FeverStory

毒殺された皇后が戴冠式の朝に戻り、夫である冷徹皇帝の愛ごと運命を書き換える

第1話 毒の朝をもう一度

胸の奥に、苦いものが残っていた。舌の付け根が痺れるような、あの毒の味だ。死の間際に飲み込んだ酒の匂いまで、喉の奥から蘇るようだった。エリアーヌは息を呑み、指先で唇を押さえる。生きている。鼓動が速い。手のひらは汗ばみ、寝台の上掛けを握りしめていた。

ここは、皇后の控え室。

天蓋の影が壁の高いところに落ち、室内はまだ薄青く沈んでいる。寝台の縁に置かれた水差しに、朝の光が斜めに当たっていた。その光の粒が、夢と現の境をぼやけさせている。目を開けたまま、天蓋の刺繍を見つめる。心臓の音がまだ耳の内側に残り、寝具に染みついた薔薇油の匂いだけがやけに強い。金糸の星文が織り込まれた布地は、戴冠式の朝だけ掛け替えられるものだ。つまり、あの日。毒が喉を灼いた日。そして今、自分は朝をやり直している。

「お目覚めですか、皇后様」

侍女の声に、エリアーヌは半身を起こした。喉が渇いている。寝汗で肌に張りついた衣の感触と、乾いた舌の味が意識を引き戻す。声を出す前に、扉の向こうから衣擦れの音が近づいてくる。まだ朝だというのに、扉の蝶番が軋む音さえ大きく響いた。象牙色の扇が、半開きの戸の隙間から覗いた。

ぞっと、背筋が冷えた。

「ごきげんよう、エリアーヌ様」

現れたのはヘレナだった。薄い金の髪を結い上げ、王妃の正装にも劣らぬ白絹の衣をまとっている。絹の上衣が空気を含んでふわりと揺れ、彼女の周囲だけ時間が薄く流れているように見えた。扇を持つ手の角度。指の掛け方。細い指が骨を操るたび、空気がそっと裂ける。そのままの光景に、エリアーヌの心臓が早鐘を打つ。

死の直前に見たものと、寸分違わない。視界の端に、あの日の光景が重なる。象牙色の扇の向こうで、唇が笑みを描いたままだった。

「ずいぶん難しいお顔で。戴冠式を前に緊張されるのはわかりますけれど」

ヘレナが唇をほころばせる。扇の骨がかすかに鳴った。その音まで、耳の底で何度も再生した記憶そのものだ。

「……ヘレナ様こそ、ずいぶんとお早いお着きで」

唾を飲み込む。喉の奥が乾いて、かすかな痛みが走る。声が震えそうになるのを、腹に力を入れて抑える。エリアーヌは寝台からゆっくりと足を下ろした。裸足の足裏に、石床の冷たさが走る。生きている証だ。床の冷たさが足の裏から背骨へ抜けて、震えを鎮めていく。

「あなたの帯の結び、少し曲がっていてよ。侍女を呼びましょうか」

「いいえ、その必要はないわ。式典の前には着替えるもの」

ヘレナの視線が、エリアーヌの首筋を這う。喉に触れられるような嫌な感覚があった。扇越しの吐息まで届きそうな距離なのに、実際の間合いは決して埋まらない。あの日も、こんなふうに微笑んでいた。毒の杯が届くまで、ずっと。

エリアーヌは指先の震えを隠すように、両手を重ねた。爪を手の甲に食い込ませる。痛みで頭を冷やさなければ、今にも叫び出してしまいそうだった。回帰は夢ではない。この感覚も、恐怖も、鮮明すぎる。ならば逃げ道は、この先にしかない。

「お気をつけて。今日は長い一日になりますから」

彼女の声はやわらかいのに、骨の髄まで冷ややかだった。ヘレナは扇を揺らしながら、優雅に背を向ける。去り際、廊下からもう一度だけこちらを振り返った。象牙色の扇が顔の半分を隠し、その上から目だけで笑う。あの瞬間と、おなじ角度だった。

エリアーヌはその場から動けなかった。足の指が冷えている。開いたままの扉から、遠い宮殿の生活音が聞こえていた。まるで別の世の音だ。

控え室を出るまで、どれくらいかかったろう。着付けのあいだ、エリアーヌは鏡の中の自分と一度も目を合わせなかった。正装が重く、肩と腰に石のようにのしかかる。侍女に髪を結わせ、帝室の正装に着替え終わるころには、外の空気が朝の色を失いかけていた。謁見の間へ向かう廊下は長い。赤い敷物が音を吸って、歩くたびに自分の呼吸だけが耳の奥で響く。壁の燭台が等間隔に揺れ、自分の影が前へ伸びては消える。衛兵たちは柱の影で一斉に目礼したが、その音さえ遠い。

指定位置に着くと、広間の熱気が肌に貼りついた。貴族たちの視線が一斉にエリアーヌを射る。香水と蝋燭の煙と、かすかな酒の甘い匂いが混ざっている。ささやきは波のように押し寄せ、すぐに退いた。だが、そのどれよりも重いのは、正面奥に置かれた帝冠の台座ではなく、その手前を横切る給仕の手元だった。

聖杯が、配膳の控え廊下から運ばれてくる。

杯を載せた盆を持つのは、宮務府の侍従だ。ゆっくりと、確実に、エリアーヌの立つ位置へ向かってくる。黒い陶器の杯。杯の表面には、広間の灯りが鈍く映って揺れている。酒の香りが近づくたび、記憶の奥の苦さが舌によみがえった。銀の毒見針が三度、中を探る。何も起きない。針は澄んだまま、酒の雫を光らせるだけだった。

あれを飲めば、また死ぬ。

直感ではなく、記憶が叫んでいる。なのに唇は開かない。今度こそ、何か言わなければ。手遅れになる前に。そう思うのに、胸の前で組んだ指が動かない。不審を訴える言葉だけが、喉の奥で石のようにつかえた。指定位置から一歩でも動けば、儀式を破った者として何をされるか。頭の芯が痛むほど、足が重い。

聖杯が近づく。あと十二歩、十歩。給仕の足音が、自分の脈と重なる。周囲の細かい話し声が、水の底に沈んだように遠い。

「ミュリエル」

エリアーヌは声を潜めた。すぐ後ろに控えていた侍女が、半歩だけ身を寄せる。

「はい、皇后様」

「あの聖杯、式のあと洗わずに宮務府へ返しなさい。誰にも触れさせずに」

ミュリエルの指が、一瞬、衣の裾を強く握ったのが見えた。彼女の声もわずかにかすれ、耳をこらさなければ消えそうなほどだった。

「……承知いたしました。しかし、宮務府に洗わずにお返しするのは」

「決まりを破るようには見えない言い方で。あなたにならできるわ」

心臓が喉を打つ。ミュリエルは二秒ほど沈黙し、それから深く頭を下げた。その仕草に、はっきりと覚悟の色が滲んでいる。今の自分には、その静けさが頼りだった。戸惑いを隠しきれない横顔に、エリアーヌはもう一度だけ「お願い」と言う。自分の声とは思えないほど低く、必死だった。

聖杯が、すぐそこまで来ている。

毒見役の最後の一人が杯を捧げ持ち、エリアーヌへ差し出す体勢を整えた。指先が冷える。生き延びるだけでは足りない。帝冠の星文が浮かぶには、皇后と皇帝の血統の共鳴が必要なはずだから。

逃げても、毒を避けても、運命は変わらない。ユリウスとの共鳴までは。

祭壇の奥で、帝冠が星のない黒石のまま沈黙している。あれを輝かせられなければ、何のためにここへ戻ったのか。エリアーヌは息を吸った。肺の底が震えている。もう、死を待つだけの石像ではいられなかった。

開式の銅鑼が打ち鳴らされる。低く、長く、広間の空気を裂いた。

聖杯がエリアーヌの真正面に掲げられる。黒い陶器の縁が、かすかに白く曇っているような気がした。ヘレナが貴族席の前で象牙色の扇を揺らす。その衣擦れの音までが、やけにはっきりと耳へ届く。鼓動が速まる。こめかみの血管が脈打ち、視界の端が白く明滅した。

動けない。

口も、足も。

それでも心臓だけが、二度目の死の秒読みを始めていた。

毒殺された皇后が戴冠式の朝に戻り、夫である冷徹皇帝の愛ごと運命を書き換える第1話 毒の朝をもう一度