梅雨の商店街で、初恋のあなたが再開発を告げに来る
第1話 梅雨が隠した手紙
左膝が疼いて、目が覚めた。
まだ五時前だ。カーテンの隙間から差す光は鈍く濁っていて、空気は絞ったタオルみたいに重たい。梅雨入りだ。私の膝は気象庁より正確で、雨が近づくと決まって古傷がうずく。高校二年の冬、商店街の階段で転んだだけの傷なのに、十年経ってもまだ天気を教える。
痛みをごまかすように布団の上で膝をさすりながら、私は天井を見つめた。今日は定休日明けだ。やることが山ほどある。
「陽だまり」の開店準備は、祖母の時代から変わらない。
サイフォンを磨き、豆を計量し、フィルターをセットする。抽出時間は三分三十秒。祖母トキが絶対に譲らなかった数字だ。一度だけ、常連の松村さんが「もう少し短くても」と言ったことがある。祖母は笑って「これが私の味だから」とだけ答えた。松村さんはそれ以来、文句を言わなくなった。
カウンターの奥でコーヒーを淹れていると、雨が降り始めた。軒先を叩く音が、最初はぽつぽつと、やがてざあざあと大きくなる。左膝の痛みはまだ続いていた。
「千景さん、いるかい」
声と同時にドアベルが鳴った。まだ開店前だ。看板も出していない。
「守谷さん」
守谷直弥は商店街組合の副組合長で、うちの斜向かいで金物屋を営んでいる。六十歳を過ぎているのに背筋が伸びていて、いつもグレーの作業着をきちんと着こなしていた。祖母が生きていた頃から何かと気にかけてくれる、悪い人ではない。ただ、少し距離が近い。
「悪いね、朝早くから。ちょっと話があって」 「まだ開店前で」 「わかってる。でも、どうしても今日中に紹介したい人がいてね」
守谷さんが半身を引くと、後ろにもう一人立っていた。
傘をたたみ、水滴を振り払う仕草。濃いグレーのスーツに、抑えた色のネクタイ。十年前より痩せた輪郭と、それでも変わらない目尻の皺。
伊勢諒だった。
私の指が、カウンターの縁に強張る。
「雨宮……千景さん、でよろしいでしょうか」
伊勢が一歩踏み出して、名刺を差し出した。名刺には「東和不動産株式会社 開発事業部」と印刷されている。名前の横に「伊勢諒」の文字。
「はじめまして。このたび、商店街再開発の担当を拝命しました」
知らないふりを、している。私に向かって、十年前に同じ教室で笑い合った顔で、はじめましてと言う。
「……喫茶店『陽だまり』の雨宮です」
私は名刺を受け取った。指先が震えそうになるのを、カウンターの下で拳を握って抑えた。左膝がずきりと痛む。梅雨のせいだ。雨のせいだ。
守谷さんがにこにこしながら口を挟む。
「伊勢くんはこの地域の出身らしくてね。土地勘もあるし、地元の人間のこともわかってる。心強いじゃないか」
「……ご出身は」
伊勢の目の奥が、ほんの少し揺れた。
「この近くです。もうずいぶん前に引っ越しましたが」 「そうですか」
言えるはずがない。あなたの家は商店街の裏手にあって、高校の帰り道、いつもこの店の前で別れた。夏はアイスコーヒーを飲んで、冬は二人でストーブに当たって。十年経っても、まだこんなにはっきり覚えている。
「再開発の概要をご説明したいのですが、お時間よろしいでしょうか」
伊勢は感情を消した声で言った。昔、先生に叱られた時と同じ声。心を閉ざす時の癖だ。
「どうぞ、おかけください」
私は窓際の席を指した。伊勢と守谷さんが向かい合って座り、私はカウンターに戻る。サイフォンの湯が沸き始めていた。三分三十秒。時間を測るフリをして、私は息を整える。
「計画では、この商店街全体を三棟の複合ビルに建て替えます。一階部分は商業施設として残し、二階以上は分譲マンションです。工期は約三年。既存の店舗には優先入居権が与えられます」
伊勢の説明は淀みなく、完璧にビジネスライクだった。
「工事期間中の補償はどうなるんです」
「営業補償として、月額の想定売上を基準に算出します。詳細はこちらの資料に」
私が淹れたコーヒーを、伊勢は一口も飲まなかった。昔はいつも、私の淹れるコーヒーを「うまい」と言ってくれたのに。
「地域のためですから。このままでは商店街全体が立ち行かなくなります。早めの決断が、皆さんの利益になると考えています」
地域のため。
その言葉に、私は顔を上げた。伊勢は私を見ていなかった。窓の外の雨を見つめている。昔と同じだ。何かを我慢する時、彼は決まって遠くを見る。
「地域のため、ですか」 「はい」
私の手がカップを置こうとして、トレイの縁に当たった。
ガシャン、と音がした。
白い破片が床に散る。コーヒーが黒く広がって、モップを急いで取らなきゃと思った。指先が小さく震えていて、破片をつまもうとした右手を、伊勢の手が遮った。
「危ない」
彼の左手だった。袖口から覗いた手首に、傷だらけの時計が見えた。文字盤に細かい擦り傷が無数について、ベルトは擦り切れて色が褪せている。学生の時から伊勢が大事にしていた時計だけど、こんなに傷が増えているのは、十年間の何かを物語っていた。
伊勢はすぐに手を引っ込めて、袖を直した。
「……失礼しました」
彼は立ち上がり、守谷さんに目配せをする。
「では、また組合の会合で。資料はお手元に置いてください」
守谷さんが空気を読んで腰を上げる。
「じゃあ千景さん、次は組合の会合で。日程はまた連絡するよ」 「……ええ」
ドアベルが鳴って、二人分の足音が雨の中に消えた。
私はしゃがみこんで、割れたカップの破片を拾い集めた。祖母が好きだった古いカップだ。縁に小さな花の絵がついていて、もう同じものは売っていない。
左膝がまた、ずきんと痛んだ。雨は強くなる一方だ。
破片を news紙に包みながら、ふとカウンターの下を見た。モップを取ろうとして手を伸ばした時、棚と壁の隙間に、何かが挟まっているのが目に入る。
茶色い封筒だ。角が少しだけ覗いていて、埃をかぶっている。
こんなところに、封筒なんてあっただろうか。掃除の時は気づかなかった。
私は恐る恐る、封筒の端をつまんだ。
引っ張り出すと、それは古びた和封筒だった。表面に達筆な文字で、こう書いてある。
「ちかげへ」
祖母の字だ。
中には便箋が入っている。厚みがあって、ずっしりと重い。
私は封筒を裏返し、それからまた表に戻した。
指が、封を切りたがっている。でも、心のどこかが止めようとした。開けたら戻れない。そんな予感があった。
雨音だけが、店の中に満ちていた。