FeverStory

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、冷徹皇帝と再び毒杯の席につく話

第4話 銀の匙が暴く青黒き痕

銀の小匙が、青黒く濁っていた。リゼリアはそれを盆の上へ戻し、指先で布をかぶせる。西控室前の廊下に、燭台の火が八つ。いつの間にか夜が落ちていた。硝子窓の外では風が薔薇垣を揺らし、石床の上へ細かな花影を落としている。

「花弁が、また閉じています」

彼女は首飾りを握ったまま、声を潜めた。指先には金属の冷たさより先に、毒へ反応した花弁の震えが伝わっていた。カイゼルが半歩、彼女の前に出る。廊下の向こうから、衛兵に挟まれたレオンハルトの足音が近づいてくる。規則正しいようでいて、石を踏む間隔がひとつだけ短い。

「止めなさい」

リゼリアが一歩踏み出した。左手に令状草案を掲げる。レオンハルトが足を止めるのは、彼女の指先まであと三歩。首飾りの折れた花弁が、音もなく内側へ萎れた。燭台の火が一斉に傾ぎ、二人分の影が壁の上で重なる。

「この距離で、首飾りが閉じました。王族へ向かう致死毒が、いま三歩以内にあります」

衛兵たちがレオンハルトの腕を取る。革と鎖の擦れる音が、思ったより大きく夜の廊下へ響いた。彼は軽く肩をすくめ、白い手袋をはめた手を持ち上げた。

「皇后陛下の装飾品が、私になにか」

「家宅捜索令状です。皇帝の印はここに」

カイゼルが令状を取り、レオンハルトの目の高さで広げた。封蝋に押された印が、燭台の火に赤く光る。カイゼルの指先は令状の縁を折り曲げぬよう、真っ直ぐに保たれていた。

「三名家への捜索はすでに令が回っている。お前の身体も、いまこの場で令状の対象とする」

カイゼルが片手を上げる。衛兵がレオンハルトの両腕を後ろに回した。金属の音が廊下に響く。

「左の手袋を外せ」

レオンハルトの動きが一瞬止まる。青白い顔が、それでも笑みの形を作った。口元だけが薄く開き、歯列の白さが覗く。

「皇帝陛下自ら、臣下の手袋を」

「令状に逆らうか」

カイゼルの声は低いまま、しかし廊下の空気を割るように通った。レオンハルトは唇を引き結び、ゆっくりと顎を引いた。カイゼルが一歩踏み込み、白い手袋の縁に指をかける。布がはがれるようにして外れる。手袋の内側には微かな汗の湿りが残り、空気に触れた瞬間に冷えた。露わになった左手の甲には、黒い蔦を刷いたような変色が指の付け根まで広がっている。

「銀器を」

リゼリアは小匙を受け取るとレオンハルトの左手に近づけた。甲へ触れるか触れないかの距離で、銀の面に青黒い膜が浮き、波のように広がる。燭台の灯りを受けて、その膜は一瞬だけ虹のように縁取られた。

「動かないで」

彼女が言うと、レオンハルトは鼻で笑った。

「その匙に毒が付いただけでは?」

「膜は、あなたの手の甲に反応しています。銀器に触れた毒の変色は、洗っても消えない」

リゼリアは小匙を布に包み、衛兵へ差し出す。布越しに小匙の温度がまだ生暖かく、彼女は指先に力を込めた。カイゼルが令状の端でレオンハルトの左手を示した。

「記録しろ。左手甲の青黒い変色。銀器による膜の浮遊。これを毒杯と同一の物証とみなす」

衛兵の一人が羽根ペンを走らせ、紙面にインクの角が立つ。

「待ちなさい!」

廊下の角から、ヴィルヘルミナが従者を引き連れて戻ってくる。外套の裾が乱れ、呼吸も整っていない。肩の飾り紐が片方だけ外れているのが、乱入の激しさを物語っていた。彼女はカイゼルとレオンハルトの間へ割って入ろうとした。

「これは不当な拘束です。レオンハルトは三名家の一員。令状なくして身体に触れるなど」

「令状は出ている」

カイゼルが皇帝の印を掲げる。ヴィルヘルミナの足が止まった。

「皇帝の印をもって命じる。この場を下がれ。貴女は明日、貴族院法廷で説明を求められる」

ヴィルヘルミナの口元がひきつる。彼女はレオンハルトを一瞥し、背を向けた。従者たちの靴音が遠ざかる。やがて廊下には燭台の灯りと、押し殺した呼吸の気配だけが残った。

「行け」

カイゼルが衛兵に命じ、レオンハルトは西控室から連行されていく。すれ違いざま、彼がリゼリアの耳元で囁いた。

「花弁、何度でも閉じればいい」

リゼリアは答えない。手のひらに食い込む首飾りの留め金だけが、感情の代わりに冷たかった。背筋を伸ばしたまま、彼の後ろ姿を見送った。胸の奥で、花弁が閉じる感覚よりも鈍い痛みが一つ落ちる。

皇帝執務室へ戻ったのは、月が南窓を越えた頃だった。蝋燭の火が卓上で二本、静かに燃えている。カイゼルは聖油輸入元名簿と払込証書を並べ、互いの余白を指でなぞった。紙の繊維が指先に引っかかり、古い墨の匂いが卓上に立ちのぼる。

「五年前、お前が死んだ後、俺は三名家を一人ずつ葬った。表向きは全員、馬車の事故や病だった」

リゼリアは彼の横顔を見たまま、動けなかった。胸のうちで、忘れたはずの遠い雨音が蘇るようだった。

「なぜ生きている私に言わなかった」

「言って、お前に二度目の死を背負わせるなと思った」

「それなのに、いま言うのは」

「お前が証拠の前に立ったからだ」

カイゼルが払込証書を彼女の前に滑らせる。皇太后派商会の印が、名簿の欄と同じ位置に押されていた。印影の朱が、蝋燭の炎を吸って暗い色に沈んで見えた。

「聖油の輸入元は、レオンハルトの実家が裏で回していた商いに繋がっている。手の甲の染みから毒草の青黒い痕が残るのは、早摘みの宵染みにだけ見られる症状だ」

「早摘みの宵染みは、検品で必ず廃棄されるはず」

リゼリアが名簿の欠落した検品欄へ指を置く。そこだけ紙の色がわずかに薄く、何度も擦られた跡があった。

「そうです。担当名が消えているのと、廃棄を通さず聖油に混ぜられた筋が、いま同じ場所を指す」

彼女は言葉を切り、首飾りの花弁へ触れた。折れていた一枚が、朝の記憶をなぞるように硬く閉じたままだ。冷えた花弁は皮膚を刺すようで、彼女はそっと手を離した。

「それなら、毒杯の儀式を止めなくては」

「止めるな」

カイゼルが低く遮った。

「明日、貴族院法廷でお前の過去ごと終わらせる。その後で、毒杯は廃止する」

リゼリアは息を吐く。心臓の奥で、何かがほどけていくのを感じた。カイゼルが椅子を立ち、彼女の左側へ歩み寄る。肩が軽く触れるか触れないかの距離で、二人は同じ卓を見下ろした。紙の上に落ちる影が一つに重なり、境界が曖昧になる。

「背中を預けるわ」

彼女が小さく言う。カイゼルは答えない。ただ、彼の呼吸が彼女のこめかみに一度だけ触れた。

衛兵が戻り、レオンハルトを皇帝管轄の拘置室へ移送したと報告した。カイゼルは拘置記録に印を押させ、ヴィルヘルミナへの説明要求書を認める。リゼリアは名簿の写しを自らの手で清書し、封蝋をした。夜が更けていくほどに、二人の指先は同じ書類の上ですれ違わなくなる。インク壺の位置だけを互いに譲り、あとは無言が書類を整えていく。

「お前の選んだ毒見役か」

不意にカイゼルが言った。

「ええ。彼女が倒れたのも、すべて証言に残す」

「ならば移すものがある」

カイゼルがリゼリアの前に一枚の指示書を置く。黒百合の指輪が、わずかに灯りを照り返した。宝石の奥に灯りが沈み、暗い花弁がちかちかと瞬いた。

「明日、貴族院法廷でお前の過去ごと終わらせる」

リゼリアは彼の隣へ立ち、その背中へわずかに肩を寄せた。

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、冷徹皇帝と再び毒杯の席につく話第4話 銀の匙が暴く青黒き痕