毒殺された皇后が戴冠式の朝に戻り、夫である冷徹皇帝の愛ごと運命を書き換える
第2話 毒の杯、交わる真意
青い薔薇が一輪、銀のかんざしから抜け落ちていた。床の上で花弁がわずかに開いている。エリアーヌはそれを拾う手を止め、皇后控えの間の静けさに耳を澄ませた。開式の銅鑼の余韻がまだ壁に残っている。けれど、ここは謁見の間ではない。
「皇后様、お指を」
ミュリエルが差し出した白い手巾を受け取り、エリアーヌはかんざしを直す。指先がまだ冷たい。儀式の開始が迫る中で、皇帝の私室から戻る猶予などあるのか。胸の奥で脈が速く打つ。彼女は声を潜めた。
「ミュリエル、月下香という毒を知っているわね」
侍女の肩が小さく強張る。白い手巾を握ったまま、彼女は短く息を吸った。
「はい。上級貴族の夜会で、銀の毒見針に反応しない毒だと聞き及んでおります」
「陶器の杯に残る痕跡は?」
ミュリエルは一瞬、扉のほうへ目を走らせた。廊下に人の気配がないことを確かめてから、半歩だけ近づき、ほとんど息だけで答える。
「陶器の内側に白い膜となって残ると、古い侍女頭から教わりました。洗えば消えます。ですが、濡れた布で拭うのでさえ足りない。自然に乾いた膜だけが、後日の証拠になるのです」
エリアーヌは息を吐いた。前の人生では知らなかった。いや、知る前に死んだ。だから今回、杯を洗わせないと決めた自分の判断は、間違っていない。震えそうになる膝を、衣の下で静かに伸ばす。
「その杯、誰にも触れさせないで。あなたの手で覆って、そのまま式の後まで」
ミュリエルは深く頭を下げた。
「畏れながら、皇后様。その杯が果たして今、どこに……」
「聖杯の支度は、開式の合図まで給仕が持っているはず。あなたが受ける順が来たら、必ず検めてほしい。内側ではなく、外側は装飾の影にしか見せず、内側もわざと覗き込まずに」
「承知いたしました」
エリアーヌはミュリエルの指先が青ざめているのに気づいた。この侍女も命を懸けている。自分の不安を押しつけているだけではないかと、喉の奥が苦くなる。それでも、毒の杯を物証に変えるには彼女しかいなかった。
「戻るまで、ここで待っていて」
「皇后様はどちらへ」
「皇帝陛下が、お呼びよ」
そう言った瞬間、ノックもなく扉が開いた。近衛が二人、左右に分かれて立ち、黒と金の制服の襟がきっちりと締まっている。奥からダリウスが現れ、短く礼を取った。
「皇后様、陛下が私室にてお待ちです。護衛は控えさせますので、ご同行を」
ミュリエルが不安げに身を寄せる。エリアーヌは彼女を片手で制し、ローブの裾を正して歩き出した。足音がやけに重い。廊下の窓から朝の光が差し、赤い敷物に自分の影が長く落ちる。式典控えの間へ向かう途中、ヘレナが侍女を呼び止める。「支度に遅れはないわね」「はい、お妃様。すべて整っております」短い応答を背に、彼女は靴音を鋭く響かせて先を急ぐ。皇帝の私室へ続く扉の前で、近衛たちが一斉に頭を下げた。
ダリウスが片膝をつき、そのまま後退する。
「私は外しております。どうか、ご無理のないように」
無理とは何だ。心で呟きながら、エリアーヌは扉を押した。室内は薄暗く、重い帷が下りていた。蝋燭がひとつ、卓の上で揺れている。ユリウスは窓際に立ち、背を向けていた。黒金の帝服の肩が、息をするたびに微かに上下する。
「立て。いや、座れ」
彼が振り向きもせずに言う。声が硬い。エリアーヌは中央の長椅子へ進み、浅く腰を下ろした。室内の香は沈香に似て、甘く喉へ張りつく。扉の向こうで、最後の近衛の足音が遠ざかった。
「何を隠している」
ユリウスが体ごと向き直る。目が、蝋燭の火を吸い込んで金色に光った。エリアーヌは唇の内側を噛んだ。
「何も、隠しておりません」
「お前は今朝、控えの間で青ざめ、開式の合図前から動きを止めていた。聖杯の運ばれる方角へ逃げるように視線を送った挙句、侍女に何か命じたな」
「……あの子に、失礼のないよう声をかけただけです」
「嘘だ」
彼が一歩、踏み出した。長椅子までの距離が縮まる。エリアーヌは心臓を喉に押し上げられるような息苦しさを覚え、スカートの上で指を組んだ。この人にだけは、回帰の記憶を告げられない。告げた端から曖昧になって、死の理由ごと消えてしまいそうだから。
「お前は昔から、余計なことほど隠す。今の、硬い視線もそうだ」
ユリウスの声がわずかに険しくなった。エリアーヌは顔を上げられない。けれど、畳みかけてくる威圧とは微妙に違うものを、彼の口調の奥に感じる。まるで、怒っているのではなく、焦れているような。
「隠すしかない者もいます。陛下の前では、とくに」
「なぜ俺の前だと隠す」
「……陛下が、おそろしいからです」
それは本心ではなかった。半分だけ本心だ。恐いのではない。あなたが私の死を背負って、冷徹な仮面の下で何を考えているか分からないから。心臓の音が自分の耳に響く。ユリウスはその返答に足を止め、卓の上の蝋燭に手をかざし、火を細く揺らした。
「俺は、お前を殺したくないだけだ」
静かな声だった。エリアーヌの喉が一瞬、引き攣れる。俯いた視界の端で、ユリウスが片手を胸元に持ち上げる。袖口が滑り、左手の手首から先が露わになった。蝋燭の火に照らされて、青白い肌の内側に古い傷跡が走っている。それは擦り傷ではなく、ひび割れた陶器のように皮膚の下へ食い込んだ毒痕だった。
「見たことがあるか。三年前、お前が嫁いでくる前に、俺が飲まされた酒杯に残っていた毒の跡だ」
エリアーヌは唇を開いた。だが、声が出ない。指先が強張り、じっとその傷跡へ引き寄せられる。
「お前を遠ざけたのは、お前が俺の隣に立つたび、誰かに命を狙われる場所へ近づくからだ。冷たく突き放せば、お前まで毒を盛られずに済む。そう思っていた」
「私は、違うと……」
考えとは、一度も思っていませんでした、と続けようとした。けれど息が続かず、言葉が胸の途中で散る。ユリウスは袖を直しながら、かすかに笑んだ。それは笑みの形をしていない。泣き笑いでもなく、すべてをあきらめた者の薄い顔だった。
「お前は私など恐れていない。違うな。エリアーヌ、お前は俺を憎む気力も、今朝のあの顔に隠れるくらいの器じゃない」
エリアーヌは立ち上がりかけた。立てなかった。ひざが震え、裾が椅子の角に引っかかる。ユリウスが左手を伸ばし、彼女の手首を取った。骨ばった指が迷うように、衣の袖の上から軽く触れる。その熱さが、逆に彼の緊張を伝えてくる。
「俺は、お前を失いたくない。ただそれだけだ」
毒の傷跡を持つ手が、まだ力の加減も分からないように、彼女の手首を握りもせず支えている。エリアーヌの視界が不意に滲んだ。涙ではない。胸の底で固まっていた死の冷たさが、呼吸と一緒にほどけていく。
「陛下、あの聖杯を」
「何だ」
「あの杯を、洗わせないでください。そこに、残るはずのものがあるのです」
ユリウスが目の色を変えた。握っていた指を解き、卓へ手をつく。蝋燭の火が揺れ、ふたりの影を壁いっぱいに踊らせた。彼は低く命令を投げる。
「言え」
「月下香という毒が、陶器の杯へ白い膜を残すと、付きの侍女が知っていました。銀の毒見針には反応しない。証拠になり得るのは、洗っていない杯の内側だけです」
ここで初めて、ユリウスが構えを解いた。深い息がこぼれる。彼は窓の帷を僅かに開け、朝の光を床へ一筋だけ取り込んだ。
「ダリウスを使い、お前の侍女と給仕の動きは既に追っていた。私がお前を呼んだのは、聞きだすためだけじゃない。お前が今朝、何か仕掛けたことを、あの近衛が怪しむ動きで確かめたからだ」
「私を、泳がせたのですね」
「率直に言えば、そうだ。すまない」
エリアーヌは初めて、長椅子から膝が離れるのを感じた。体はまだ強張っている。でも、さっきと同じではない。肩の力を抜いて立ち、窓の光を背にしたユリウスの顔を、真っすぐ見た。
「でしたら、式典では必ず杯を検めさせてください。誰かの手で洗われる前に」
「私の前で命じる。杯がお前の指に触れるのは、あれだけは最後にしたい」
ユリウスがそう言った途端、外で鐘が鳴った。低く、重い、一度きりの響きが宮殿の壁を貫く。戴冠式の開始を命じる音だ。二人の影が、真一文字に光の中で揺れる。
エリアーヌは胸の奥で「まだ間に合う」と呟いた。いや、間に合わせる。この人と、あの杯の白い膜を、物証にするまでは。
鐘の余韻が消えないうちに、扉の外でダリウスの声がかかる。
「陛下、開式の鐘でございます」
「応じる。エリアーヌ、いけ」
彼の目が、もう一度こちらを射た。冷たい瑠璃の色の下から、隠しきれない獣が息をしている。冷徹な仮面はなかった。ただ、まっすぐに誰かを守ろうとする男の顔があった。それを見た瞬間、エリアーヌの心臓は二度目の死の秒読みとは違う速さで、強く跳ねた。