毒殺された皇后が戴冠式の朝に戻り、夫である冷徹皇帝の愛ごと運命を書き換える
第3話 膜を抱く聖杯
蜜蝋の匂いが濃く、廊下の冷えた空気を甘く刺していた。エリアーヌは皇帝の私室を出た瞬間、その香りで一度立ち止まる。耳の奥では、まだ鐘の残響がわだかまっていた。
「杯だけは、洗わせないでください」
彼女は前を歩くユリウスの広い背へ、もう一度だけ短く言葉を投げた。彼は歩調を緩めずに答える。
「お前が二度言うことじゃない。あれは私が預かる」
ユリウスの声は背中越しに低く響き、そのまま彼の肩が廊下の明暗を横切った。エリアーヌは返事のかわりに拳を胸の前で握りしめ、爪が手のひらに食い込む冷たい痛みで自分を保つ。給仕が壁へ張りつく気配のあと、空気だけが二人分の体温を攪拌して流れた。彼女はふと、自分の眠らない夜と、青ざめた朝のうちに数えた拍動のことを思う。けれど今、指先は動くし、足裏は石の冷たさを感じる。死に向かうのではなく、式典の一点へ向かって身体が勝手に歩こうとしているのが不思議だった。
「お前が二度言うことじゃない。あれは私が預かる」
式典控えの間へ続く回廊には、給仕と侍女が壁際に控え、二人の靴音だけが石床に食い込む。窓の外は戴冠式には不似合いなほど青く、光が尖って差し込んでいた。エリアーヌは胸の奥で、開式の銅鑼か何か、もっと鋭い音を待つ自分の体を感じていた。
側廊から黒服の影が進み出る。近衛の礼服を纏ったダリウスが、片膝をつかずに胸へ手を当てた。
「陛下、ヘレナ様付きの侍女リゼットを、控え廊下の柱陰に確保いたしました」
「抵抗は」
「ありません。むしろ、逃げるかどうかを迷っている様子でした」
ユリウスが初めて足を止めた。金色の袖口が光を弾き、ダリウスへ半身だけ向ける。
「合図まで泳がせろ。ただし、聖杯の受け渡し場所へは近づけるな。杯の動きを、お前の目で追え」
「はっ。それと、例の弱みですが、まだ本人には使っておりません。切り札は切らずに残してあります」
ダリウスの抑えた声が、エリアーヌの耳の裏をくすぐった。リゼットの弱み、と頭の片隅で反芻するが、それを問う時間はない。ユリウスが一瞥を寄越す。
金色の瞳が一瞬、彼女の頬を横切り、すぐに先へ戻る。何かを確かめるような、それても追い払うような視線だった。エリアーヌはその一瞥を首筋で受け、ドレスの襟ぐりから風が入るのを感じる。窓の傍では薄布が光に撓み、廊下の隅に積まれた式典用の花が、開く前の硬い香りを放っていた。
「先に行け。お前は指定位置だ」
「陛下こそ、杯を」
「わかっている」
彼はもう歩き出していた。エリアーヌはダリウスが柱の影へ消えるのを背中で感じながら、謁見の間へ続く長い敷物を踏む。鼓動が少しずつ、死への秒読みから違う速さへ変わってくる。恐怖は消えていない。けれど前回の朝のように、ゼロ地点で凍りつくのではなく、肌のすぐ下を血が巡っていた。
聖杯配膳の控え廊下は、給仕たちが往き交うはずの時刻だというのに妙に静まっていた。ミュリエルは白い手巾を握りしめ、壁際の指定位置で待つ。胸の前で組んだ指が、冷えているのか熱いのか区別がつかない。
「皇后様は、ご無事かしら」
呟きが小さく漏れて、自分の声に肩が跳ねた。そのとき、横手の小扉が開き、年かさの給仕が盆を差し出す。載っているのは黒い陶器の聖杯だ。中身はほぼ残っていない。誰かが飲み干し、濡れた内側がひっそりと光を吸っている。
「皇后付き侍女だな。検めを終えた杯を預かる者は」
「わたくしです」
ミュリエルは両手で盆を受け取った。給仕は一礼して去り、靴音が遠ざかる。手元に残った聖杯は思ったより軽く、底に沈殿物ひとつ見えない。彼女は杯を胸元の高さへ持ち上げ、窓から差す光に傾けた。
内側に、膜があった。
指の先で触れられないほど薄い、白い翳りが陶器の肌に沿って弧を描いている。洗えば、すぐに消えるような頼りなさだ。だが乾いたそれは確かにそこにあり、光の角度を変えるごとに白く浮いた。
「これが……そうなのね」
息が腕まで震えた。ミュリエルは手巾を広げ、迷わず杯の口から底面まで覆う。角に軽く結び目を作り、乾いた膜が空気と擦れ合わないように抱え込んだ。月下香。銀の針も、三度の検めも、この翳りだけは捉えそこねた。彼女は聖杯を胸に寄せたまま、謁見の間へ向かって一歩を踏み出す。
「皇后様のところまで、どうかこのまま」
祈りは声にならない。ただ使命感だけが脚を早めた。
手巾の上から指先で聖杯の縁をなぞると、布を透かして細かな凹凸が爪に触れる。そこに残る膜を自分の体温で温めないよう、ミュリエルは包みを胸より少し離して抱え直し、廊下の結露で冷えた石畳を一歩ずつ踏んだ。給仕たちの忙しない足音が遠くの消えぎわから響いてくるが、誰も彼女を呼び止めはしない。彼女は唇を引き結び、あと幾曲がりで謁見の間という距離を、心のうちで幾度も測り直した。
謁見の間はすでに静まっていた。三方の貴族席から無数の視線が指定位置へ落ちている。エリアーヌはドレスの重みを腰で受け止めながら、祭壇の奥で沈黙する黒石の帝冠を見た。まだ星はない。
横手からミュリエルが入ってくる。抱えた白い包みが、彼女の前へ静かに置かれる。布の位置が、式典の定めと違っていた。聖杯は剥き出しで置かれるべきものが、上まで覆われている。エリアーヌは膝の前のそれを見下ろし、喉の奥が干上がるのを覚えた。
「ミュリエル」
「口を切らないように覆いました。このまま、開けずに結構でございます」
エリアーヌは指一本で、布の結び目に触れる。布越しの陶器は、ひやりと張りつめた冬の水のようだった。
「星文の証まで、よく封じた」
玉座側から、ユリウスの低い声が広間に落ちる。彼は宮務官を振り向きもせずに呼んだ。
「宮務官、この杯は星文の証として封じよ。洗わせるな。中のものも捨てず、布のまま皇后付き侍女へ預けろ」
「は……しかし陛下、式典の定めでは検めの済んだ杯を」
「定めを言っているんじゃない。私の命だ」
ユリウスの声は刃のように薄く、広間の空気を裂いた。宮務官が顔を伏せる。貴族たちの囁きが波のように持ち上がり、すぐに萎んだ。
エリアーヌは杯を覆った布へ片手を置いたまま、ゆっくり息を吐く。
指の腹に触れる麻の織り目が、汗を吸ってかすかに温度を返してくる。彼女は止まっていた呼吸の残りを胸の底から押し出し、祭壇の黒石が放つ冷たい匂いを吸い込んだ。貴族席のざわめきが天井の梁に届くより先に静まり、かわりに大きな沈黙が、壁を背にして立つ彼女の肩へ重く乗った。前回の朝なら、この杯から毒が流れ込み、自分の指は二度と動かなくなっていた。それがいま、誰にも洗われることなく自分の侍女の手元にある。
彼女は顔を上げ、貴賓席のほうを見た。
ヘレナがいた。
薄緑のドレスに包まれた彼女は、開いた象牙の扇を頬の横で止めている。指先だけが扇の骨を強く摘んでいた。表情は動かない。ただ、閉じられない扇の影が、白い首筋に深く差していた。
そのとき、側廊の入り口が人垣を割って開く。ダリウスが、リゼットの腕を取って静かに広間へ進み出た。聖杯の横、太い柱の陰で足を止める。リゼットは顔を伏せ、退がることさえ許されないように肩を縮めていた。
ヘレナの手が止まる。
扇が、音もなく閉じられた。
エリアーヌは息を呑んだ。あの扇の閉じる一瞬、ヘレナの輪郭が初めて硬直したように見えた。象牙の骨が指の腹を噛んでいる。彼女は座ったまま、一歩も退いていないのに、うしろの出口が急に遠く見えた。
ダリウスがリゼットを柱陰から一歩、聖杯の横へ進ませる。エリアーヌの手のひらで、布越しの聖杯が冷たく脈打った。