紙魚の栞、ふたたび
第1話 九年目の火傷
祖母の四十九日が明けた朝、店の奥の机に郵便物の束があった。線香の残り香がまだ部屋の隅に薄く漂っていて、その甘く苦い匂いが、喪の時間が本当に終わったのかどうかをぼんやりと問いかけてくる。古い木机の上で、輪ゴムで雑に束ねられた封筒や葉書が、斜めに崩れかかっていた。外からは商店街の朝の気配——シャッターの開く金属音と、自転車のベル——が微かに届いている。
香典返しの礼状に混じって、銀行の封筒が一枚。融資継続審査の書類だ。厚手の白い封筒には罫線入りの透明窓があり、そこから印刷された「融資継続審査のご案内」の文字が透けて見える。心臓にひとつ、重い石を置かれたような感触が胸を満たした。
早季は封を切った。封筒の端を裂く音が静かな部屋に鋭く響き、そこだけ世界が輪郭を取り戻したようだった。
便箋を取り出し、折り目を伸ばす。指の腹で二つ折りの紙を平らにしながら、文字を追う。担当者欄に目を落とした瞬間、指が止まる。見慣れない名前でも、面倒な手続きの予感でもなく、そこには——
烏丸 慧。
読み間違いではない。何度見返しても、同じ文字が並んでいる。筆跡でもなければ印字でもない、明朝体のその三文字が、網膜に張りついて離れない。視界の端がじわりと滲み、頁全体が白くぼやける。心臓が一度、大きく跳ね、そのまま早鐘を打ち始めた。
喉の奥が乾いた。嚥下しようとしてもうまくいかず、空気だけがひりつく。息を詰めたまま立ち上がり、カウンターへ出る。スリッパの底が古い板張りの床をきしませる音だけが、自分の存在を繋いでいる。
開店の準備をしなくては。本棚の埃をはたき、レジを開け、昨日の売上伝票を綴じる。指先だけが規則正しく動いていた。埃を払う刷毛の柔らかな音、レジの硬貨トレイが滑り出る金属音、伝票の薄い紙が擦れるかすかな音。それらが耳の奥で混ざり合い、思考を覆い隠してくれる。頭の芯ではまだ、烏丸慧という名が熱を帯びてくすぶっていた。
一枚、伝票を落とした。拾おうとした手が震えている。自分のものとは思えないほど白い指先が、空気中に小さな弧を描いて落ち着かない。さっきまであんなに規則正しく動いていたのに、今はもうこの震えを止められないのだと、早季は客観的に思った。
壁時計が十時半を打つ。振り子時計の澄んだ音が、店内の空気を四回揺らした。最後の音の余韻が消える前に、早季は両手をぎゅっと組んだ。
早季は右手の薬指に触れた。祖母から譲られた銀の指輪が、ほんの少し冷たい。磨き込まれた銀は体温をゆっくり吸って、それでもなお芯に冷たさを残している。祖母が「これをあげる」と差し出したときの、皺の多い手のぬくもりを思い出す。あのとき祖母は何か言いたげに微笑んでいた。その微笑の意味を、今もまだ全部はわかっていない。
十一時きっかりに、戸口のベルが鳴った。真鍮のベルが、いつもよりずっと硬質な音を立てる。
顔を上げると、グレーのスリーピースに身を包んだ長身の男が立っている。背に午前の光を負って、一瞬息を呑むほど無機質な輪郭を見せた。逆光で顔の表情は判然としない。ただ、肩幅と、まっすぐに伸びた背筋の角度だけが、九年前と変わらず、確かに彼のものだと告げていた。
「小宮山早季さまですね」 「……はい」
慧は名刺を差し出した。受け取る手が、落ち着いているかどうか自分でもわからない。名刺は厚みのある上質な紙で、白地に黒のインクが浮き出している。烏丸慧──その文字を間近で見るのはどれくらいぶりだろう。
「中央銀行融資審査部の烏丸と申します。本日は担保不動産の調査で参りました」
一音も揺らがない。書類を読むような口調だった。かつての、少し恥ずかしがり屋で、でも目が合うと柔らかく笑っていた声は、もうどこにも残っていなかった。
「お待ちしていました」 「帳簿と来客数の記録を拝見できますか」
早季は用意していたファイルをカウンターに置いた。慧は手袋を外し、ページを繰る。薄い革手袋を抜くときの、かすかな摩擦音が耳に残る。
外した右手の中指に、万年筆のペンだこが硬く残っていた。昔はそんなもの、なかったはずだ。高校時代の慧の指は、教科書を捲るたびにすらりと伸びていた。数学の問題を解くときも、ペン先が紙に軽く触れるだけだった。今は、デスクワークの年月がそこに刻まれている。
無意識に、早季は右手を背中に回した。指輪を親指で隠す。銀のリングの縁が、親指の腹に押し付けられてわずかに食い込む。自分からは見えなくても、隠しているという行為そのものが、かえって指輪の存在を意識させた。
「来客数、ここ三ヶ月で前年比二割減ですね」 「……はい。商店街全体の通行量が落ちていて」 「要因分析と対策の資料は」
早季は二の句が継げなかった。喉元に言葉のかけらがつかえて、声にならない。商店街の高齢化、近くの大型書店、ネット通販。頭ではわかっているが、求められている数字と文章は用意していなかった。
慧が顔を上げる。眼鏡の奥の視線がまっすぐにこちらを射抜いた。顧客向けの表層的なソフトさも、そこにはない。レンズの向こうの瞳は焦げ茶色で、光を吸い込むような深さがあるのに、温度だけが感じられない。
「なければ結構です。躯体の状態を優先します」
ファイルを閉じ、タブレットを起動する。画面が淡く光り、彼の指が保護フィルムに当たる小さな音が続く。
「店内を案内していただけますか」
早季はカウンターから出た。足の裏が床に吸い付くような感覚がした。
書架の間を進む。木製の本棚には背表紙が隙間なく並び、紙とインクと古い木材の匂いが濃く漂っている。慧の足音がすぐ後ろで鳴っていた。一定の歩幅、一定のリズム。迷いもなければ、かつてのような気安さもない。
通路が狭まり、二人の距離が縮まったとき、慧が立ち止まる。空気が動いて、ウールのスーツの清潔な匂いが微かに届いた。
「こちらの壁、雨漏りの痕がありますね」 「三年前の台風で。応急処置はしました」 「応急、ですか」
言葉だけが冷たく落ちてくる。そのたった二文字に、査定官としての峻厳な評価が凝縮されていた。早季の胸の内側が、ぎゅうっと縮む。
早季は唇を噛んだ。反論の言葉を探すが、見つからない。代わりに、古い木の匂いと黴の気配だけが鼻腔を満たした。祖母がこの場所で長年店番をしていた時間の堆積が、目に見えない圧力となって肩にのしかかる。
カウンターへ戻る。慧はタブレットの画面を早季に向けた。
「現状、融資継続にはいくつか課題があります」
その声は淡々としているが、突きつけられた事実は重かった。早季は画面のグラフと箇条書きを見つめながら、頭のどこかでまだ、彼の左手を探していた。
資料を取り出そうと、左手がブリーフケースに伸びる。
そのときだった。
左手の小指。付け根から第一関節にかけて、皮膚が引き攣れた古い火傷の痕。光沢を失った瘢痕が、蛍光灯の下でくっきりと浮かび上がった。まるで皮膚だけが過去を証言しているかのように。
早季の視界が止まった。周囲の音が遠のき、その火傷の痕だけが視界の中心で異様なまでに鮮明になる。
九年前の夏。花火大会の夜。迷子の子どもが花火の燃えかすに手を伸ばし、とっさに慧がその子を庇って──。夜空に大きな花火の輪が開く轟音、焦げた火薬の匂い、子どもの泣き声、そして慧が身を挺して手を払ったときの鋭い息遣い。それらが一度に押し寄せる。
「……っ」
息を呑んだ音で、慧が手を引っ込める。素早くポケットへ押し込んだ。まるで汚いものでも見られたかのような、防衛的な仕草だった。
「失礼」
声はあくまで平坦だった。顔色ひとつ変えず、書類だけをカウンターに滑らせる。紙の端が微かに震えたのは、空調のせいだったかもしれない。
「次は地下の在庫を確認させてください」
早季は答えられなかった。声帯が張り付いてしまったかのように、喉から音が出てこない。
目の前の光景が、記憶と重なる。あの夜、慧は火傷を隠すこともなく、ただ「大したことない」と笑っていたのに。紅く爛れた肌を見せながら、子どもの無事を真っ先に確認して、安堵の息を吐いていた。
今の彼は、傷に触れられることすら拒む。それを他人に見られただけで、こうして手を隠す。
「小宮山さま」
促されて、ようやく顔を上げる。首の後ろが石になったように重い。
「地下倉庫の鍵は」 「……いま、開けます」
鍵束を取り出す手がぎこちなかった。奥の引き出しから古いキーケースを出し、一本の鍵を外す。真鍮の鍵が他の鍵と擦れ合い、かしゃかしゃと乾いた音を立てる。見慣れた地下用のシルバーの鍵は、手の中で不吉に感じられた。
「こちらです」
足早に奥へ向かおうとした、そのとき。
「──地下は明日にします」
慧の声が背中にかかった。びっくりするほど冷静なその声に、足の裏が床に貼りつく。
振り返ると、彼はすでにブリーフケースを閉じ、手袋をはめ直している。金具の留め金がカチリと鳴り、革手袋がするすると指に吸い込まれていく。火傷の痕は、もう完全に覆い隠されてしまった。
「本日はここまでで十分です。躯体の詳細は明日、改めて」 「しかし」 「銀行に戻り、上長と協議しますので」
一礼する。眼鏡の奥の瞳は、もう早季を映していなかった。それは客と銀行員の間に完璧に引かれた線であり、かつての同級生の姿はそこにはない。
「ありがとうございました」
踵を返し、戸口へ向かう。ベルの音がひとつ、鋭く鳴った。いつもなら来客を歓迎するその音が、今日は冷たい拒絶の合図のようだった。
曇りガラスの向こうで、グレーの背が遠ざかる。一度も振り返らなかった。歩幅は一定のまま、商店街の石畳を渡っていく。
早季は鍵を握ったまま、しばらく動けなかった。真鍮のギザギザが手のひらに食い込み、小さな痛みが現実を繋ぎ止める。
小指の火傷。躊躇なく手を引っ込めた仕草。それを隠すための、早すぎる退店。どれもが、彼にとってあの夏の夜がまだ終わっていないことを示していた。
彼は九年前、何も言わずに町を去った。いまも、何も言わないままだ。理由すら告げずにいなくなった人間が、こうして再び現れて、過去の傷を隠して立ち去る。その不条理が、胸の内側で鈍い痛みに変わる。
右手の指輪が、湿った掌の中で鈍く光っていた。祖母はこの指輪に何を託したのだろう。
カウンターに置き去りの名刺が一枚。烏丸 慧。役職と連絡先だけが、あまりにも静かに並んでいる。個人の記憶や感情が入り込む隙間は、一ミリもなかった。
早季はそれを引き出しにしまい、店の奥へ戻った。地下へ続く扉の前で立ち止まり、鍵を鍵穴に差しかけたまま、動きを止める。鍵がシリンダーに吸い込まれる感触が、指先から伝わっただけだった。ここから先に進む勇気がどうしても湧かず、数秒間、その姿勢のまま時が止まった。
壁時計が十一時二十分を刻んでいた。秒針の音だけが、店内の静寂を規則正しく切り刻む。
慧の革靴の音が商店街の石畳に遠ざかっていく。その音が完全に消えるまで、早季は耳を澄ませていた。
早季はカウンターに手をついたまま、しばらく動けなかった。ガラス戸越しに見える街路樹の影が、午前の光に短く切れている。祖母がいつも「これでお茶にしましょう」と声をかけてくる時間だ。午前の客足が落ち着く十時半過ぎには、急須と湯呑みを盆に載せて、このカウンター越しに微笑んでいた。
いない。
その事実が胸の奥で冷たい塊になった。今はただ、湯気の立たない空気と、静かすぎる本棚があるだけだ。祖母の声はもう、どこにも残っていなかった。
奥の居住スペースに戻る。押入れの天袋から下ろした段ボール箱が二つ、まだ蓋を開けたままだ。段ボールのふちにはほこりが薄く積もり、開けるたびに古い紙と樟脳の匂いが立ちのぼる。先週、葬儀のあとで手をつけ、途中で放り出していた。祖母が最後の十年をかけて溜めたもの——領収書の束、古い葉書、読みかけの文庫本、手編みの膝掛け。どれにも祖母の匂いが染みついている。この膝掛けの毛糸の目に祖母の指が通ったのかと思うと、胸が詰まる。
段ボールの底から、藍色の布カバーがかかった手帳が出てきた。B6判、背表紙の角が擦り切れている。布地は色褪せて手触りが柔らかく、長いあいだ持ち歩かれていたことがわかる。開くと、祖母の細い筆圧の文字が頁を埋めていた。日付はまちまちで、日記というより備忘録に近い。買い物のメモ、来客の記録、本の入荷予定。几帳面に並ぶ文字の合間に、ふと感情が滲んだような行がある。
めくる指が止まった。
「慧くんに本を渡せた。少しは償えるだろうか」
インクは黒。ボールペンの走り書きだ。他の頁より文字が小さく、罫線に沿っていない。筆圧が強く、紙の裏側にまで凹凸が残っている。迷いと決意が混ざったような、震える線だった。
早季はその一文を三度読んだ。読むたびに、祖母がこの言葉を綴った夜の静けさが伝わってくるようだった。きっと店を閉めた後、誰にも見せずにこの手帳を広げたのだろう。
慧くん。烏丸慧。祖母は彼をそう呼んでいたのか。親しみを込めた「くん」づけが、自然すぎてかえって胸に刺さる。祖母と彼の間に、自分が知らない時間が流れていた事実が、ゆっくりと形を帯びていく。
「償える」——何を。何が祖母に償いをさせたのか、その相手は慧なのか、それとも別の誰かなのか。疑問だけが次から次へと湧き上がる。
手帳を閉じて膝の上に置く。布カバーの感触が手のひらに残る。窓の外で自転車のベルが鳴った。たぶん近所の子供だ。祖母はこの時間、店先に出て手を振っていた。それが日常だった。その日常の中に、祖母と慧のあいだに自分が知らないやりとりがあった。見えないところで静かに交わされた言葉と、一冊の本。
息を吐いて立ち上がる。手帳をカウンターの引き出しにしまい、在庫リストを手に取った。引き出しを閉める音が、やけに重く響く。慧が指摘した地下倉庫の整理を先延ばしにするわけにはいかない。明日、彼はまた来る。そのときまでに、せめて地下の空気だけでも動かしておかなければ。
店の奥、廊下の突き当たりにある階段へ向かう。一段目に足をかけたところで、手にしていた携帯の画面が暗転した。圏外。階段を降りるにつれて電波が消えるのは昔からだ。祖母は「地下は本の時間が流れてるから」と笑っていた。その言葉を思い出すと、今は少しだけ悲しくなる。
五段目で立ち止まる。
薄暗い空間に黴とも紙ともつかない匂いが澱んでいる。壁に手を伸ばせば、ひんやりとした漆喰の感触。ここだけ空気が違う。九年分の沈黙が堆積している。本の山が積まれた地下は、過去からの手紙の束のようにも思えた。
慧の左手が浮かんだ。小指の付け根、古い火傷の痕。
高校二年の冬、化学室でアルコールランプを倒したのは自分だ。火が手に燃え移る寸前、慧が左手で払いのけた。そのときの焦げるような匂いも、慧が一瞬息を呑んだあと「なんでもない」と目を伏せた仕草も、全部おぼえている。アルコールの青い炎が一瞬で手を舐め、消えた後も異臭が残った。彼は右手で左手を押さえながら、真っ先に「早季、やけどしてないか」と訊ねてきたのだ。
あの日から九年。彼が庇った傷は、今も彼の手に残り、彼を過去から救わない。
慧は指輪もしていなかった。左手の薬指には何も。それを見つけたとき、なぜか安堵と同時に、深いせつなさが込み上げた。
早季は右手の薬指に視線を落とす。銀の指輪。三年前に祖母から贈られたもので、婚約指輪ではない。でも慧は気づいたかもしれない。気づいて、何も言わなかったのだろう——あの正確な敬語の裏で。もしそうなら、彼の沈黙は妻帯者への遠慮なのか、それとも見間違いであってほしかったのか。
階段の途中で動けなくなる。地下へ降りれば、本の山と在庫リストと向き合わなければならない。それを片付けなければ査定は進まない。進めば、この店の価値が数字になる。その数字が、祖母の生きた証のすべてを決める。祖母が守ってきた空間が、ただの担保物件に変わってしまう。
手すりを握る指に力が入る。冷たい木の手すりに爪が食い込んだ。
祖母の手帳の文字が頭の中で点滅する。「慧くんに本を渡せた。少しは償えるだろうか」。
祖母は慧に何を渡したのか。何を償おうとしたのか。九年前、慧が町を去った理由に、祖母は関わっていたのだろうか。そうかもしれないと思った途端、階段の闇が一段と濃くなった気がした。
携帯の画面はまだ暗い。ここには誰とも繋がれない空間があるだけだ。慧の声も、祖母の声も届かない。静寂が壁のように立ち塞がる。それでも、この静けさの中にこそ、真実が眠っているのかもしれない。
それでも早季は、もう一段踏み出した。靴底が木の階段を軋ませ、地下へ続く冷たい空気を一歩ぶんだけ体に引き寄せる。明日、慧がまた来るまでに、できることをしなければならない——たとえその先に、見たくない事実が待っていたとしても。