾う」

二人の足音が、西控室前の石畳に吸われる。廊下の果てで、誰かが咳払いをする。聖堂の鐘は、もう七度目を数えようとしていた。

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、冷徹皇帝と再び毒杯の席につく話第3話 逆さまの黒百合