毒殺された皇后が戴冠式の朝に戻り、夫である冷徹皇帝の愛ごと運命を書き換える
第4話 扇に潜む月下香
謁見の間の空気は、まだ銅鑼の余韻を柱の奥に閉じこめていた。エリアーヌは指定位置から柱陰を見る。ダリウスが片手を侍女の背へ添わせ、もう一方の手で肩を壁ぎわへ押しとどめていた。拘束というには静かで、庇護というには冷たい。そのちょうど間の力だ。
「カミラ」
ダリウスの声は低く、名を呼んだだけなのに柱の石が湿りそうな響きがあった。カミラは顎を引いたまま、束ねた髪の先を背へ張りつかせている。逃げようとする足先だけが、敷石に滑った。
「三年前、夏の離宮で私が渡した包帯を、あんたはまだ覚えているはずだ」
カミラの肩が跳ねた。視線がこちらへ上がりかけ、すぐ落ちる。指先がスカートの襞を握って離す。
「あのときの借りを、今日返せ」
「私が何を……知っていると、お思いで」
カミラの声は掠れ、語尾が柱の石肌に吸われて消えた。エリアーヌは自分の爪が掌に食い込むのを感じながら、耳を澄ませる。聞こえるのは、遠くの楽人たちが楽器を構え直す衣擦れと、燭台の火が油を弾く微かな音だけだった。柱陰の二人を隔てる空気は薄い氷のようで、どちらかが息をするたびに罅が入りそうだった。カミラの足元で、裾がほんの少し揺れている。あれはきっと、膝が震えているのだ。恐怖でも、寒さでもなく、三年越しの沈黙を破ろうとする舌と、破るまいとする喉のせめぎ合いだ。
「象牙の扇だ。ヘレナ様がいつも手にしている、中骨の仕掛けを言え」
カミラの唇が白くなる。ダリウスは畳みかけるように、一歩だけ彼女を柱の奥へ押しやった。影が濃くなって、互いの輪郭が石に沈む。エリアーヌには二人の息づかいまでは聞こえない。ただダリウスの手首だけが、カミラの肩を離さないのが見えた。
「ここで答えなければ、あんたは毒見役と共に捕らえられる。それでも守るか」
カミラが短く首を振る。
「扇の中骨に……細い溝を彫ってございます。象牙の合わせ目に隠れて、開かないと見えません」
「中身は」
「月下香の……粉末でございます」
声が途切れる。彼女は唇を噛み、それでも一度しゃべったせいで、次の言葉は水がしみ出すように早くなった。
「私は扇を拭くだけでした。三日目の夜、毒見役の一人に銀の盆を渡すよう命じられ、それきりです。あの方の杯に触れたのはあの男で、私は手順を……」
「保護を求めているな」
ダリウスが遮った。カミラは顔を上げる。涙はない。かわりに、この場で縋れる相手を値踏みするような目が一瞬のぞいた。
「証言を録らせろ。ヘレナ様が気づく前に、私の後ろで息を潜めていろ」
「私の家族は」
「後だ。先に、お前の口で扇と毒見役を結べ」
ダリウスが懐へ手をやる。取り出した細い筆記具と小さな折り畳み板、それに口述の印が押せる朱肉が、柱の割れ目から落ちる光に浮かんだ。
エリアーヌは息を詰めて見守る。心臓が喉の裏で早鐘のように鳴っている。
正装の胸元が一枚多く重なっているようで、呼吸のたびに絹が内側へ張りつく。冷や汗が背骨の溝を伝い、腰のあたりで下着に吸われる感触があった。彼女は無意識に、柱の縁へ指をかける。石はひんやりとしていたが、手のひらの熱を奪うだけで、心臓の早鐘までは静めてくれなかった。ダリウスの筆記具が紙を擦る音は存外大きく、あの小さな折り畳み板が広間の空気を裂いているようでもあった。エリアーヌは目を凝らす。インクの先から零れる文字ではなく、二人の間に張り詰めた糸が切れないことだけを祈るように。カミラの唇が再び開き、ダリウスがその言葉を折り畳み板へ走らせるたび、柱陰の空気が一枚ずつ薄皮を剝いでいくのがわかった。
そのとき、聖杯の横でミュリエルが、布を抱えたまま片膝をつくうように構えた。ユリウスが柱陰から半身だけ出て、聖杯を背に近づく。床に触れそうな布の端が震えている。
「陛下、こちらを」
「手を添えなくていい。中身を一度、私の目で見せる」
ミュリエルは結び目を解かない。ただ布を折り開いて、聖杯の内側をわずかに傾けた。祭壇の灯りが器の中へ入り、乾いた白い筋が浮かび上がる。
「この膜は、洗えば消えます。これだけが、あの毒の残り香でございます」
ユリウスは杯を覗き込み、手袋をはめた指を縁へ沿わせた。触れはしない。光の筋を指先で追う。
「洗うな。次の検分まで、そこから一歩も動かすな」
「衛兵に囲ませますか」
「大げさに囲えば、あちらが壊す口実を作る。帯剣の近衛を一人、柱の外へ。それで十分だ」
ミュリエルが深くうなずく。布を巻き直す手先が、肩から指先まで真剣そのものだ。
彼女の小指が、一瞬だけ杯の台座に触れかけて止まる。触れてはいけないものに、指先だけが先回りしてしまったかのようだった。布の折り目を合わせるたび、祭壇の灯りが手の甲を滑り、細い骨の影が布の上を横切る。エリアーヌはその仕草に、夜伽の支度で香油壺を拭いていた侍女の手つきを重ねた。あのときも、壺の中身より壺の外側を大切に扱っていた。本当に守りたいものに、指は一番遠い場所から近づくものだ。エリアーヌはその手元を追いかけ、自分の指が正装の裾を握りしめていることにようやく気づいた。冷たい布地の重さで、汗ばむ掌だけが生あたたかい。
ユリウスが柱陰へ戻り、ダリウスの肩越しにカミラの顔を覗く。ダリウスが折り畳み板を半開きにした。声は聞こえない。けれどカミラが二度うなずく。ユリウスが短く何かを告げ、ダリウスが書きかけの板を内側へ閉じる。扇を押収する素振りは見せない。ユリウスはただ、杯が運ばれる位置とヘレナの貴賓席をこの順に一瞥した。
「待て。扇には今、触れるな。聖杯が皇后の前へ運ばれるまで泳がせろ」
ダリウスは口の中で「承知」とだけ言い、板を胸の内へしまう。カミラをさらに柱の暗がりへ入れた。
貴賓席で、ヘレナが音もなく立ち上がった。扇は閉じられたまま、指先で胴を弄っている。視線はカミラのいた場所を二度走り、戻らない。口元は微笑んでいるのに、目の縁だけが暗い。
「長き沈黙は儀の穢れ。聖杯が冷める前に、定めのとおり皇后の口元へ」
ヘレナの声が広間を滑る。儀礼官が戸惑いつつも手を上げ、銅鑼の持ち手に合図を送った。途切れていた楽の音が、低く床を這って再開される。給仕が一列に並び直し、ミュリエルの手から聖杯を受け取る仕草を見せた。
ミュリエルが布を押さえたまま一歩退がらない。エリアーヌの胸の奥で、死の秒読みに似た鈍い音が蘇る。心臓ではない。もっと深い場所で、あの朝に飲み込んだ酒の渇きが喉を刺す。指が動かない。けれど視線だけは、布に覆われた聖杯の一点から離れなかった。
聖杯が、動いた。
給仕の白い手袋が布越しに杯を支え、ゆっくりとエリアーヌの正面へ歩み寄る。ミュリエルが一歩だけ追いすがり、杯の内側を見たまま唇を開いた。
「ま、待って……この、膜を」
声が裏返る。彼女は布の結び目へ手をかけ、開けるか開けないかで迷うように指を止めた。
広間の誰もが呼吸を忘れた中、ミュリエルの喉だけがひくりと鳴った。給仕の白い手袋が、杯を支えたまま半歩ぶん止まる。銅鑼の余韻がもう一度だけ柱を巡り、楽人たちの弓が弦に触れる前に空を切った。ミュリエルは唇を引き結び、それでも目だけは杯の内側の白い筋を追い続けている。言葉にできない確信が、彼女の指先を凍らせているようだった。エリアーヌはそのとき初めて、ミュリエルの足元がほんの僅かに開いているのに気づく。逃げない、というには重く、進めない、というには前のめりな、奇妙な立ち姿だった。広間のすべてが、その指先に吸い寄せられて、止まる。